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君の声が聞こえない  作者: 葉方萌生
最終章 僕はいま、君の声を探しにいく
41/43

3.

夏音の母親である桃子さんに連れられて、僕はとある大学附属病院に来ていた。かなり大きな病院で、ズラリと並んだ受付前の椅子には、患者さんとお見舞いに来た人たちが、肩を寄せ合うようにして座っている。


「天羽桃子、天羽夏音の母親です」


彼女が受付でそう言うと、受付の看護婦さんが慌てた様子で「少々お待ちください」と言って、席を立った。どうやらお医者さんを呼びに行ったらしい。

それから数分して、すぐに男性の医者が現れ、「こちらです」と足早に僕たち二人を病棟まで連れて行ってくれた。


「ここです」


前を行く医者がとある病室の前で立ち止まり、「まだ記憶が錯乱している状態ですので、あまり混乱を招くような会話は避けていただけるよう、お願いします」と告げた。


僕はそこでようやく、病室の扉に『天羽夏音』という彼女の名前を見つけ、思わず息を呑んだ。

夏音の実家からお母さんの車に乗って病院まで来る途中で、僕は彼女の口から、驚きの事実を耳にしていた。



***



「夏音が目を覚ましたって、どういうことですか……?」


なぜ、死んだはずの彼女に対し、「目を覚ました」なんて生き人の行為を当てはめられるのか、僕には全く理解できなかった。


「あなた、名前は何て言うんだっけ」


「水瀬と言います。水瀬友一です」


「そう。水瀬君、あなたは7月末に起こった夜行バスの事故のことを知っているわよね」


「はい……それで夏音——お嬢さんが、亡くなったと聞いて、東京まで帰って来たんです」


調子の良いことに、道路ではずっと青信号が続いていて、びゅんびゅん車を走らせながら、桃子さんが自分の娘の不幸について語っている。


「水瀬君は勘違いしているみたいね」


「え?」


「その事故ではね、たった一人……意識不明の重体になった女の子がいるのよ」


ここでようやく赤信号に引っ掛かり、桃子さんがハンドルから手を放して横目でチラリと僕を見た。


僕は、彼女の言うことを瞬時には理解できず、あの事故のニュースを思い出そうと必死に頭の中の記憶を手繰り寄せた。


——続いてのニュースです。

今日午前2時28分、東京発大阪行きの夜行バスが巻き込まれた落石事故によって、運転手、乗客16名が死亡しました。軽傷者も8名出ており、当局では死亡した乗客の身元の確認を急いでいます。また、乗客のうち意識不明の重体である——。


——この事故では多数の死傷者が発生しております。意識不明の重体である女性の身元は、現在公表できないとのことです。


「まさか……」


僕は、自分の両手に汗がジワリと滲むのを感じた。


「ニュースを思い出したようね。あの日の事故で、乗客16人が亡くなった。他にも軽症者が何人かいたみたいね……。でも夏音は、その中で一人だけ、死とも生とも言い難い状況のまま、眠ってしまったの」


僕は、夏音の身に起きた真実に、素直に喜んで良いのか分からなかったが、少なくとも「彼女が死んでいる」と思い込み、塞ぎ込んでいた一週間のことを思えば、全身が舞い上がりそうなほど、歓喜していた。


夏音が、生きている。

生きている彼女にこれから会うことができる。

 

その事実だけで、僕はもう一度、前に進める気がした。


「私は夏音が眠ってからずっと後悔してばかりで……早く起きてほしいってずっと思っていたの。……今からようやく会えるのね」


桃子さんが、目尻にうっすらと涙を浮かべながら、夏音への想いをポロリと零した。その姿を見て、高校時代、母親との関係で散々悩んでいた夏音に、「もう大丈夫だよ」と声をかけてあげたくなった。


大丈夫。

夏音はもう、家族と上手くやっていけるんだ。

 

昔の彼女を知っていたからこそ、僕は、夏音と桃子さんの関係が修復されるのが嬉しくてたまらなかった。


しかしそれと同時に、僕の中で一つの疑問が生まれた。

 

現実世界で目を覚ました夏音は、僕のことを覚えているのだろうか、と。

 


***



夏音のお母さんが、『天羽夏音』と書かれた病室の重たい扉を、ゆっくりとスライドさせる。

病室の真ん中で、黒髪を靡かせてベッドに上体を起こし、開かれた扉の方を——つまりは僕たちを見つめ、目を瞬かせている彼女がいた。


「夏音っ」


扉を開けた途端に、気持ちが抑えられなくなったのだろう。桃子さんは、夏音が上半身を起こして座っている入院ベッドまで一目散に駆け寄って、夏音のことを抱きしめた。


「私はこれで失礼しますが、何かあればすぐにお呼びください」


僕たちを案内してくれたお医者さんが、気を利かせて病室から出て行った。


「お、お母さん、ちょっと」


僕が思っていたよりもずっと夏音は落ち着いていて、突然抱き着いてきた母親を見ても、驚いてはいないようだった。


「夏音、ごめんね……。ずっとずっと、あなたに辛い思いさせてばかりだった。あなたのことを蔑ろにして……そうしたら、こんなことになって! とても後悔したわっ」


自分を抱きすくめながら懺悔する母親に対し、夏音は「よしよし」というふうに桃子さんの頭をなでていた。


後ろで二人の様子を見ていた僕は、どちらが母親か分からないなと思ってしまう。


「お母さん、あのね」


泣きじゃくる母親に向かって、今度は夏音が諭すような優しい声で話し始める。


「私、お母さんに、これっぽっちも謝ってほしいなんて思ってないよ。あの日だって——あの日、事故が起きた日、本当はお母さんに、喜んでほしくて大阪に行こうとしたのよ」



***



私の家族は、昔から何度も何度も壊れかけた。


父が火災事故で怪我をして以来、父だけでなく、母までもおかしくなって、私は普通の幸せな家庭での生活を送れなくなってしまったのだ。

本当は私だって、皆と同じように、今日は学校で何があったとか、友達や恋人がどうしたとか、そんな他愛もない話を家族でしてみたいと思っていた。


だから、この些細な望みを叶えるために、いなくなってしまった父のことは諦めつつ、母とだけは、昔みたいに何でも話せる普通の親子の関係に戻りたいと願ったのだ。父が、母に暴力を振るう前、三人で楽しく過ごしていた遠い昔のように——。


「ねぇ夏音、この宝石屋さん知ってる?」


大学2年生の7月、テスト期間の渦中にいた私に、母がそっと自分のスマホの画面を見せてきた。


「宝石屋さん?」


そこには、パールやらダイヤモンドやら、これでもかと盛られたキラキラ光る宝石の写真が載っていた。


「ええ、私もたまにはこういうの、つけてみようかしらと思って」


「ふーん……ずいぶんおしゃれなものが欲しいのね。ひょっとして、また好きな人でもできたの?」


冗談交じりの私の言葉に、母は年甲斐もなくぱっと頬を赤らめ、「ち、違うわよ」と否定しつつも、上目でちらりと私を見た。

私は、「やれやれ」とあきれながらも、でも本当は、母がまだ見ぬ男性との今後を夢見ているということが嬉しかったのは事実だ。


「これ、欲しいの?」


「え、ええ、そうねぇ……誰かプレゼントしてくれる人でもいれば良いのだけれどね」


私の前でこんな発言をする母は、相当あざといと思う。

しかも、よくよく考えてみれば、母の誕生日が8月だということを思い出す。

これは、母を喜ばせられる絶好のチャンスなのではないか。


「あ、でもこの店、大阪にしかないみたいだわ」


「え?」


母の発言に、スマホの画面をもう一度覗き込んむ。

そこには確かに、「大阪本店」という言葉が見つかったが、お取り寄せができないこともないだろう。


仕方ない、電話でお取り寄せをお願いするか。

最初はそう考えたが、私はふととある考えが頭に浮かぶ。


「そういえば、京都に……」


彼が、いるんだっけ……。

彼の通う大学の近くに行けば、彼に会えるかもしれない。

久しぶりに顔ぐらい見せてくれるよね。何でもない、ただの友達として。


「分かったわ、お母さん。私に任せて」


「え? 夏音、何言ってるの?」


「秘密」


7月29日。

無事に大学のテストを乗り切り、晴れて夏休みを手に入れた私は、母の誕生日プレゼントを買うため、それから、懐かしい人に会いに行くため、東京駅から大阪行きの夜行バスに乗り込んだ。

最初に大阪に行って用を済ませ、帰りに少しだけ京都に寄るつもりだった。行く前から断られるのが怖くて事前に連絡などはしていない。もしかしたら彼の方の都合がつかないかもしれないと思ったが、その時はその時だ、と割り切って出かけることにした。


乗客は20数人、といったところだろうか。夜行バスに乗るのは初めてだったので、最初の一時間はあまり眠れなかった。それでも、時間の経過とともにやはり眠気が襲ってきて、私は寝心地の悪さを覚えながらも静かに眠った。


……。

……。


それから何時間経った頃だろうか。

バスが揺れる音と、二人の乗務員さんが小声で話をする声がかすかに聞こえる中で、私はうっすらと目を覚ました。他の乗客は皆深く眠っている様子で、私は世界にたった一人取り残されたような孤独感に襲われる。


そんなふうに、一人で勝手に不穏な空気を感じていた、その時だった。


ゴンッ。


何か硬い物体がバスに直撃したとしか言えないような鈍い音と、キキーーッという急ブレーキの音がして、それから「きゃっ」という他の乗客の悲鳴が聞こえたかと思うと、私の乗っていたバスが、グワンと揺れて、ガードレールにぶつかり、宙に投げ出されたような浮遊感を覚えた。



その後バスの中で起きた出来事を、私は覚えていない。


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