9.
「私……きっと、死んでるんだわ」
彼女の美しい黒髪が、雨に濡れて彼女の頬に張り付いている。きっと僕の顔も、雨や泥で薄汚れているに違いない。
「は……いま、なんて」
僕は、沢田さんに加えて夏音まで変な冗談を言っているのではないかと混乱し、僕の聞き間違いだろうと思い直し、再び彼女に問うた。
「だから私、もうとっくに死んでるの」
「……意味が分からないよ。きみは、今ここにちゃんといるじゃないか」
僕には彼女の言っていることがちっとも理解できずに、少し声を荒げてしまう。
けれど、戸惑いを隠せない僕とは違い、彼女は不自然なぐらい落ち着いているように見えた。いや、実際は冷静さを装っているようにも感じられる。しかし、次に彼女が言葉を発した時、彼女が悲しそうに首を振って、今にも泣き出しそうな表情をしているのを僕は見た。そうだ、沢田さんの話を聞いてここまで駆けてきた彼女が、一番正体不明の不安に襲われているはずなんだ。
「友一が見ている私はきっともう、友一にしか見えない私なの……。私の幻想。この世のものではない私が、あなたにだけ見えている」
なんだって?
思考がちっとも追いついていなかった。およそ現実離れした彼女の言葉が、僕のこれまでの経験から答えを導こうとしている回路をショートさせる。
分からない。
分からないよ。
それなのに、悲しげに言葉を発する彼女を見ていると、この理解不能な状況さえ、簡単に納得させられてしまうような気がして。
僕は思わず大きく首を振って、受け入れられない現実に馬鹿みたいに歯向かおうとする。
「そんなの、信じられるわけ、ないだろ……」
口をついて出たのは、そんな陳腐な抵抗だ。
「友一、思い出してよ。この間病院に行った帰り、喫茶店に行ったよね。その時店員さんが、友一の分しかお水を持ってきてくれなかった。友一は、『凡ミス』だって言ったけれど……きっとあの店員さんには、私のことが見えてなかったのよ」
僕は、彼女の言葉に、その日のことをゆっくりと回想する。
確かにあの喫茶店で、女性の店員は、お冷を一つしか持って来なかった。僕はそれが、彼女の単純なミスだと思い込んでいた。でも、よくよく考えると、夏音の分の水を持ってきてくれた店員は、その水をテーブルの真ん中に置いていた。その時僕は「おかしいな」と思った。だって普通なら、夏音の前に水を置くだろうから。
だけどもし、彼女に夏音の姿が見えていなかったとしたら……?
水を一つしか持って来なかったのも、後で持って来た水を怪訝そうにテーブルの真ん中に置いたのも、納得がいく。
「で、でも、それだけで判断できないだろ……」
彼女が死んでいるという事実を受け入れたくない僕は、必死にその現実離れした仮説を覆す方法を探した。
けれどやはり、夏音は依然として悲しげに眉を潜めて続けた。
「サラリーマン」
「え?」
「あの後電車に乗った時……私、サラリーマンの男にぶつかったでしょう。でも、その男は私に見向きもしなくて、まして謝ることもなかった。でも、その人は全然悪くないの。喫茶店の一件で自分の存在を疑っていた私は……彼の目に、私が映っていないのだと確信したから」
ナンダよソレ。
ソンナコトがアルハズナイ。
彼女ガこの世のモノでないなんて、そんなのオカシイ。
夏の雨が、僕の思考を狂わせているのか。
それとも、彼女の存在を歪めているのか。
今の僕に、目の前の現実とも虚構ともつかないこの状況を受け入れるのは、あまりに酷な話だった。
それでも、彼女の透き通った声が、やはりこの世に存在しないような、今にも聞こえなくなるかもしれないというような焦りをもたらして、僕の不安な気持ちを助長した。
「そしてさっきの桃の言葉が……私にとって、トドメだった」
——水瀬君、本当にそこに、夏音が、いるの……?
「あの言葉を聞いて、私は桃に自分が見えていないのだと知って……苦しくなった」
苦しい。
不安とか焦りとか懐疑とか、僕にはそんな「入口の感情」が渦巻いている中、彼女はそのもっと奥の、苦痛と闘っていた。
けれど僕はまだ、この入口の感情を、上手く制御するに値する情報を持ち得ていない。
「ちょっと待て。夏音が自分の存在を疑っているのは、よく分かった。でも、なんで……いや、いつ夏音は——死んだんだ……?」
そう。
彼女は、自分がいつ死んだのか、知っているのだろうか。
いつの間にか、僕は今この瞬間、世界に自分と彼女だけしか存在していないかのような感覚に陥っている。実際はそんなこともなく、今だって時々僕らの側を通り過ぎる人たちが、僕を一瞥し、何かおかしなものでも見たかのように、気まずそうに目を逸らしてゆく。ああ、きっと道行く人たちには、僕が一人で土砂降りの雨の中、息を切らして突っ立っているようにしか見えないのだ。その事実が、僕の焦燥感をよりいっそう膨らませた。
「私ね、ちょっとだけ思い出したの」
彼女の澄んだ声が、いよいよ現実離れした異質な色を帯び始める。
「夏休みになって、何でかは覚えていないけれど、東京から大阪に行こうとしたのよ。夜行バスで」
「夜行バス……」
「そう。そのバスに乗ってる最中に、突然『ゴンッ』っていう鈍い音がして……。私を含めて眠っていた乗客が皆、何事かと一斉に目を覚ましたのを覚えてるわ」
東京から大阪行きの夜行バス。
僕は、その響きに聞き覚えがあった。
——続いてのニュースです。
今日午前2時28分、東京発大阪行きの夜行バスが巻き込まれた落石事故によって、運転手、乗客16名が死亡しました。
——そのニュースに何か心当たりでもあるのか? ひょっとして、知り合いが事故に巻き込まれたとか……?
——なーに不謹慎なこと言ってるの。そんなわけないじゃない。よくある不幸な事故よね……自分が乗ったバスじゃなくて良かった。
なんてことだ。
夏休みに入ってからずっとニュースで流れていた夜行バスの落石事故。
夏音はこの事故に、巻き込まれていたというのか?
僕は自分の体中を流れている血が、恐怖でサーっと引いてゆくのを感じた。
夏音が、交通事故?
ははっ、なんだそれ。物語か何かの話か。
そんな理不尽な話が、自分の身の回りで起こっていいはずがない。
「そんなの嘘だ」
「嘘じゃないわ……。あの時、バスに何かがぶつかった音がした後、急ブレーキの音がうるさくて。それからバスが揺れて、意識が遠のいて。気が付いた時には、私は京都の町の真ん中にいたのっ……」
夏音は言いながら、右手で頭を押さえて苦しそうに再び表情を歪めた。あの日の真実を「思い出す」という行為が、彼女を内側から痛めつけていることがありありと伝わってきた。
「あんまりだ。そんな真実、あんまりじゃないか……」
本当は、苦しんでいる彼女に気を遣うべきなのに。
これほど現実離れした事実を伝えられた僕自身が、自分を保てなくなりそうだった。
「友一……ごめんなさい」
目の前で頭痛に苦しむ彼女から、僕への謝罪の声が漏れたのを聞いて、僕ははっと我に返った。
今の状況を一番辛く感じているのは、僕じゃなくて彼女なんだと、ようやく悟る。
「きみは、これからどうなるんだ」
僕は今、彼女に対して一番気になっていることを訊いた。
彼女は、僕から目を逸らして、天から降る雨を追うように俯いて、ポツリと呟く。
「……消えてしまうと思う」
「消える……」
「うん。だんだん色んな人から見えなくなってって、遠い存在の人から私が見えなくなって。最後に、一番近いあなたから、私が消えてしまうと思う……」
「そんな……」
「もうね、私いま、どんどん力が抜けてくのっ。友一の声が、遠くに聞こえてってる……」
「嘘だろ」
まさか、そんなに早く彼女が消えてしまうなんて。
だって、たった今、彼女の記憶が戻って、彼女の真実が分かったばかりじゃないか……?
それなのにもう、お別れしなくちゃいけないのか?
そんな残酷なことを、神様は僕らに強いるのか。
「待って。待ってくれ。まだ、いかないで、くれ」
喉の奥から必死に絞り出すようにして、僕は彼女に懇願する。
「友一……ほんとに、ごめんね」
けれど彼女は、「ごめんね」を繰り返すだけで、僕の願いを聞いてくれる様子はなかった。
いや、きっと彼女だって、本当は消えたくなんかないはずで。僕は彼女がどこにも行かないように、右手で彼女の左手を握ろうと試みる。が、僕の右手は彼女の手をすり抜けて、宙を掴んだ。
その事実に、僕は言いようもないほどのやるせなさを覚えて、たまらなくなって、今度は彼女を抱きしめるフリをした。
予想通り、僕がそうした時には、既に彼女の体温を感じられなくなっていた。
そして、何という皮肉だろうか。
朝からずっと降り続いていた雨が、運命に翻弄される僕たちを嘲笑うかのように弱まって、止んだ。
「夏音っ……お願いだ。いかないでくれ」
「……」
「僕は今まで、きみをたくさん一人にしてしまったんだ。だからさ、罪滅ぼし、させてくれよ」
「……」
「ごめん、そうじゃない。僕にはきみが必要なんだ。きみがいない世界は、灰色で、ちっともつまらないに決まってる。だから——」
みっともないと思われるほど、僕は彼女を必死にこの世に引き留めようとした。何度も何度も、夏音の体温を感じようと、神経を尖らせて彼女の身体が戻って来るように心の中で願った。けれど彼女は、一向に温かくはならなかった。
「……友一」
今にも消えてしまいそうな彼女が、消え入りそうな声で、ポツリと、僕の名を呟く。それから、堰を切ったように彼女の中から言葉が溢れ出した。
「私だって、消えたくないっ……! ずっとずっと、ここにいたいよ。でも、もう無理なの。諦めるしかないのよ。私、死んでたけど……最後に友一と会えて、本当に幸せだったわ。でも、幸せだったぶん、ちょっといま、苦しい。神様は、どうして私たちを引き合わせたのかな。どうして私、また友一と出会っちゃったのかな。分からないわ。分からないけど……でも、私をもう一度受け入れてくれて、ありがとう……もう、いくね」
またね。
高校生の頃、文化祭の委員会の帰り道、彼女と二人並んで歩いた。
高校からさほど遠くない距離にある公園で方向が分かれるため、僕らはいつも、そこで手を振って別れていた。
その時から彼女に密かに想いを寄せていた僕は、去ってゆく彼女の後ろ姿が見えなくなるまで、公園の前で立ち尽くしていた。
そんなことを毎回繰り返して。
抱きしめていた彼女が、僕の目の前からいなくなった時、もう二度と、彼女との別れを繰り返すことはないのだと、身に染みて感じた。
雲の切れ間から差し込む夕暮れの光が、彼女をこの世から奪う美しい戦士みたいに、僕の目に映っていた。
第四章 真実 終




