表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君の声が聞こえない  作者: 葉方萌生
第4章 真実

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

37/43

8.

「え?」


もし目の前に鏡があったら、僕は今、途轍もなく阿呆みたいな顔をしているに違いない。それぐらい、沢田さんの言葉は僕にとって急に理解できるようなものではなかった。


「沢田さん、もう一度、言ってくれない……?」


もしかしたら聞き間違いかもしれないと思った僕は、今度こそきちんと彼女の台詞を拾うために、かつてないほど全身全霊で耳をそばだてた。


「だから―、夏音は、本当にそこにいるの?あたし、今日一度も夏音の姿を見てないよ。だって水瀬君しかいないじゃない。夏音の声なんて、ちっとも聞こえないよっ」


雨の音が、忽然と消えた。


いや、実際は依然として雨は降り続いている。色とりどりの傘を差して歩く人々や、雨粒が地面を濡らし、泥が跳ねる様子が、僕の目にはしっかりと映っている。


それなのに、沢田さんの不可解な言動が、存在するはずの雨音をかき消すほどの衝撃を、僕に与えた。


聞こえない、だって?

夏音の声が、聞こえない。

キコエナイ……。


頭が上手く回らない。僕は、何か言葉を発するべきだと思いながらも、考えるより先に、体が勝手に僕の後ろにいるはずの夏音の方を振り返っていた。


「…っ……」


夏音は確かに、そこにいた。

その事実に、内心安堵する。ほら、彼女はちゃんといるじゃないか。沢田さんがおかしなことを言っているに違いない。


「沢田さん、何言ってるの? 夏音はちゃんと、僕の後ろにいるじゃん。驚かせないでよ」


僕は笑いながら沢田さんに向かって、変な冗談はやめるように言った。僕は、彼女がいつもの調子で「ごめんごめん」と謝ってくれることを期待していた。

でも、彼女は表情を硬くしたまま決して笑うことはなく、それどころか僕を奇異な目で見ていた。

……。

僕と沢田さんと、それから僕の後ろにいるはずの夏音の三人の間に、沈黙が流れる。それから、先程までかき消されていた雨音が、急に耳元で悲鳴を上げ始めた。

どうして。どうして沢田さんは、夏音がいないだなんておかしなことを言うんだろう。だって、今朝からずっと、夏音はここにいる。僕の隣に、ずっといるじゃないか。


不意に、ザ、ザ、と僕の後ろからぬかるんだ地面を鳴らす足音が聞こえて、咄嗟に振り返る。

見ると、沢田さんと僕が問答している間ずっと押し黙っていた夏音が、顔を引きつらせて後ずさりしていた。

そして、振り返った僕と目が合った瞬間、彼女は手に持っていた傘を放り出して、その場から逃れるように、元来た道を走り出した。


「夏音! 待って」


僕は、呆けたような顔をしている沢田さんを一瞥し、それから「ごめんっ」とだけ言って、彼女の後を追いかける。


走り出して、僕は激しく後悔した。

ああ、なんで今日、こんなに裾の長いズボンを履いてきてしまったのだろう。走りにくいことこの上ない。

傘を差しながら走っていると、とてもじゃないが前を行く彼女に全然追いつかない。途中、道端に傘を捨て、身一つで彼女を追いかける。

依然として激しさを増す雨が、体中に当たって冷たい。真夏だというのに、雨の冷たさに体力を吸い取られる。

一歩足を踏み出す度に、アスファルトの地面が、僕の足に重たい衝撃をのせた。

けれど、白いワンピース姿で数十メートル先を走っている彼女は、僕なんかよりもずっと苦しい思いをしているに違いなかった。


二年前の秋、僕が彼女と三宅君を目撃して、その後ずっと彼女を無視してしまった時。

彼女は、僕を追いかけてきた。

「友一、待って」と僕を引き留めようとする彼女の気持ちを、あの時僕は一切顧みなかった。

それが今、反対に僕が彼女を必死に追いかけている。走りながら「夏音」と声を張り上げて叫ぶが、彼女には多分聞こえていない。いや、もしかしたら聞こえてはいるのかもしれないが、全身びしょ濡れになりながら走り続ける彼女は、一度も後ろを振り返らなかった。


「……っ」


きっと二年前の彼女も、こんな気持ちだったのだ。

どれだけ必死になって話したい、ちょっとだけでいいから止まってほしいと思っても、その気持ちを蔑ろにされてしまう。

少なくとも当時の僕は、そんな最低野郎だったに違いない。

だから今、どんなに自分が無視されても仕方ないと思う。

でも…僕は、彼女が何に苦しんでいるのか、引き留めてちゃんと聞き出さなくちゃいけない。たとえ嫌われようが、無視されようが、これ以上彼女を苦しめるものを、見過ごすわけにはいかないのだ。


だから、どうか、追いついてほしい。


そんな僕の願いが通じたのか、足が痺れてきて、そろそろ限界かもしれないと本能が告げてきたとき、僕の前を走っていた彼女がのペースが急速に落ちて、ついに全身で息をしながら、コンクリートの壁に手をついて立ち止まった。

僕は、重たい足を引きずりながら、止まっている彼女のもとに必死に駆け寄った。


「夏音……っ」


僕も彼女も、全身びしょ濡れで、しばらく呼吸を整えるのに精一杯だった。道行く人々が怪訝そうな目で僕たちを見ながら、声をかけることもなく通り過ぎてゆく。


「夏音、どうしたんだよ。急に走り出すから、何が起こったのか、全然分からないんだ」


「……」


彼女は、前を向いたまま僕の方を見ようとせず、まだきちんと息ができずに苦しそうにしていた。


「沢田さんが言ったこと、気にしないでいいと思うよ。きっとさ、僕たちを驚かせようとしてたんだ。最近冗談が多いからさ。今度言っておくよ、質の悪い冗談はよせって。沢田さん、おかしいよなあ。言っていい冗談と悪い冗談があるの、分かってないわけじゃないはずなのにね」


大丈夫。大丈夫だよ。

沢田さんの言葉が、彼女をここまで走らせて苦しめているのなら、それはきっと間違いなんだ。だから、きみはもうこれ以上辛くならなくていい――。

胸の中で、彼女を宥めながら、弱々しくてもいい、彼女がこっちを向いて「うん」と頷いてくれるのを祈った。

でも。


「桃は……おかしくなんかないわ」


不意に、ずっと口を開かなかった彼女が、ポツリとそう漏らした。

降り止まない雨が、僕らを包む空気を、より一層重たく暗いものに変えてゆく。


「おかしくないって、どういうこと?」


僕は、夏音の言っていることが分からない。

沢田さんの言葉は、僕からしてみれば、虚言でしかなかったからだ。だって、今僕の目の前に、彼女はちゃんといる。だから、「夏音がいない」なんて、沢田さんが考えついたドッキリ以外の何物でもないはずなんだ。

そんな僕の脳内の声が聞こえたのか、夏音がようやくゆっくりとこちらを振り返り、ずぶ濡れの顔を、悲しそうに歪めて、恐ろしいほど澄んだ声でこう告げた。


「私……、きっと、死んでるんだわ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ