7.
「いいよ」
その日の晩、そろそろ寝床につこうかというときに、夏音に沢田さんと会ってくれないかと頼んだところ、嘘みたいにあっさりとした返事が返ってきて、僕は逆に戸惑う。
「え、本当に大丈夫? てっきり嫌がるかと思ってたんだけど……」
「今までは、嫌だと、思ってたわ。桃に会ったら、何か変わってしまうかもしれない。なんで自分が京都にいるのかも、分かるのかもしれないって。それが判明してしまうのが怖かった。でも最近、自分のことが少しずつ分かってきたかもしれなくて……。まだ予想だし、あんまり良い予想でもないけれど……知らなくちゃいけない。それに、もしかしたら、この嫌な予想が外れてくれるかもしれないって、ちょっとした希望も、あるから」
どうやら夏音は、僕の知らない間に、彼女なりに自分自身について、深く考えていたらしかった。だからこそ、沢田さんに会う決意ができたのだろう。
「でもやっぱり、ちょっと怖いから、桃に会う直前で少し躊躇ってしまうかもしれないわ」
「それは大丈夫。僕がずっと側にいるから。それに、沢田さんのことだ。久しぶりの再会だって、ちゃんと夏音のこと、受け入れてくれるはずさ」
「そうよね……ありがとう、友一」
彼女は、僕の目を見ながら優しく微笑んだ。昨晩はどこか少し思いつめた様子だったため、彼女がまた笑ってくれたことが、僕にとって十分な安心材料になった。
「それじゃあ明日、沢田さんと三人で夕食でも食べに行こう」
「ええ、分かったわ」
明日、彼女の記憶の謎が判明してもしなくても、久しぶりの友人との再会だ。どうか二人が、何事もなくその再会を喜べますように。
心の中で、そっと祈りを呟いて、その日僕は眠りについた。
翌朝、目が覚めると外ではシトシトと雨が降っていた。
「おはよう。今日は雨みたいね」
「ああ、そうみたいだ。夕方までには止むといいけど」
僕はそうぼやきながら、忘れないうちに沢田さんに今晩夏音と会いに行く旨を連絡しておく。
夕方の約束の時間まで、今日は僕も夏音も予定がなかったため、僕たちはテレビを見たり、ネットで動画を見たりして無聊を慰めた。しかし夏音は、今晩沢田さんと会うことに緊張しているのだろうか。テレビを見ながら、時々窓の外をチラチラと眺めて、落ち着かない様子だった。まあ、久しぶりの友人との再会なのだから、仕方あるまい。
沢田さんからメールで返信が来たのは、午後3時頃だった。夕方、5時ごろに指定した待ち合わせの駅に来てくれるらしい。
夏音は相変わらず、細かく降り続ける雨を、部屋の中からぼんやり眺めていた。何もすることがなくなった僕も、彼女と同じように薄暗い外の光景を何となく見やる。
そうやって二人で同じ空間にいながら、お互いに口を開くことなく外の様子を眺めているのだから、他の人から見ると何とも奇妙な光景だっただろう。幸い家の中だったので、誰にも見られずに済んだわけだが。
「夏音、そろそろ行こう」
何もしていないなりに、時間というのは意外と早く進んでいくもので、気が付くと午後4時半を回っていた。待ち合わせの駅まで歩いて20分程かかる。そろそろ出かけなければなるまい。
「うん」
やはり彼女は何となくうわの空という感じで返事をした。それでもちゃんと出かける準備をして、一足先に玄関で僕を待ってくれていた。良かった。多分この様子なら、約束の時間までには、きちんと沢田さんとの再会の心の準備もできているだろう。
「やっぱり雨、止まなかったね」
玄関を出てから、僕は裾の長いズボンを履いてきたことに後悔する。雨が、家にいるときよりもずっと強く、一瞬で足元がずぶ濡れになった。
夏音も普段よりおしゃれをして、真っ白なワンピースを着ており、服が濡れないよう右手で傘を持ち、左手でスカートを抑えながら慎重に歩いている。
「夏音、足元気を付けてね」
「ええ。大丈夫」
今のは「滑らないように気を付けて」という意味だったのだが、僕の足元がずぶ濡れになっているのを見て、きっと彼女は「濡れないように気を付けて」と解釈しただろうな。もちろん、その意味も含んでいたのだけれど。スカートの裾をより一層高く持ち上げた。
駅まで、普段なら20分で着いたはずだったのだが、雨に濡れないように慎重に歩いたせいで、約束の駅に着く頃には、ちょうど17時になっていた。
「水瀬君」
沢田さんはすでに駅前で待ってくれていて、少し離れたところから僕の名前を呼んでくれた。それから「あれ?」というふうに少し首を傾げていた気がしたのだが、気のせいだろうか?
「夏音、沢田さんがいるよ」
僕は、斜め後ろを歩いている夏音の手を取り、沢田さんの元まで彼女を連れて行った。
「……桃」
彼女は恥ずかしいのか、それとも久しぶりの再会でどんな顔をすればいいのか分からないのか、僕の後ろにちょっと隠れるようにして、小さく「久しぶり」と挨拶する。
「……雨ひどいね、水瀬君」
沢田さんは、夏音の挨拶が聞こえなかったのだろうか。一度僕の後方を覗き込むようにしてじっと見たものの、久しぶりの再会にもかかわらず、夏音に対し、何か言葉を発するわけでもなく、僕に向かって他愛もない会話を投げかけてきた。
「え? あ、ああ」
僕も、彼女の態度に疑問を抱きつつ、その場限りの返事をするしかなかった。
「きょ、今日さ、これからどこでご飯食べる?」
僕たち三人の間におかしな空気が漂ってしまったため、沢田さんが慌てて気の利いた発言でこの場の空気を溶かそうとしてくれた。
「そうだな。夏音は、何が食べたい?」
振り返って、後ろにいる夏音に、僕は晩ご飯のリクエストを訊いた。しかし、その時なぜか夏音は、眉を下げ、困ったような、泣いているような表情を浮かべていて、僕は焦る。「どうしたの」と反射的に尋ねていた。
「わ、私は、何でも、いいかな……皆に合わせるわ」
「……」
「何でもいいって、夏音が食べたいもので全然良いんだけどなあ。ねえ、沢田さん」
「……」
前方にいる沢田さんに意見を聞こうと僕が向き直ると、今度は沢田さんが、心ここにあらず、という感じでぼうっと僕と僕の後ろにいる夏音を見ていた。
「……沢田さん?」
二人とも一体どうしたというのだ。
夏音と沢田さんは中学時代の親友で、中学卒業後一度も会っていなくて、五年ぶりの再会のはずなのに、二人とも何故か少しも嬉しそうじゃなかった。
今朝から降り続く雨が、いっそう激しく傘を突き刺すように叩きつけている。
「……水瀬君」
突然、沢田さんが意を決したように、僕の名前を呟いた。
「どうしたの、沢田さん。何か良い案でも思いついた?」
僕は、沢田さんが夕飯の案を閃いたのだと一安心しつつ、彼女の次の言葉を期待して待った。
けれど、次の瞬間に沢田さんが放った言葉は、僕にとってあまりに衝撃的なものだった。
「……水瀬君、本当にそこに、夏音が、いるの……?」




