5.
「夏音、どうかした?」
「う、ううん。なんでもない……」
店員さんが夏音の分のお冷を持ってくるまでの間、彼女は店内を見渡したり、膝の上に置いた自分の手のひらをじっと見つめたりして、動揺を隠せずにいた。その姿は、明らかに「なんでもない」という様子ではなく、自分にとって都合の悪い出来事を発見してしまって、どうやって誤魔化そうか迷っているように思われた。
「お待たせしました、お冷になります。先程は失礼いたしました」
ようやく戻ってきた店員さんが、二つ目のお冷グラスをテーブルの真ん中に置いて、そそくさとまた別のお客さんの元へと飛んでいった。「変わった置き方するな」と疑問に思いながら、僕はすうっとグラスを夏音の方へ移動させたが、僕の仕草を見ていた彼女は、より一層不可解なものでも見つけてしまったかのように、不安気な表情を浮かべていた。
その後は各々パスタやサンドイッチといった食事を頼み、午前中に暑さによって吸い取られてしまった体力を十分に回復させた。食事をとっている間、夏音はどこかうわの空という感じで、自分からは全く口を開かなかった。「どうしたんだ」と見かねた僕が何度か話しかけたが、
「夏音、サンドイッチだけで足りる?」
「うん」
「そ、そうか。今日さ、何でこんなに暑いんだろうな。あの日みたいじゃないか? ほら、僕たちが再会した日。あの時も、外出するのが億劫なくらいめちゃくちゃ暑い日だったよな。家出てから後悔したよ」
「ええ」
「……でも、あの日外に出てなかったらきみに会えなかったわけだし、そう考えるとそんなに悪い日でもなかったな」
「そうね」
「……」
まさに、糠に釘、暖簾に腕押しという反応しか返って来ないため、僕は、「はあ」と深いため息をついて、自分の食事に専念することにした。
しばらくして彼女が食事を終えても、僕と目を合わせることもなく、窓の外を眺めていた。時折お冷グラスを手に取って、コクっと小さく喉を鳴らしながら水を飲んだ。僕も、何となく気まずい空気になるのが嫌で、コンスタントに飲み物を摂取する。本当はもう全然、喉なんか渇いていないはずなのに。
「……そういえば夏音、今日は体調、あんまり悪くないんだよね」
「うん、いつもより」
頷く以外の反応をしてくれたことに内心安堵しつつ、僕は今日これからのことを考えた。
「午後からどうする? 久しぶりにどこか出掛けようか。歩き回るのはきついかもしれないから、映画でも見ない?」
「ごめんなさい。ちょっと今日は……」
「そ、そうだよね。まだ本調子じゃないよな」
「ううん、身体は大丈夫なんだけど、気分が乗らなくて……」
「……そっか。分かった。今日はもう帰ろう」
「うん、ごめんね」
夏音はすまなそうに、また「ごめん」と謝った。ここ最近、彼女は僕に対して何度もその言葉を口にしている。しかしよく考えると、僕も同じくらい彼女に謝っている気がした。気を遣わなければいけない関係でもないのに、いつも気の利いた言葉をかけてやれないことに、歯がゆさを覚える。
喫茶店の扉を開けると、来た時とは反対に、どっぷりとした熱が全身を襲った。初めこそまだ体が冷えていたので、それほど「暑い」と感じなかったが、一歩踏み出した頃には体がすっかり熱を帯びてしまった。
ここから家まで一駅程だったが、このまま歩いて帰るのは夏音の身体が心配だったので、一駅分の電車に乗ることにした。
『電車が発車します――』
僕たちは駅のホームで発車寸前の電車に乗り込む。
「あ、すみません」
今日は外の気温が高いからだろうか、普段より電車に乗っている人の数が多く、隣で夏音がサラリーマンの男の肩にぶつかって咄嗟に謝る声が聞こえた。
「……」
男は夏音の方を見向きもせずに、座席の中央あたりの吊革に掴まった。
なんだあれ、感じ悪いな。自分が人を押し分けて電車に乗り込んで彼女にぶつかったというのに。
「夏音、大丈夫?」
「う、うん。あの人……」
「あの男がどうかした? 感じ悪いよな」
「いや。あの人、やっぱり、まるで……」
夏音は、その先の言葉を紡ぐこともなく、サラリーマンの男を怪訝そうに眺めていた。まるで、何だと言いたかったのだろうか。僕はちょっと気になって彼女に尋ねようとしたが、彼女がゴクッと唾を飲んで何か考え込んでいる様子だったため、結局それ以上何も聞けずに降りる駅に到着してしまった。
スーパーで一週間分の食材を買って、僕らは帰宅する。
「今日は僕が作るよ」
夕方の早い時間。夜までまだ時間があるし、たまには僕がちゃんとした夕食でも作ろうかと彼女に提案する。
「え、いいよ。私そんなに体調悪くないし」
「いいんだ。たまにはカッコつけさせて」
「分かったわ。それじゃあ、お言葉に甘えて」
「甘えちゃってください」
僕は彼女にお茶を出して、自分はキッチンに立った。最近は体調の悪い彼女にちょっとしたものしか作っていなくて、自分のご飯はコンビニ弁当で済ませがちになっていたため、久しぶりの料理という感じだ。
さて、何を作ろう。
冷蔵庫の扉を開けて、先ほどスーパーで買ってきた食材たちをざっと見回し、僕は玉ねぎと鶏肉、卵を手に取った。ついでに冷凍してあった白ご飯をレンジで解凍しておく。
一通り材料を刻み終わると、丁度ご飯の解凍が済んでいたので、フライパンに油を注ぎ、調理を始めた。ご飯と、それからケチャップ。味付けにはコンソメも忘れずに入れておく。こうしてできたご飯を一度器に盛って、最後に溶き卵をフライパンに敷いた。ここまで来れば、もうあと一息だ。
「はい、お待たせ」
部屋でしおらしく待っていた彼女の前に、出来立ての料理を並べた。
「わ、オムライスじゃない。美味しそう」
「だろ。これだけは自信があって」
「へえ、知らなかったわ。友一、こんなに上手にオムライス作るのね」
僕は彼女の言葉に照れ臭さを隠せず、思わず笑みがこぼれた。
それからエプロンを外し、僕も自分の分のオムライスをテーブルに運んで二人で「いただきます」と手を合わせた。こうして二人で食卓を囲むのは、とても久しぶりな気がした。
「うん、味もバッチリ」
「お気に召してくれたようで光栄です、お嬢様」
「なに言ってるのよ、友一ったら、ふざけちゃって」
「ははっ」
「もー」
僕は、彼女とふざけ合えるというだけで、何故か嬉しくなる。多分きっと、ここ最近彼女の身体のことで、お互いに気が張っていたのだろう。こんなふうに昔みたいにバカなことを言って、二人で笑っている。それがどんなに貴重な時間だったのか、この時初めて気づいた。
「あのね、友一」
「ん?」
彼女が、不意にオムライスをすくっていたスプーンを置いて正座になり、改まった様子で僕の目をしっかりと見据えた。
「私、友一に会えて良かったわ」
「な、どうしたの急に」
「さっき友一が、喫茶店で言ってたじゃない。あの日、私と再会したから、良い日になったって」
「あ、ああ。そうだな。それは本当にそう思ってるよ」
「ええ。だから私も、今言っておかなきゃって。もう一度、あなたに会えて良かったって」
何故だろう。
彼女が口にしているのは、ささやかな喜びで、それをただ改めて僕に伝えてくれているだけなのに。
これじゃまるで。
まるで、これから別れを告げるかのように、大きな黒い瞳に差し込んだ光の粒が、小刻みに揺れていて。
「夏音、どうかした? なんかちょっと……」
このまま、目の前から消えてしまいそうだ――。
「なに、不安そうな顔してるの? さっきから言ってるじゃない。友一に便乗して私も友一と同じことを思ったって伝えたかったの」
彼女の思案する瞳が、僕の目の奥のずっと遠くの世界を見ていた。
「そう、だよな。同じこと考えてくれてて良かった。僕たちは、ずっとこのまま、二人でいるんだもんね」
「……ええ、当たり前じゃない」
そう言う彼女が、その晩再び僕の目を見て笑ってくれることは、ついになかった。




