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君の声が聞こえない  作者: 葉方萌生
第4章 真実

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4.

「はっきりとした原因は分かりませんねえ。恐らく、ストレスによる体調不良だと思われますが」


翌日、夏音を連れて僕は近くの内科を訪れた。今朝はこの数日間で一番彼女の体調が良い日だった。30分以上待たされて、ようやく名前を呼ばれて診断してもらった結果は、僕らが期待していたものとはかけ離れたものだった。


「ストレス……」

 

隣で夏音が、「そんな答えが聞きたかったんじゃない」というふうに落胆しているのがよく分かった。まあでも、何か恐ろしい病名を告げられるよりは些かほっとしていて、僕も彼女も目の前にいる中年の医者を訝し気に見つめると同時に、「重病というわけじゃあないんだね」と安堵していたのも事実だ。


いや……でもちょっと待て。

この医者は重要なことを忘れてないか?


「記憶……」


僕が口を開きかけた時、彼女が先にポツリと大事なワードを呟いたため僕は咄嗟に自分の口を噤んだ。


「私、さっき京都に来た時の記憶がないって言ったんですけど、それはどうしてですか……?」


「そうですよ。ストレスで体調が悪くなるっていうのは確かにあると思いますけど、じゃあ彼女の記憶喪失の原因は何なんです?」


傍から見ると、僕はかなり必死になって彼女の記憶喪失の理由を問いただしているように見えたに違いない。


「ああ、それも」


「それも?」


「ストレスで説明がつくんですよ。具体的には解離性健忘と言って、自分にとってショックな出来事、強いストレスを感じた出来事を思い出そうとする際に精神的に葛藤して、その出来事が思い出せなくなるんです。きっと天羽さんの記億喪失もその類だと思います」


「はあ……」


カイリセイケンボウ。もう何が何だか分からない。


「それって……治るんですか?」


「はい、解離性健忘は治るものです。ですが、治すためには、ストレスの原因となっている心の傷を取り除く必要があるでしょうね。もしよければ専門の医師を紹介しますよ」


「それじゃあ、ぜひ――」


「いえ、結構です」


夏音のきっぱりとした声が診察室の中に響き渡り、僕は思わず「え?」と声を上げてしまう。


「あなたがおっしゃる通り……多分ただのストレスだと思います。記憶が消えた原因も、自分で何とか探します」


「はあ、分かりました。また何かあったら相談に来てください」


「はい、ありがとうございました」



「夏音、専門の医者に診てもらわなくて本当に良かったのか?」


病院から出た僕らは、目的もなく街の方に向かって歩いていた。今日は昨日とは打って変わって快晴で、しかも異常なほど気温が高い。数歩前に進むだけでもシャツの中で汗が伝っているのを感じた。


「いいの」


「何で? ストレスが原因とはいえ、記憶喪失なんて怖くないか。ちゃんと正しい対処法が分かった方が……」


僕は、前を行く彼女を後ろから責め立てるようにして追いかける。僕としては、彼女の身体が心配なため、少しでも記憶を取り戻す方法が分かるなら、きちんと専門医に診てもらうべきだと感じていた。


「対処法も何も、原因を取り除かなくちゃいけないのよね。それが分かっただけでも、一歩前進と思ったから」


彼女は、僕の疑問に淡々と答えながら、やはり歩みを止めてはくれない。

それにしても、今日はなぜこんなにも暑いのだろう。ただ歩いているだけなのに、体力の消耗が著しい。アスファルトを照り付ける太陽の日差しが、いつか彼女と再会したあの日みたいに、僕の行く手を阻む強敵となって降り注いでいる。


「それに……怖いもの」


ようやく彼女が立ち止まって不安の声を漏らした時、前方の建物とか、規則正しく並んでいるはずの並木が、ぐわんぐわんと揺らいで見えた。一瞬、暑さにやられて僕の頭がぼうっとしているのかと錯覚する。しかし、それが陽炎だと気づいてからは、彼女の元まで真っ直ぐに歩みを進めた。


「怖いって……原因を知るのが?」


「ううん、原因を知ることじゃないわ。むしろ、原因を知れたら、その時は本当に『ストレスによる解離性健忘』って言うことができるでしょう。健忘だったら、私は怖くない。でも、本当はそうじゃなかったら…?」


「そうじゃないって?」


夏音は何に怯えているのだろう。解離性健忘以外に、彼女の記憶喪失を説明するだけの答えでもあるのだろうか。けれど、彼女はその答えを想定しているように感じた。


「はっきりとしたことは分からない……。でも私、これ以上自分のことを知りたくないわ」


自分のことを知りたくない。

彼女はそう言って下唇をぎゅっと噛み締めていた。


本来なら自分を一番理解しているのは、自分であるはずなのに。彼女の胸の中には、ぽっかりと空洞があるのだ。記憶が抜け落ちてしまった彼女にとっては、得体のしれない怪物の正体を、わざわざ自ら見破りたくないのだと、僕はそこで初めて気づいた。


「……分かった。きみがそう言うなら無理強いはしない。でも、今より症状が酷くなったら病院に行こう」


「うん、ありがとう」


力なく笑う彼女と、彼女のために何もしてやれないもどかしさを覚える僕。

お互いに身動きが取れない状態で、過ぎてゆく一日をただ何となく過ごすしかないのだろうか。がんじがらめだ。


「友一、喉渇かない?」


彼女にそう聞かれると、確かに喉の渇きを強烈に意識した。そういえば、家を出てからずっと水を飲んでいない。これだけ暑くて大量に汗を流していたら、そりゃ喉だって渇いているはずだ。


「渇いてる。ちょっと休憩しようか」


「ええ」


僕たちはちょうど近くにあった喫茶店で、一息つくことにした。こうして彼女と二人で喫茶店に来ると、やはり半月前のあの日を思い出す。あれからもうすぐ三週間が経つが、考え方によっては「まだ」三週間しか経っていない。それなのに、僕たちを取り巻く状況はこんなにも大きく変わっていた。


「いらっしゃいませ」


気持ちの良い挨拶で店員さんが出迎えてくれる。「お好きな席にどうぞ」というので、僕らは窓際の席を選んだ。店内は冷房が効いていて、まるで冷蔵庫の中にいる気分だった。


席について間もなくすると、女性の店員さんがお冷を運んでくる。

しかし、僕はその店員の手元を見て、不思議に思った。なぜなら、お盆の上には、お冷グラスが一つしか載っていなかったからだ。


「ご注文がお決まりでしたら、お伺いいたします」


彼女は当然のように僕の目の前にグラスを置いて、僕が注文を言うのを待っていた。


「あの」


「はい、どうされましたか?」


「お水、もう一つくれませんか」


すると彼女はどうしてか首を傾げ、僕のことをじっと見て、それから夏音が座っている方を一瞥し、


「し、失礼しました。すぐにお持ちします」


と慌ててカウンターの奥に戻っていった。


「何だ今の。新人かな」


これぐらいのことで腹を立てるほど僕は器の小さい人間ではなかったので、「凡ミスだね」と夏音に向かって笑いかけた。


けれど、彼女は僕に向かって「そうだね」と微笑み返すこともなく、何か恐ろしいものでも見てしまったかのように、顔を強張らせていた――。

 



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