8.
「じゃあ、夏音は記憶喪失ってこと?」
僕が夏音を問い詰めてしまった日の翌々日、再びバイトでシフトが重なった沢田さんに、夏音のことを話した。昨日の夏音は前日の頭痛を引きずっていて、とてもじゃないが起き上がれる様子でもなかったため、一日中寝かせておいた。僕は彼女が心配だったため、「病院に行く?」と訊いたが、彼女は頑なに「行きたくない」と首を横に振った。僕としてはちゃんと病院に行ってほしかったが、夏音は「いつものことだから」の一点張りで、僕の言うことを聞こうとはしなかった。そんな彼女を無理矢理起き上がらせて医者に連れて行くこともできず、結局昨日は一日彼女の側についていたのだった。
「病院に行ってないからなんとも言えないな。でも多分、その可能性は高いと思ってる」
「そう……大変だったね。一度夏音に会ってみたいけれど、その様子じゃきっと会ってくれないよね」
「そうだな……今は僕以外の人間と会いたくないみたいだった。僕としても、本当は沢田さんと会って、何か思い出せるきっかけになれば良いと思ってるんだけどな」
「そうね。でも今はそっとしておいた方が良いかもね。今日は夏音、家にいるの?」
「ああ。まだあんまり体調が良くないみたいなんだ。昨日よりはマシになったけれど……」
今日は朝から雨が降り続いているからだろうか、僕らが彼女の話をしている間、幸いか不幸かお客さんは一人も来なかった。そのため、僕ら二人が取り立ててやらなければならない仕事というのは、明日のための仕込みぐらいだった。
「そっか……夏音って、そんなに身体弱かったっけ?」
「ああ、特に対人関係のことになるとストレスでよく腹痛とか頭痛とか引き起こすみたいで」
僕は、あまり夏音の身体のことを他人にべらべら喋るのは良くないと思っていたが、夏音のことを本気で心配している沢田さんにだけは、話しておいた方が良いと感じた。
「対人関係かぁ。それってやっぱり、中学時代のことが原因かな…。あたしが見てる限りでは平気そうに見えてたけど。でも、そうだよね、やっぱり他人に距離を置かれるのは辛いよね」
沢田さんが、ドリンクの材料を混ぜ合わせている途中で手を止め、夏音のことを慮ってしゅんとする。
「確かにそれもあると思う。でも、実は夏音、高校の時もこの前きみから聞いた中学時代と同じような状況だった。あと、家庭でもあまり上手くいってなくて」
僕がそう言うと、沢田さんが驚いて目を丸くした。そりゃそうだろう。中学時代の彼女を知っていた沢田さんならきっと、高校では夏音が上手く回りの友達とやっていけるように願っていたはずだから。だから、僕の話を聞いて残念だと感じたに違いない。
「そう……夏音、大変だったのね」
「ああ。それと、僕も」
「え?」
僕は、沢田さんに自分と夏音の高校時代のことを話すか迷っていた。夏音がこんなふうに人を信じられなくなってしまったのは、僕のせいでもあること。
……いや、彼女の人間不信を助長してしまったのは、紛れもないこの僕だということ。夏音のことを大切に思っている沢田さんには、聞いてもらうべきだろう。
「僕は一度、彼女のことを裏切ったんだ」
***
高2の初夏に恋人同士になった僕たちは、それから一年が過ぎても、円満な交際を続けていた。
彼女と迎えた初めての夏休みには海に行ったり花火大会に行ったりと、定番だが幸せな時間を過ごした。それからクリスマスも、お正月の初詣も、夏音や僕の誕生日も、僕たちはちゃんと恋人らしく二人一緒にいた。
学年が上がり3年生になると、同級生たちは皆大学受験や就職のことを本格的に意識し始めた。もちろん僕たちも例に漏れず、お互いが自分の進路を真剣に考えるようになったことは言うまでもない。
それにプラスして、1年付き合っていると流石に付き合い始めの時よりは「いつも二人でベッタリ」という訳にはいかなくなる。もともとお互いに自分の時間も大切にしながら付き合い続けていたが、大学受験に向けて、今までより一層自分と向き合う時間が増えたと言えば良いだろうか。
そういった環境の変化もあり、交際1年が過ぎると、以前より二人で過ごす時間が減っていたのは事実だった。
それでも僕たちはお互いのことを大切に思っていたし、これからも二人でいることに変わりはないと思っていた。
そう、あの日までは——。
僕たちが交際を始めてから1年半にあたる11月は、僕の誕生月だった。だから僕は、自分が誕生日を迎えるとはいえ、二人の1年半をお祝いするために彼女と久しぶりに出掛ける計画を立てていた。
このところ二人とも受験勉強に必死で、二人でデートに行く時間が全くと言っていいほど取れていなかった。特に夏音が東京の大学を目指していたこともあり、1日のほとんどを勉強時間に費やしているようだった。それに加えて、彼女は依然として母親とも距離を置いたままで、心が休まる暇がないように見えたのだ。久しぶりの気分転換でぱーっとお出掛けでもして彼女を喜ばせようと思った僕の気持ちも自然ではないかと思う。
彼女との記念日をお祝いする計画を立てるのは、僕をウキウキとした気分にさせた。
何せ数か月ぶりのちゃんとしたデートだ。
朝から彼女を外に連れ出して、美味しいものを食べて、心が躍るような場所に行こう。ちょっとぐらい費用がかさんだって構わない。彼女の心の疲れが癒えて、これから受験に向けて頑張るための英気を養ってくれればそれで良かった。
彼女が好きなものを思い浮かべながら、当日のプランを考える。
彼女と付き合い始めたあの日、横浜で屈託なく笑っていた彼女。
そんな彼女の笑った顔を、僕はもう一度側で見たいと思った。
いよいよ計画を立て終わり、当日に訪れる予定の店の予約も取った。これでもう完璧、あとはその日が来るのを待つだけだ、早く夏音に予定を伝えたい―と意気込んでいた日、その日は確か日曜日だった。僕は街に出てチェーン店の喫茶店で勉強でもしていたのだと思う。その帰り道、僕は見てしまった。
夏音が、僕の一番の親友である三宅創と、二人で並んで楽しそうに歩いているところを。




