5.
「だって夏音は……中学では虐められていて、あたし以外に仲の良い友達なんていないはずだもの」
「え……」
沢田さんと飲み始めて一時間半が過ぎようとしていた。僕たちが店にやって来た時よりもいっそうお客さんが増えて、店内が混み出す時間帯。
「ごめん沢田さん。今、何て……?」
ガシャガシャと食器がぶつかる音や、酔って大声を出す客の声がうるさい。
僕たちは今、彼女に関するとても重要な話をしているというのに。
「なあ、そこの店員のお姉さん、さっき頼んだ串はまだかぁ?」
うるさい。
「申し訳ございませんっ。只今店内が大変混み合っておりまして。すぐにお持ちします」
「さっさと頼むよ」
くだらないクレームを恥じらいもなく口に出す彼らが、僕を必要以上にいらだたせる。落ち着け、今はそれどころじゃないんだ。
「水瀬君、大丈夫?」
僕があまりにも思い詰めたように表情を硬くしていたらしく、沢田さんが心配そうに僕の顔を覗き込んできた。
「あ、ああ。ごめん」
僕は一つのことを考え始めると、そればかりに意識がいってしまう自分が情けなくなった。
「夏音が中学の時の虐められてたって話、詳しく聞かせてもらってもいいかな」
「え、ええ」
沢田さんは、どこか落ち着かない様子でポツリ、ポツリと彼女の中学時代の話を聞かせてくれた。
「バイト中にも言ったけど、夏音は“生まれつき”暗記が得意で、陰で人知れず努力するような子だったの」
「うん、それはよく分かってる」
「そうだよね。だから、水瀬君なら想像つくと思うけど、夏音は中学でも成績が良くて、いつも学年一位をとってた」
沢田さんの語る彼女は、高校生の時に出会った彼女とまるで同じで、僕は少し安堵した。僕はもしかしたら、まだどこかに僕の知らない彼女がいることが怖いのかもしれない。
「それでさ……中学生だったらよくあるじゃん。“何でもできちゃう子”って、何故か分からないけれど、周りから距離を置かれちゃうのよね。もちろん、そういうタイプじゃない人もいるよ。例えば、クラスの中心人物で、いつもクラスの空気をつくってる人。そういう“クラスの人気者くん”なら、もし仮にその人がとても成績優秀でスポーツ万能でも、皆遠ざからないと思うの」
“クラスの人気者くん”のところで、高校時代に仲の良かった三宅創のことを思い出した。彼は勉強が得意ではなかったが、もし彼があのままの性格で、成績も優秀だったとしたら、どうだろう。それでもきっと、彼があのクラスの中心だったのには変わりないと思う。
「でも夏音は……夏音は、そういうタイプの人間じゃなかった。水瀬君なら分かるよね」
「ああ」
僕の知ってる彼女は、彼女のことをよく知らない人から見れば容姿端麗で成績優秀。
でも、本当の彼女は、心の内側に、“痛み”を抱えている人間だった。
「最初は夏音も、クラスの皆から“すごいね”って言われて、勉強を教えてほしいって頼まれたり、休み時間に仲良くお喋りしたりする友達もちゃんといたのよ。あたしもその一人だった」
相変わらず、店内は酔っぱらった男女の声が響いていて騒がしい。でも、僕は沢田さんとの話に集中していて、先程よりは周囲の音が遠く感じられた。
「最初はね、夏音も友達に勉強教えたり、話したりするのすごく楽しそうにしてたの。でも、だんだん夏音が教えてくれる勉強方法についていけなくなる子が増えたのよ。だってさ、夏音がいくら努力してるから成績優秀だったとしても、やっぱり才能っていうのもあったと思うの。夏音は1やれば10吸収しちゃうような子だった。それに比べて、他のたち―あたしたちは、凡人も凡人。それに、まだ中学生じゃない? 高校生ならまだしも、中学生でそこまで熱心に夏音から勉強を教わろうとする人もいなかった」
「それは、そうかもしれないな」
「でしょ。あたしだってそうだったもん。それからかな、夏音がクラスメイトから距離置かれるようになったの。大人の世界からしたら、とてもくだらない。本当にくだらないわ。だって夏音は、何一つ悪いことしなんかいないんだもの。だけど」
「子供の世界は違ったってことだね」
「そう。悲しいけど、それが事実。夏音は“何でもできちゃう子”っていうレッテルを貼られて、敬遠された。おまけに可愛いから、女子の中には夏音のことをよく思わない子がたくさんいたのよ。本当、くだらないと思う」
そこまで話して、沢田さんはテーブルの上のビールを一気にゴクゴクと飲み干した。僕も同じようにビールを飲もうとしたれど、既にジョッキの中には一滴も残っていないこと気が付く。いつの間にこんなに飲んでしまったのだろう。
「それ以降は、夏音の友達と呼べる友達はあたし一人だったわ。省かれる以外に、色々酷いこと言われることもあったけど、夏音はいつも、ただ静かに笑ってるだけだった」
沢田さんは、悲しそうに目を伏せてそう言った。
僕は高2の時に、公園で夏音を泣かせてしまったときのことを思い出す。
——本当はね、すごく必死なんだ。どうやったら友達に嫌われないか、省かれないか、成績が落ちぶれないか、不細工なやつだって思われないか、愛想がないって言われないか……家族と、上手くやっていけるか。
——私ね、極度な人間不信なのよ。
僕も初めは、本当の彼女を理解せずに、皆と同じように「綺麗で、成績がよくて、学校中で人気者の女の子」という印象を抱いていた。それは憧れに近かったのかもしれない。けれど夏音があんなふうに人を信じられないと言ったこと、必要以上に周りの目を気にしていたことに、中学での苦い経験が関係していることなんて知らなかった。
「沢田さんは……どうして夏音と最後まで仲良くしてくれたんだ。夏音と仲良くすることで、きみまで省かれる可能性だってあっただろう。それなのに、なんで」
僕は、答えの分かりきったような質問を沢田さんにぶつけてしまう。そんなの、僕自身が一番よく分かっているはずだ。
「夏音はいつも、綺麗な青い絵を描いている子だった」
彼女が、優しい声で昔の夏音のことを話し始めた時、僕はそれが予想外の切り口だっだので、「え?」と思って彼女の目を凝視してしまう。
「3年間美術部で、部活の時間はずっと絵を描いてたのよね。あたしは陸上部だったんだけど、出会ったばかりの頃、部活終わりに美術室まで夏音を迎えに行ったことがあったの。夜7時ぐらいかな、春だったし、外はすっかり暗くて校舎の中にもほとんど人は残ってなかった。あたしが美術室のドアを開けた時も、夏音以外に他の部員はいなかった」
夏音はいつも、綺麗なものを見つけては「絵に描きたい」と漏らしていた。感じる力が人一倍強く、彼女の絵には、描くものの表面的な姿だけじゃなくて、もっと深い奥底の、言葉では言い表せないような真実の姿が描かれていたように思う。特に文化祭の時に見た、寒色を自由自在に操って描いたような絵が、僕の心の中にずっと残っている。
「夏音はそこで、すごく集中して筆を動かしていた。あたしが部屋に入ってきたことにすら気づかないくらい。透き通るような青をキャンバスの上に載せてゆく。彼女が、俗世間の汚れた空気を少しも寄せ付けない不思議なオーラに包まれているような気さえした。あたしはそんな夏音にすっかり魅せられて、その日はずっとずっと夏音が絵を描くところを見てた」
ああ、変わらない。
沢田さんの知ってる夏音と、僕の知っている夏音。
彼女は昔から、彼女のままだったんだ。
「二時間後、出来上がった絵ははっきり言って、何を描いた絵なのかあたしには分からなかった。でも、揺るがないブルーの絵を見て、『この人は、この絵みたいに、自分の“青”を絶対に手放さない。周りの皆から何を言われたって、自分の青い世界を貫く人だ』って思ったの。あたしだけがそれを知ってる。夏音にはとても大事にしてる世界があって、それを知ったあたしは、夏音のことがすごく好きになった。何故だか分からないけど、夏音を見てると、あたしも自分を見失わずに済むような気がしたから」
沢田さんが、記憶の中の夏音を愛おしそうに語った。
この時ばかりは店内の騒がしい物音が、何一つ聞こえなくなった。
「だからあたしは、夏音と友達でいたかったのよ」
正直、とても嬉しかった。
中学時代の夏音を僕は知らなかったけれど、こうして沢田さんの話を聞く限り、僕の知っている夏音と変わらない彼女がそこにいた。
「沢田さん、ありがとう。中学の時、夏音の側にいてくれて」
「違うよ、あたしが夏音に『ありがとう』って思ってるのよ」
「そうか。それでも、沢田さんの話を聞いて安心したんだ」
「それならよかった」
僕は、近くを通りかかった店員さんを呼び止めて、お冷を二つ頼んでおく。
「でも水瀬君、夏音からこの話を聞かなかったの?」
「ああ、夏音は全然中学時代の話はしなかったな。きみは仲良しでいてくれたけれど、他のこともあって話したくなかったのかもしれない。僕も、夏音が話したくないことを無理矢理聞こうとも思わなかったから」
「そう……。やっぱり気にするわよね、中学生だったんだもの。いくらあたしの目に映っている夏音が平気そうに見えても、本当は辛かったってこと、十分あり得るもの」
何度も僕たちの席に料理を運んでくれた店員さんが、お冷を持ってきてくれた。僕はそのお冷を口にすると、すっかり酔いが冷めたように頭がすっきりとした。
「それで、水瀬君。夏音が、もし本当に中学の友達に会いに京都に来たって言ってるんなら、それはきっと“嘘”だと思うわ」
沢田さんが、とても肝心なことを僕に告げる。
そうだ、今までの話が本当なら、今ここにいる夏音は、一体何をしに京都に来たというんだ……?
「夏音は、嘘をついている」
「ええ…。水瀬君、夏音にはっきりと、本当のことを聞きましょう」