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君の声が聞こえない  作者: 葉方萌生
第3章 異変
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2.

「夏音……?」


部屋に戻った僕が呼んでも、テレビ画面を見つめたまま、彼女は振り返らない。

台所の方から、ポタ、ポタッと不規則に水が滴る音が聞こえる。

おかしい。さっき食器を洗った後、水道の蛇口はちゃんと閉めたはずなのに。


「夏音」


二度目に彼女を呼ぶ声は、自分でもびっくりするほど張り詰めたものだった。

彼女がビクッと肩を震わせてゆっくりと振り返る。

背後では、先月末に起きた夜行バスの転落事故のニュースが淡々と流れている。

僕も大学生になってからというもの、夜行バスをよく利用するので他人事ではないと思い、身震いした。

振り返った彼女の眼は、なぜか焦点が定まっていない。


「お、おい」


どうしたんだ、と聞いた時、一瞬だけ彼女が表情を曇らせたような気がしたが、


「友一」


ポツリ、と僕の名を呟いた後、何事もなかったかのように相好を崩した。


「私ったら、今意識がどっか行ってたような気がする」


「は? 何だそれ」


「何でしょうねえ」


ふふっと、彼女が再び笑う。


「そのニュースに何か心当たりでもあるのか? ひょっとして、知り合いが事故に巻き込まれたとか……?」


「なーに不謹慎なこと言ってるの。そんなわけないじゃない。よくある不幸な事故よね……自分が乗ったバスじゃなくて良かった」


「そうだよな。自分とか、知り合いが事故に巻き込まれる確率なんかそうそう高くないもんな。本当に夏音が無事で良かったよ」


そう、もしこのバスに夏音が乗っていたら、僕たちは再会することもなく、2年前にすれ違ったままだったかもしれない。

だから、そうならなくて本当に良かったと思う。この事故で僕らが心配することなんか、何一つないはずだ。


それなのに、僕の胸の中で何かが引っ掛かっている。胸騒ぎがする、とでも言うのが分かりやすいだろうか。きっと先程の彼女のおかしな様子が、僕の中で腑に落ちていないのだろう。

けれどその日はそれ以降、夏音はいつも通り明るい彼女のままだった。



次の日夏音は友達のところに行くと言って朝から僕の家を出て行った。


「何時に帰るか分からないから、今日は先にご飯食べてて」


元々京都には友達に会いに来ていたと言っていたし、僕も快く「分かった」と返事をした。僕自身、今日もお昼からバイトに行かなければならなかったので丁度良い。


「いらっしゃいませ」


昼過ぎに出勤すると、昨日入ったばかりの沢田さんがレジで出迎えてくれた。


「なんだ、水瀬さんか」


「なんだとは何だよ」


「お客さんじゃないからがっかりした」


沢田さんは人と打ち解けるのが早いらしく、既にこんな感じで冗談を言い合える仲になっていた。


「今日は後藤はいないのか」


「うん、昨日も一昨日もシフト入ってたらしいし、今日はお休みみたいです」


僕がバイトに行く日は大抵後藤がいるので、無意識のうちに「彼はいつもいるものだ」と思い込んでいたが、後藤だって僕らと同じ大学生で、アルバイトなのだ。そりゃいつもいつでもいるというわけではない。

後藤がいないので、今日のアルバイト勢は僕と沢田さんの二人だった。


「沢田さん、仕事の方はどう? 順調に覚えられてる?」


「覚え……ようとはしています」


「ははっ。なんだ、自信なさ気だな」


「あたしだって早く覚えたいですよ。でもですね、このお店、覚えること多くないですか? あたし今朝からシフト入ってるんですけど、5回ぐらい同じ質問されましたよ。『カフェオレとカフェラテは何が違うの?』って」


「あーその質問は定番だよ。僕も百回ぐらい聞かれたし。それで、なんて答えたの?」


「カフェオレの方が甘いですよって」


「それだけ?」


「それだけです」


あっけらかんと答える沢田さんの様子に、僕はおかしくなってまた笑ってしまう。自分でもよく分かっていないことを聞かれても物怖じしていないところは、さすが体育会系らしい。


「じゃあ今から僕がドリンクメニューのこと詳しく教えるからさ、ちゃんと覚えておいてね」


「はーい」


それから昨日と同じように、僕は彼女にお店で出している飲み物の知識を教え始める。沢田さんはやっぱり律儀にメモを取って、「ふんふん」と頷きながら僕の話を聞いてくれた。


「沢田さんってやっぱり熱心だな」


「そんなことないですよ。メモとってるってだけで決めてます?」


「いやいや。他の人に比べたら仕事覚えるのも早いし」


実際入って二日目で憶することなくレジの前に立てるのは、彼女のすごいところだ。僕なんか、初めてレジに入った時は緊張して声が上ずってしまった。おかげで目の前のお客さんには何となく目を合わせづらそうにさせるし、とても気まずかった。


「あたしの友達は、もっと覚えるのが早かったんです」


「友達って、きみにメモをとる習慣をつけた友達か」


「そう。英単語とか歴史とか、暗記をたくさんしなきゃいけない教科ってあるでしょう? 中学の時、その子は何でも暗記するのが早くって。あたし、不思議に思って、『どうしてそんなに覚えるのが早いの?』って聞いたんです」


沢田さんは、食洗器で洗い終わったコーヒーカップをナフキンで綺麗に拭きながら言う。


「そしたらその子、こう言ったの。『生まれつき暗記が得意なんだ。だから他の人より早く覚えちゃうの』って」


「へえ、羨ましいなあ」


「そうですよね、羨ましいです。羨ましかったんです。それと同時に、そんなのずるいって思ってる自分がいて」


「ああ、分かるよその気持ち。近しい人だからこそ対抗心が湧くというか」


「そうなんです! でも——」


沢田さんがコーヒーカップを拭き終えて棚にしまおうとした時、奥にいる社員さんから「お喋り多いよ。ちゃんと仕事するように」とお叱りの言葉を頂戴したので、僕ら二人は困ったように眉を下げて笑った。


「怒られちゃいましたね」


「そうだな」


「水瀬さん、今日の夜空いてたりしません?」


沢田さんが小声で僕にそう訊いてきて少し驚く。


「今日の夜か」


「あ、彼女さんいるんだっけ。二人では行かない方がいいかな」


そういえば、今夜夏音は夜ごはんを外で食べると言っていた。それなら僕も、外で食べて帰るか。

沢田さんと二人で食べに行くのには若干の懸念があったが、バイトの人付き合いも大切だから、きっと夏音もそこまでうるさくは言わないだろう。


「行くよ。仕事仲間って言えば大丈夫だと思う」


僕がそう答えると、沢田さんの表情がパッと明るくなった。


「じゃあ、ご飯の時にまた続きを話しましょう」



その日僕らが仕事を終えたのは午後7時頃だった。


「お疲れ様です」


後から来たバイトのメンバーに挨拶をして、僕と沢田さんは店を後にする。

それから、いつもは後藤と行くことが多い居酒屋に沢田さんと二人で入ることになった。


「ふぅ~今日も疲れた!」


店員さんに案内されて席に座ると、肩の荷が下りたかのように沢田さんが大きく伸びをした。彼女はここ二日間慣れない仕事をぶっ通しで続けていたのだ。疲れるのも当たり前だろう。


「生で良い?」


「うん、いい!」


とりあえず、という感じで生ビールを二つ注文。いつも大抵はビールで済ませてしまう。メニューを開かなくても必ず存在する、という安心感があるからね。

飲み物はすぐに運ばれてきた。僕たちは「お疲れ」と乾杯を交わして、ゴクッとビールを飲む。冷やりとした液体が、喉から食道を通って胃に到達するのを感じる。じわじわと体全体に冷たさが浸透していくのがとても心地良い。


「う~ん、仕事終わりのビールは最高だね!」


沢田さんは、仕事中とは違って打ち解けた口調でそう言った。きっとこっちが本当の彼女で、バイト中は“よそ行きの”彼女なのだろう。


「水瀬さん」


「“さん”ってつけなくて良いよ」


「じゃあ、水瀬君。さっきの話の続きしよう」


「そうだったな」


まだビールを少し飲んだだけなのに、彼女はどこか楽しそうな様子で僕の目を見て話し始めた。


「その、超記憶力の良いあたしの友達がね、『生まれつき』なんて言うから、ちょっとムッとしちゃって」


「沢田さんは負けず嫌いなの?」


「うーん、そういうわけでもないけどさ。ほら、やっぱり“何でも持ってる人”って羨ましいじゃん」


 “何でも持ってる人”の部分で、僕はふと高校時代の夏音のことを思い出した。

当時、夏音のクラスメイトや、その他大勢の人が彼女に対して“何でも持ってて羨ましい”と感じていた。僕もその一人だった。


「いつも『いいなあ』って思ってたの。あたしにもそんな能力があったら、成績だってずっと良くなったのにって」


沢田さんは、先程僕が注文しておいたつくねを無意識に口に運びつつ昔のことを思い出しているようだった。僕も話を聞きながら、普段はタレしか頼まないのに、珍しく頼んだ塩味のつくねにぱくついた。

お、なかなか塩味が効いている。


「でもね、あたし後で知ったんだけど……その子は、本当はあたしたちの知らないところでたくさん努力してる子だったの」


沢田さんの口から紡がれる“友達”の人物像が、何だか夏音に似ているなと僕は思った。まあ、「陰で努力する人」はいくらでもいるので、沢田さんの友達がそのうちの一人だったとしても何ら不思議ではない。


「皆が部活行ったり帰宅したりした後も、職員室に行ってずっと先生に質問とかしてたみたい。それで部活も入ってたし、まさに努力家ね」


へえ……そんな真面目な子もいるんだなあ。

ますます夏音みたいだ、と感じている僕は、相当彼女のことを考えすぎている。我ながらちょっと気持ち悪い。


「それ聞いてからさ、あたし自分が情けなくなっちゃった。他人に羨ましいなんて思う前に、自分でできることしなきゃってね」


ノンストップで話続けた沢田さんも、そろそろ疲れが来たのか、いったん深呼吸をして、コクコクと可愛らしい音を立てながらビールで喉を潤す。

それから手元にあった枝豆を手慰みのように口に含んで、ポツリと一言、こう漏らした。


「元気にしてるかなあ……夏音」


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