9.
東京から横浜のみなとみらい駅に到着した時、時刻はすでに18時を回っていた。
夜のみなとみらい駅は横浜という場所が醸し出す雰囲気のせいなのか、きらびやかに輝いて見えた。
「うーん! 一度来てみたかったんだよね、横浜のみなとみらい」
電車から降りて隣で伸びをしている彼女を見ると、先ほどよりもだいぶ表情も明るくなっていてほっとした。
「天羽さん、東京に住んでるのに、今まで来たことなかったの?」
「ないない。だってウチ、ああいう家庭でしょ? 家族でお出かけなんかろくにできなかったの。高校ではあんまり遊ぶ時間も、友達もいないしなあ」
その答えを聞いて、僕は自分がした質問が少し軽率だったのではないかと焦ったが、彼女はそれほど気にしていないようだった。
「ねぇ、それより早く遊びに行こうよ」
彼女は子供のように大きな瞳を輝かせながら、僕の手を掴んだ。
さっきまで僕の方が彼女の手を引いていたのに、今は立場が逆転していておかしかった。
僕は小さい頃みなとみらいに来たことがあったが、その時は母親に手を引かれるがまま歩いた。夜になると、あちらこちらの建物から色鮮やかな光が溢れ出て、小さな僕はまばゆい光の中で溶けて埋もれてしまいそうだった。
「水瀬君はどこ行きたい?」
彼女が振り返って、にこにこしながら僕に尋ねる。
家族でこの場所に来た時とは違って、「女の子と二人きり」という状況が、フワフワと浮き足立つような心地にさせた。
「そうだな~まずは赤レンガ倉庫にでも行きますか!」
彼女を励ますためにわざわざ電車に乗って横浜まで来たのに、彼女に主導権を握らせておくわけにもいかないと思った僕は、彼女の手を握り直して、目的の場所まで連れて行くことにした。
「わっ……」
電車に乗る時といい、今といい、僕の積極的な行動に、彼女は驚いているようだった。
無理もない。普段の僕は、どちらかというと人の指示について行く方だし、まして女の子に対して積極的になったことなんて一度もないのだから。
だから実は今の自分の行動に、自分が一番驚いていたりもする。
でも、いいじゃないか。だってこの場所では、周りでもたくさんのカップルたちが楽しそうにはしゃいでいるのだから。
「へぇ、赤レンガの中ってこんなふうになってるんだ」
観光スポットとしても人気の赤レンガ倉庫に入ると、たくさんのお土産屋さんやアクセサリー屋さんがあって、色んなものに目移りしてしまう。
「ねえ、これすごく綺麗じゃない?」
彼女がそう言って僕に見せてくれたのは、飴玉をモチーフにした青色のストラップだった。
「本当だ、綺麗だな」
「他にもいろんな色があるのね」
「うん、そうみたいだ」
天羽さんは色とりどりのキャンディを手に取りながら、愛おしそうに眺めている。絵を描くのが好きというだけあって、こういった色鮮やかで美しいものには目がないようだ。
「ちょっとそれ貸して」
「え、うん」
僕は彼女が今手に持っていた青と黄色のストラップを受け取り、それをレジまで持っていった。
「はい、これ。お揃い」
そう言って青い方の飴玉ストラップを彼女の手の平に乗せると、彼女は最初とてもびっくりして、それから大事そうにそれをぎゅっと握りしめる。
「ありがとう」
はにかんだ彼女の表情が、僕の心にぽっと灯をつけた。その笑顔を見られただけで、買ってよかったと思える。
僕も自分用に買った黄色のストラップをスマホのカバーにつけて、彼女とのお揃いのものを手に入れられたことに、心の中でガッツポーズした。
それからも赤レンガ倉庫の中のたくさんの店を回ってウィンドウショッピングを楽しんだ。しばらく歩き回ったところで、天羽さんが「ちょっと疲れたね」と言うので、赤レンガ倉庫の中にある人気のパンケーキ屋で休憩することに。
「ね、これすごい! 甘酸っぱくてふわっふわ!」
「疲れた」という先ほどの言葉はどこへやら、イチゴとベリーソースの乗った可愛らしいパンケーキを前に、彼女は子供みたいにはしゃいでいた。
「ふふっ」
「ん、なんで笑うの?」
「だって、きみがあまりにも楽しそうだから」
「私だって楽しむ時は楽しむ人間よ」
「そうだったな。きみは他の同級生の女の子たちと全然違わない、ただの普通の女子高生だ」
「水瀬君、分かってるじゃない」
傲慢かもしれないが、僕は自分だけが彼女をちゃんと理解してあげられている気がして嬉しかった。
実際、彼女は皆が思っているような“愛想がなく、勉強だけに一生懸命になっている人”ではない。確かに頭が良くて、容姿端麗で、絵も上手くて、異性からの人気が高いという、完璧な女の子に見えるかもしれない。
けれど、家族や友人との人間関係に悩んだり、大好きな絵画でもトラウマから赤色が使えなかったりと、人並み以上にたくさんの苦しいことを抱えて生きている。
その上で目の前の楽しい出来事に心を躍らせてはしゃいだり、わくわくしたりと、色んな顔を見せてくれる。そんな彼女に、どうして「愛想がない」なんて言えるだろうか。
彼女と出会ってから今までの間に、誰かの表面的な人柄だけでなく、心を通わせることでその人の真の姿を知ることができるのだと思い知った。
「う~ん! 最高に美味しい~」
口に一杯のパンケーキを頬張りながら、幸せそうに微笑む彼女。彼女は時々、アイスティーにシロップやらミルクやらを加えて、それをストローでかき混ぜる。カラランという、氷がグラスにぶつかる音が、楽しそうな彼女の様子にマッチしていた。
そんな彼女の様子を見ながら、僕も目の前のパンケーキを口に入れた。彼女のものとは違い、バターが乗っただけのシンプルなパンケーキ。それなのに、十分すぎるくらい甘く、いつの間にか僕の心の中も甘く幸せな気分で満たされていった。
辺りが暗くなるにつれ、みなとみらいはたくさんの家族連れや、恋人たちで溢れるようになった。ここにいる誰もが一緒にいる人たちと会話を弾ませていて、この場にいれば、この世で辛いことや悲しいことなんて、何一つ感じなくて済むような気さえする。
赤レンガ倉庫の中をひと通り歩き終えた僕たちは、その後も買い物を楽しんだり、大きな観覧車に乗ったりして、今日の小さな旅を満喫した。
最初は自宅の前で傷ついて震えていた彼女を不安から遠ざけるために、無計画に始まったお出かけだったのだが、気がつくと僕の方が心の底から今のこの状況を楽しんでいた。
まったく、きみはすごい。
いつの間にか、他人を自分のペースに乗せて、しかもその人を幸せな気持ちにさせるなんて。
「すっごい楽しかったね!」
観覧車から降りると、天羽さんが大きく伸びをしながらそう言った。
海の見える広場でひと休みしながら腕時計を見ると、時刻は午後8時20分。残念ながら、高校生の僕たちはそろそろ家に帰らなければならない時間だった。
「今日は急にこんなところまで連れて来てごめんな」
「なんで謝るの」
「いや、なんかさ。強引に引っ張ってきちゃったから、ちょっと悪かったかもって思って」
「そう言う割には水瀬君だって結構楽しんでたじゃん」
「……おっしゃる通りでございます」
僕があまりにも腰を低くして答えるものだから、彼女は必死に笑いをこらえている様子だった。そんな彼女を見ていると、「なぜ自分にこれほど行動力あることができたんだろう」と、突如として湧き出た行動力におかしくて笑いが込み上げてきた。
「ははっ」
気がつくと僕たちは、お互いを見つめながら笑いあっていた。
まったく、本当にわけが分からない。
こうして二人で横浜まで来て、この場所にいるその他大勢の人たちと同じように楽しんでいるなんて。
「水瀬君、今日は私のこと探しに来てくれてありがとうね。あのまま家の前でずっと一人ぼっちでいたら、本当に壊れてしまったかもしれない。でもこうして水瀬君が私の手を引いてくれたおかげで、私、ちゃんとお母さんと向き合えるかもって今なら思えるの。根拠は全然ないけどね。たまには考えすぎずに、正面からぶつかってみようと思う」
「そうか、それなら良かった。僕なんかでもきみの役に立てたのなら、これほど嬉しいことはないよ」
天羽さんは本当に強い人だ。
“他人を信じられない”という人が、正面から人とぶつかろうと思えるなんて、並大抵の勇気じゃないと思うから。
「頑張れ」
陳腐な言葉。けれど誰かの背中を押すのに、これほど単純明快に応援を伝えられる言葉は他にない。
「ありがとう」
ふと隣を見ると、彼女は今にも泣き出しそうな表情をしていた。
けれどそれは「悲しみ」ではなく、「喜び」から来た表情だとはっきり分かった。
「あのね、水瀬君。もう一つだけ水瀬君に言いたいことがあるの」
「ん、なに?」
彼女は恥ずかしそうに目を反らしながら、僕の耳にそっと口を近づけてひとことひとこと大事そうに言葉を紡いだ。
それを聞いた時、僕の気分がどれほど高揚したか、きっと説明しなくても分かってもらえると思う。
「じゃあ、また明日ね」
横浜から東京に戻り、僕は彼女を家の前まで見送りに来た。
「ああ。お母さんと、ちゃんと話して来て。もしまた暴力振るわれそうになったら、僕に電話して。すぐ駆けつけるから」
「うん、分かったわ」
「それじゃ、明日の文化祭の終わりにまた会おう」
彼女が家に入って行くのを見届けた僕は、ようやく一人、自分の帰路についた。
きっと大丈夫。
彼女はとても強くて優しい女の子なんだから。
それに、これからは彼女の身に何か起こったとしても、僕がすぐに助けに行けばいい。
初夏の爽やかな夜風に吹かれて歩きながら、僕は彼女の健闘を心から祈り続ける。
耳には、先ほど横浜で彼女がくれた一番大切な言葉が、何度も何度もリフレインしていた。
“……水瀬君が好き。”
第2章 告白 終