7.
D組の「なんでも展示店」にやって来た僕は、真っ先に彼女の姿を探した。D組の教室の中をちらと覗く。クラスメイトたちが絵画や書道作品、彫刻などを作って展示をするのだと聞いていたため、楽しみでもあった。しかし、少し見た限りでは教室の中に彼女はいない。
中にいたD組の人に尋ねてみたが、
「天羽さんは今日来てないよ」
と言われ驚く。彼女は雪の舞祭実行委員だ。何があっても今日は来るはずだと思っていた。責任感の強い彼女が、自らの使命をほっぽり出して遊びに行くとは思えない。
それに。
——天羽さんもA組においでよ。
——メイド喫茶、一度行ってみたかったし、絶対行くね。
昨日の放課後、彼女はそう言って笑っていた。
それなのに、学校に来ていないのはなぜだ?
何かおかしい、と思いながらも僕はとりあえずD組の教室に入った。
一歩足を踏み入れると、絵具の匂いや墨の匂いが混ざった独特な香りがした。ざっと教室ないを見回す。そこで初めて、「天羽夏音」とサインされた彼女の絵を目にした。
天羽さんの絵のほとんどは青色で描かれていた。空や海を中心としたものが多く、その青に呑み込まれそうになる。彼女はあまり暖色を使わない主義なのだろうか。時々黄色や緑色が使われている絵もあったが、赤色だけはどこにも見当たらなかった。
作品を鑑賞するうちに、ふと違和感を覚える。
教室の中には確かにクラスメイトたちが作った作品が並べられているのだが、全体の4分の3ほどが絵画なのだ。それだけなら別にそこまでおかしくもないのだが、絵画作品の制作者名の欄は、全て「天羽夏音」という名前で埋め尽くされていた。絵画以外には、書道作品や彫刻、文芸作品がぽつり、ぽつりと置いてあるだけだった。
つまり、この部屋に置いてある作品のほとんどが彼女の作品であるということ。
それが何を意味するのか。
——水瀬君はさ、文化祭の準備中に、クラスで揉め事が起きた時、どうしてた?
「ねぇ」
僕は教室で気だるそうに当番をしているD組の女の子に訊いた。
「天羽さん、どこにいるか知らない?」
「今日は来てないよ」
「そうか。なんで休んでんの」
「知らないよ。風邪じゃない?」
つっけんどんな態度で答えてくれるD組の彼女。僕の頭の中で危険信号が明滅した。
なぜ天羽さんは、昨日僕にあんなことを訊いたのか。
その答えが、今目の前にいる彼女のクラスメイトと、教室に並べられたたくさんの彼女の作品を見て思い浮かんだ。僕はD組の教室を飛び出し、まだまだ文化祭の高揚感と熱に包まれる校舎を後にして彼女の家の方へと走っていた。といっても、彼女の家の正確な位置を知らないため、いつも彼女と別れる公園までたどり着き、南の方向へ曲がったものの、そこからは一軒一軒家の表札を見て歩くしかなかった。
そうしてどれくらいの時間歩いただろうか。
気がつくと「天羽」と書かれた表札のある家の前で、自身の肩を抱いて震えている彼女を見つけた。
「天羽さん」
僕が彼女の名前を呼ぶと、彼女はビクッと肩を震わせてこちらを振り返った。きっと僕がここにいることに驚いたのだろう。瞳を大きく開いて僕の目を見つめた。彼女に見つめられた僕は、その場で固まってしまう。
なぜなら、彼女の眼に光がなく表情も虚ろだったからだ。
そして何より、腕や頬にできた傷や打撲の跡が僕の胸を突き刺したからだ。
「……水瀬君」
生気の失われた彼女の眼が言っている。
どうしてここにいるの。
どうして今ここに現れるの。
見ないで、見ないで、見ないで。
彼女の心が、そう叫んでいる。
しかし、次に彼女の口から出た言葉は、僕を拒絶するようなものではなかった。
「水瀬君、どうしよう」
「え?」
「私、もう無理かもしれない」
小さな子供みたいにふるふると頭を振る天羽さん。
「無理って、何が……?」
彼女の言いたいことが、僕に分からなかったわけではない。むしろ、彼女の不安げな表情や体にできた傷と痣を見れば、彼女の身に何が起こったのか、想像するに難くはなかった。
けれど、僕はどうしてもその事実を認めたくなくて。彼女の口から真実を聞き出すまで、僕の想像を“正解”にしてしまいたくなくて。
答えは分かっているのに、知らないふりをして彼女に問いかける。
「天羽さん、どうしたの。今日文化祭に来なかったんだね。D組に行ったんだけど、きみがいなかったから心配したよ」
「ごめんね。ちょっと家で、色々あって……」
俯きながら、彼女はそう答える。
それでも僕は、まだ核心を突くのが嫌で遠まわしな発言を繰り返した。
「きみの絵は、青の世界がとても綺麗だったよ。赤は使わないんだね。変わってるけど、こだわりがあって良いと思ったんだ」
「……うん」
「やっぱりきみには僕にはない才能があって羨ましいよ。憧れでも僻みでもなく、心からそう思うんだ」
「……ありがとう。あのね、」
「これからも美術部で」
「水瀬君。私、もう家族とやっていけない」
横道で話し続ける僕を遮って、彼女はそう言った。
分かっている。今のきみを見れば、そんなのすぐに分かったんだ。
「気づけなくて、ごめん」
「え?」
「ここ最近ずっときみが疲れてたのも、本当は家のことが原因だったんだよね。それなのに僕は、てっきり文化祭の準備で疲れてるんだと思って、何も疑問に思わなかった。だけど今日、D組の教室を訪れてみて分かったんだ。実行委員という責任のある立場にいるきみが、簡単に仕事を投げ出して学校を休むわけがない。だからきっと、今日はどうしても学校に来られない理由があった」
「……」
「それが、家庭の事情だったってことは、今ここに来て初めて分かった。きみの家庭が上手くいっていないことは前に聞いていたのに、気づけなくてごめん」
「それは、仕方ないよ。水瀬君が謝ることじゃないから」
「いや、謝らなきゃいけないんだ。僕はきみの隣できみのことを見てるって約束したから。それともう一つ、気づけなかったことがある」
「もう一つ……?」
「ああ。きみは、クラスメイトともあまり上手くやれてないんだね」
「……」
彼女は、知られたくないことを知られてしまったという感じで気まずそうにした。
「D組に行った時、不思議だったんだ。クラスメイトがそれぞれ展示したいものを持ち寄って開く『なんでも展示店』なのに、展示されているのはきみの作品ばかりだった。そこから、D組の人たちがクラスの企画に協力的じゃなかったことが分かった。だからきみも、この間僕にあんなことを聞いたんだ」
——水瀬君はさ、文化祭の準備中にクラスで揉め事が起きた時、どうしてた?
「A組は上手くいっていると僕から聞いて、きみは僕に自分のクラスの状況を改善する方法を聞き出したかったんだね。でも、上手くいかない原因は自分でも分かっていた。きっとD組の人たちは、D組の企画が『なんでも展示店』じゃなくても、喫茶店だろうがお化け屋敷だろうが、非協力的だったはずだ。なぜならD組の人は」
「私のことが嫌いだから、ね」
彼女は哀しそうに僕の続きを紡いだ。
そう、2年D組の人たちは、彼女のことをよく思ってはいない。皆、と断定するのは早合点かもしれないが、少なくとも大部分の人は天羽夏音のことを疎ましく思っている。
——なんで休んでんの。
——知らないよ。風邪じゃない?
店番をしていた女子は、クラスメイトでしかも実行委員の彼女に対してさも無関心という感じだった。
無関心なのはきっとその女子だけじゃないのだろう。D組の皆に、もう少しだけでも彼女に協力する心があったのなら、展示品だってもっとバラエティに富んでいたはずだ。
「私はね、皆に好かれるような人気者じゃないの。この間も言ったけど、いつも周りになんて思われてるか気になって仕方ないんだ。クラスの人たちがね、私のこと悪く言ってるのも聞いたことあるよ。『天羽さんは頭が良くて可愛いけど冷たいから嫌い。お高くとまってるとこがいや』って。でもね、私だって皆のこと信じられないからおあいこなんだ」
「そんなこと、ないだろ」
なぜ、彼女がそんなふうに悪く言われなきゃならないのか、僕には理解できない。いや、きっと皆本当は彼女が羨ましくて妬んでるだけなんだろう。特に女子は、そういう感情に敏感だから。
「そんなこと、あるんだって」
「違うよ」
「違うって何が?」
「おあいこなんかじゃないってこと。きみは悪くない」
僕がそう言うと、彼女はなぜか泣き笑いのような表情を浮かべて僕の方を見た。
「……私が悪くなかったら、じゃあ誰が悪いの」
ああ、そうか。
彼女は自分が他人から敵意を向けられているのが自分のせいだと思ってるんだ。
きっとそうやって原因を自分の中に求めることで、自分以外の世界の全てを肯定しようとしてるんだ。
「……ははっ」
僕が突然笑い出したので、彼女は訳が分からないというふうに怪訝そうな顔をした。
「きみは、途轍もなく良い人なんだ」
「え?」
「自分に降りかかる災難を全部自分のせいだと思っているだろ。きみは何一つ悪くないことでも、自分が悪いと思い込むことで、他人を守ってるんだ」
「……」
「でも、それは決して良いことなんかじゃない。そんなこと続けてたら、いつかきみが壊れてしまう。今日みたいに、きみが震えて泣いてしまう」
「私、泣いてなんか」
「泣いてるよ。きみは心の中で泣いてる。いいか、他人の責任まで自分で背負い込むのはな、自己犠牲って言うんだ。僕はきみに、自分を大事にしてほしいと思う」
「自分を、大事に……」
「そう。だから、僕にちょっと付き合ってくれないか?」