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君の声が聞こえない  作者: 葉方萌生
第2章 告白
16/43

6.

ジリジリジリジリジリジリッ


マンション中に鳴り響く不快な音で私は目を覚ました。

同じタイミングで母も布団から飛び起きたらしく、しばらく何が起こったのか、二人とも状況を掴めずにいた。

しかし、それからしばらくすると、どこからともなく焦げ臭い匂いが漂ってきて、住人の一人が「火事だ!」と叫んだ時、私は底知れない恐怖に見舞われた。


「逃げるぞ」


その日、父は丁度仕事もなく家で寝ていたが、マンションで火事が起きたことが分かると、落ち着き払った声でそう言った。

母は母で、財布や通帳を鞄に詰めて逃げる準備をしていた。

私は何が何だか分からず、母に手を引かれるまま部屋を飛び出した。


出火元は真ん中の階の部屋で、2階に住んでいた私たち一家は無事にマンションから脱出したが、外に出られた住人はまだ半分程だった。


外ではウーウーという消防車のけたたましいサイレンが住人の不安を煽るように鳴っていた。

怖くなって振り返ってマンションを見上げた私は、思わず「あっ」と声を上げた。


火が、

煙が、

ゴウゴウと嫌な音を立ててマンションを包んでゆくのを見た。


「桃子、夏音、ここにいろよ」


不意に、隣にいた父が何かを決意したようにそう告げ、「あ、待ってあなた!」という母の声すら聞かず、さっき脱出したばかりのマンションに飛び込んでいった。


「パパ……!」


幼い私には、父が何を考えてそんなことをしたのか、その時は分からなかったけれど、父がとても危険な目に遭おうとしていることぐらいは分かった。

しばらくして何台もの消防車がやって来て、消防隊員がマンションの中に入っては、逃げ遅れた住人を抱えて出てきた。


一人、また一人……と無事にマンションから人が助け出される光景を、私も母も、まるで他人事のようにぼうっと眺めていた。


「大丈夫よ、大丈夫……」


母は、私の手をぎゅっと握りながら機械のようにそう繰り返し呟いていた。


消火活動と救助活動が繰り広げられる中、私たちはただひたすら、父の姿だけを探していた。


そうしてようやく、


「パ、パパっ!」


子どもを抱きかかえた父が、おぼつかない足取りでマンションから出てきた。

その姿を見た消防隊員が、父の名前を呼びながら父の元へ駆けつけた。私は母と一緒にほっと胸を撫で下ろす。


と、その時だった。


ゴォォォンッ


聞いたこともないような爆発音が父の背後から聞こえ、その場にいた全員が身を縮こませた。


「あなたっ……!」


母の叫び声が、私の耳をつんざくように響いた。


それから先のことは、よく覚えていない。

ただ、幸いにもマンションには誰も残っておらず、死者が出なかったことは後で知った。

父は爆発の衝撃に巻き込まれ、ひどい怪我を負ったものの、命に別状はなかった。父が助けた子供も無事で、火事による被害は最小限に抑えられた。


しかし、私たち一家に訪れた不幸はその後のことだった。


怪我をした父はリハビリを終えて何とか普段の生活に支障が出ないくらいには回復したものの、後遺症で体の一部が思うように動かなくなり、消防士の仕事を辞めざるを得なくなった。


それから、あまり体を動かさずにできる事務系の仕事に就いたが、消防士という夢を奪われた父は、仕事へのやる気がすっかり消え失せてしまい、生きることの喜びを失くしてしまったようだった。


食欲もあまり湧かないらしく、次第に父は痩せこけて廃人のようになってしまった。

そんな父を見かねて、母はあれこれと手を尽くして家族で出かけようと父を誘ったり、無理にご飯を食べさせようとしたりした。

しかし、その全てが父にとっては煩わしい気遣いだったらしく、父はもう以前のように笑ってはくれなかった。


そんなある日のこと。


「もう、いい加減にしてくれ!!」


父が母を突き飛ばした。


原因は何だっただろう。多分、母の必死の励ましや気遣いに腹が立ったのではないかと思う。


ゴンッという鈍い音がして、母がテーブルの角で頭を打った。その時、私も母も父のやったことが信じられなかった。

その日は父も自分の所業に驚いて即座に母に謝った。

でも、その日から父は母に対して度々暴力を振るうようになった。

おそらく、生活の中で感じるストレスを暴力という形で発散していたのだろう。


何度も何度も母に当たり散らす父を見て、私はもう父のことを“ヒーロー”だなんて、到底思えなくなっていた。


「ママ、大丈夫……?」


「夏音、ごめんね……ママは大丈夫よ」


母は決して私の前で弱音を吐かなかった。きっと、どんなに父に暴力をふるわれても、父のことを本当に愛していたのだろう。


そんな生活が一年続き、ある夜仕事から帰った父が母に告げた。


「別れてくれ」


たった一言、それだけ言って、離婚届を置いた父は家を出て行った。


あまりに突然だったので、母はしばらくの間茫然と机の上に置かれた離婚届の紙を見つめていた。そうしてようやく状況を理解したのか、薄っぺらい一枚の紙に書かれた不器用な父の名前を見ながら、母は泣いた。


母が泣くところを、私は初めて見た。


一体なぜ、こんなことになってしまったのだろう。

私たちは温かで幸せな家庭だったはずなのに。

そう、あの火事さえ起きなければ。

燃えさかる赤い炎さえ見なくて済んだのなら。


そうすれば父は怪我をすることもなく、今も変わらずに私たち家族の“ヒーロー”でいてくれたのかな。

肩を震わせながら泣いている母を見ていることしかできない私は、ただひたすらに悔しかった。


その日から、私はあの日の“炎”を思わせる赤色が大嫌いになった。


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