4.
***
文化祭の準備は、思ったより順調に進んだ。
僕には実行委員など務まらないと思っていたが、それも杞憂だった。
「水瀬君、メニュー表作ったから確認お願い」
「分かった。衣装班の方はどんな感じ?」
「もうほとんど作ったから、あと3日もあれば終わりそうだよ」
「そっか、お疲れ様。あと少し頑張って」
雪の舞祭1週間前の2年A組は、委員である僕が指示をださなくてもいいぐらい、クラスメイトたちが自主的に動いてくれていた。
それもこれも、
「みんな、早く準備終えて水瀬を楽にしてやろうぜ」
と爽やかに言ってくれるクラスの人気者、三宅君のおかげだった。
そんなクラスの様子を見た担任の二階堂先生は、
「な、だから大丈夫って言っただろう」とでも言いたげな様子で僕に目配せした。
けれど、いくら事が順調にいっているとしても、既に先生から成績UPという名の賄賂を受け取ってしまった僕は、中途半端に仕事を投げ出すわけにはいかない。
「三宅君、飾り付け、僕も手伝うよ」
放課後の実行委員会の集まりまで30分程時間があったので、飾り付け班の班長である彼に何かできることはないか訊いた。
「おお、サンキュー。じゃあ一緒に看板作ってくれるか?」
「分かった、やるよ」
僕は、彼が簡単に描いてくれた原案をもとに、看板製作に加わった。
「それにしても水瀬、最近何か変わったな」
「え、そう?」
「ああ。前より明るくなった。何か良いことでもあったのか?」
“良いこと”という彼の言葉に、彼女のことを思い浮かべてしまった僕は、咄嗟にその想像上の彼女を振り払う。なんで、こんなに単純なんだ僕の脳内は……。
「なるほどな」
動揺を隠しきれない僕の様子を見た彼は何かを悟ったのか、非常に楽しそうに一人で勝手に納得して頷いていた。勘のいい奴め。
「まああれだ。俺は今の水瀬、生き生きしててカッコいいと思うぜ。だから自信持て」
まるで僕の心中を見透かしたような彼の言葉に、不覚にも勇気づけられてしまった僕は、素直に「ありがとう」とだけ言って、委員会に向かった。
その日の委員会にも、当たり前のように彼女は出席していた。
先日の帰り道、彼女の弱みを知ってしまった僕は、内心次会う時はどんな顔をすればいいかと緊張していたが、彼女は僕を見ていつものように「やっほー」と小さく挨拶してくれた。
いつも通りの彼女に、僕もほっと一息つき、それからいつものように実行委員会が始まった。
「A組は準備上手くいってる?」
委員会が終わって彼女にそう訊かれたので、僕は「そこそこね」と笑って答えた。
「D組は?」
「うん、私のクラスもなかなか順調だよ。大丈夫大丈夫」
彼女は何度も頷きながら「大丈夫」と呟いた。
だから僕はこの時、本当に彼女のクラスが——いや、彼女自身が何事もなく、普段の生活を送れているんだと普通に思っていた。
後から考えると、彼女の眼の下には大きなクマがあったし、「大丈夫」という励ましの言葉も、まるで自分に言い聞かせているようだった。
でも、少なくともその時の僕には彼女の異変に気づけなくて。
「残り一週間だから委員会のあとも教室で作業しなくちゃいけないんだ。申し訳ないけど、しばらく一緒に帰れない」
と、彼女にお詫びを伝えるだけだった。
「うん、私も今から作業あるし、また委員会でね」
彼女の方も、この時はいつも別れる時と同じように手を振ってその場をあとにした。
委員会が終わってから1時間程度クラスでの準備を手伝い、その日は皆で解散した。
翌日も、翌々日も、A組の「メイド喫茶」の準備は滞りなく進み、雪の舞祭開催前日、僕は最後の委員会に向かった。既にクラスでの準備を終え、明日から頑張ろうと意気込んだ後だった。
委員会の教室に向かう途中、珍しく天羽さんと鉢合わせした。
「お疲れ。今日で最後だな」
「うん、思ったより早かったなあ」
しみじみとそう言う彼女は、心なしか少しやつれて見えた。きっと文化祭前のここ数日間の疲れが溜まっているのだろう。
教室に着くと、僕たちは定位置に着席し委員会の開始を待った。周りを見回すと、どのクラスの委員もどことなくソワソワしているのが分かった。
しばらくすると委員長の先輩がやって来て、明日から2日間行われる雪の舞祭での注意点をいくつか述べた。
それから、「最後まで気を抜かずに」だの、「いち生徒として精一杯楽しむように」だの月並みの忠告もいただいて、本番前最後の委員会が終わった。
今日はもうクラスも解散しているので、あとは明日に備えて大人しく家に帰るだけだ。
「天羽さん、今日は一緒に帰れる?」
「ええ、今日はD組の皆ももう帰っちゃったし大丈夫」
「そっか、じゃあ帰りますか」
「うん」
久しぶりに彼女と一緒に帰れるというだけで、僕は自分の胸が高鳴るのを感じた。
「いよいよ明日だね」
「そうだな。あ~やっと仕事が終わったー!」
「ふふっ。まだ終わってないって」
天羽さんが可笑しそうに笑う。ここ一週間あまり彼女と話していなかったため、彼女が笑うところを久しぶりに見た気がした。
「水瀬君はさ」
学校近くの、僕らが出会った書店をちょうど通り過ぎた頃だった。真剣な面持ちで彼女は僕の方をちらりと見た。
「文化祭の準備中にクラスで揉め事が起きた時、どうしてた?」
なぜ今更彼女がそんなことを訊いてくるのか僕には分からなかったが、僕はその質問に素直に答えた。
「うーん、A組は皆協力的で事件とか起きなかったからなあ」
「そっか、そうだよね。高校生にもなって滅多にそんなこと起きないよね」
「どうしたの、D組で何かあった?」
「ううん。何もないよ。私がいなくても大丈夫なくらい皆働いてくれたし。あ、水瀬君も時間があったらD組の『なんでも展示店』来てね」
「うん、行く行く。きみの絵を見に行かないとね。天羽さんもA組においでよ。て言ってもメイド喫茶だけどね」
「ふふっ。メイド喫茶、一度行ってみたかったし、絶対行くね」
彼女の「絶対行く」という言葉に僕は嬉しくなってついついニヤけてしまった。幸い、横に並ぶ彼女には僕の緩んだ表情が見えていなかったようで安心する。
「それじゃあまた明日から頑張ろうね」
「ああ、またな」
小さな公園の前で彼女と別れた後、僕はふと、結局さっきの彼女の質問は何だったのだろうと疑問に思った。
でもそれ以上に、委員会のあとにこうして二人で帰路につくことももうないのかと、この時ようやく気づいて少し寂しくなった。