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君の声が聞こえない  作者: 葉方萌生
第1章 再会
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9.

立ちすくんでいた彼女は、俯いて震えながら——泣いていた。


まずい。

彼女を泣かせてしまうなんて。思いもよらなくて、慌てて彼女を慰めようとした。けれど何と声をかけても彼女には僕の声が聞こえていないかのように、頷くことも首を横に振ることもしなかった。僕は途方に暮れ、とにかく道端に立ち止まったままでいるのは良くないと思い、彼女を無理やり公園まで連れて行った。

小さな公園だったけれど、木製の椅子がいくつかあった。僕は彼女をそこに座らせ、自分も一緒に隣に腰を下ろす。今度は背中が、夕日の熱を帯びた。影は、先ほどより小さく団子のように丸くなる。彼女はもう泣いてはいなかったが、膝の上で両手をぎゅっと固く握りしめていた。


「……水瀬君」


不意に彼女が僕の名前を呼んだ。


「私の、何が羨ましい?」


ひどく弱々しい声だった。膝の上できゅっと握りしめた手が震えている。影も僅かながらに揺れていて。彼女が感情的になっていることは明らかだった。


「それは……さっきも言ったけど、きみには色んな才能があるから。勉強ができて、皆から好かれてて、それに、か、かわいいし……」


最後の台詞は恥ずかしくてろくに彼女の方を見ることができない。


「そいうのって、誰でも持ってるものじゃないと思うんだ。神様は不公平だからさ、世の中の人全員に平等に優しい訳じゃないから。あ、別にこれは僻みではないんだよ。ただ、きみは神様に選ばれてたくさんのものを手にしたと思うんだ。もちろん、きみの努力に拠るところもたくさんあると思うよ。それでも、頑張っても何も得られない人もいる中で、きみはちゃんと手に入れるべきものを得ている。それが、僕にとってはすごく羨ましいんだ」


僕がそう彼女に本音を告げると、彼女は再び瞬きを繰り返し、自分の足もとを見つめた。


「……私って、そういう人間に見えてるんだ」


「え」


「水瀬君、確かに私は成績を上げるために勉強してる。他人からよく見られたいって思って身だしなみにも気を遣ってる。でも、名前も知らない人から『あいつは愛想がないやつ』とか、『何でもできて羨ましい』って勝手に言われるの」


足もとの一点を見つめたままの彼女は、僕が今までに見てきた、いつもにこにこと笑っている朗らかな彼女ではない。悩みを抱えた、どこにでもいるような女の子だった。


「本当はね、すごく必死なんだ。どうやったら友達に嫌われないか、省かれないか、成績が落ちぶれないか、不細工なやつだって思われないか、愛想がないって言われないか……家族と、上手くやっていけるか」


「家族……?」


「私のお母さんは、お父さんに暴力を振るわれて捨てられて、他人のことが信じられなくなった。新しい義父さんと再婚したけど、その人は何回も浮気して、結局また別れることになったの。それからお母さんもだんだんおかしくなって、ストレスを発散させるために、物に当たったり、私に暴力したりするようになった。最初は優しかった母親が、他人のせいで壊れて、私のこと傷つけるようになった。だから私も、他人を信じることができない」


「そんな……」


「私ね、極度な人間不信なのよ」


握りしめていた彼女の手にポタポタと水滴が落ちる。不思議と、黄昏時の光を反射してきらきら光るそれが綺麗だと思った。今までに見たどんな彼女とも違って、ほんの少し触れただけで今すぐにでも壊れてしまいそうだったのに。


「それでも、私のこと羨ましいって思う?」


彼女の質問に、僕は答えることができずに黙り込んでしまった。彼女の方も、僕が答えられないことを知っていたのだろう。眉を下げて笑ったまま「そうだよね」と頷いた。


何も言えないよね、横にいる彼女の心の中からそんな言葉が聞こえるようだった。


「急にこんな話してごめんね。びっくりしたでしょう? でもこれが本当の私なんだ。ううん、私の“本当”なんだ」


彼女は今、一体どんな気持ちなのだろう。


他人から見た自分と、自分の中の自分が乖離していて、そのことを誰にも分ってもらえない。いや、そもそも人を信じることができない。信じたいと思っても心が拒否してしまう。


そんな彼女の葛藤を知らずに、「羨ましい」だなんて軽率な発言をしてしまった自分がとても情けなくて、彼女にかける言葉さえ見つからない。


何を言えば彼女の心を癒せるのか。

どうすれば僕の声が届くのか。


必死に頭を動かして、彼女に届けられそうな言葉を考える。どんな難解な問題を解く時より激しく。回れ、僕の頭。血がめぐる。考える。頭が熱くなる。それなのに、この瞬間に正確な答えを出すことができなかった。


「天羽さん、ごめん。僕はきみの気持ちをちっとも考えられていなかった。それに今、きみにどんな言葉をかけてあげればいいのかも、正直分からない。だからその答えが見つかるまで、きみの隣にいるよ」


こんなこと言ったって、彼女の心が癒えるわけがないということは分かっていた。まだ出会ってからそれほども経っていないし、そもそも彼女の心に僕は住んでいるのだろうか。

分からない。知りたいと思うけれど、まだそんな勇気もなくて。だから、今僕がきみにあげられる精一杯の言葉を贈ったつもりだ。

チラリと隣を見ると、彼女はもともと大きな瞳をさらに大きくさせ、何か珍しいものを見るかのような目で僕を見つめていた。


「隣に……」


「うん。きみが僕を信用してくれなくても、僕はきみの努力も、頑張りも、一生懸命な姿も、それに、他人を信じられないっていうきみのことも全部本当のきみだって信じて側にいるよ」


今の彼女に、僕の言葉がどれくらい届いたのか分からない。

でも、隣に座っている彼女の表情が、次第に和らいでいくのが見てとれ、僕も少しほっとした。


「水瀬君」


「なに?」


「私も、いつかちゃんと他人を信じられるようになりたい。今はまだ難しいけれど……でも、頑張るから見てて」


先ほどよりも声に張りがあった。彼女はもう、涙を流してはいない。


「隣で、見てて」


僕は彼女の瞳に吸い込まれるように、無意識のうちに頷いていた。

僕たちは、まだまだ出会って間もないけれど、一緒にいることが何故だか必然のような気がしていた。運命、なんて乙女チックなことは言わないけれど、それに近い力が働いている、そんな気がする。


「今日は突然泣いたりしてごめんね。また明日から実行委員の仕事頑張ろう」


「そうだね、お互い頑張ろう」


二人一緒に立ち上がり、それぞれ別の方向に歩き出した。思ったよりも影がすっと伸びて、もうかなり日が傾いたのだと悟る。

今日僕は、彼女の秘密を知ってしまった。しかし、そのことで今後彼女を見る目が変わることは絶対にない。それどころか、皆が知らない彼女を知ることができて嬉しいとさえ思っている。

だからこれからは、彼女が他人のことを信じられるようになるまで見守っていこう。

彼女が道に迷ったとき、泣きそうなとき、ずっと彼女の側にいよう。

そうしていつか、彼女が誰かを心から信じられるようになったら、僕は彼女にこう言おう。

本当のきみを見つけてくれてありがとうって。



第1章 終


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