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セレンディーナ

「ねぇ、(とう)さま。いつになったら町に着くの?」

 アランは行商人をしている父親、ボリス・ヒュウガに大きな緑色の瞳を向けながら尋ねる。アランは新しい町に行くのがいつも楽しみだった。そんなアランの気持ちを感じ取ったのか、ボリスは小さなアランの頭を撫でると微笑んだ。

「もうすぐ着くよ。ほら、あそこに赤い屋根の時計台が見えるだろう? あれがセレンディーナのシンボルなんだ」

「セレンディーナ?」

「お前が産まれた町だよ。あの頃はまだ赤ちゃんだったから覚えていないか……」

「ぼくが産まれた町なの? どんな町なんだろう?」

 アランは自分が産まれた町に興味を持った。何せいつもどこかに向かっている行商人一家だ。それぞれの生まれ故郷が違うことも当たり前だった。

 それでもボリス一家にしてみればアランは自慢の息子だった。ラドグナー大陸の代表国の一つであるトラバール王国の首都、セレンディーナ生まれなのだ。それを誇りに思わない行商人はラドグナー大陸にはいなかった。だが、ボリスは普通の行商人ではない。ボリス自身が自慢に思っているのは、アランの優しさだった。まだ幼いながらも他人を気遣うだけの技量を持っているのだ。

 ボリスが運転する荷馬車は、セレンディーナに続くハラナ平原を小気味良いリズムを刻みながら進んでいる。ハラナ平原はセレンディーナの西方に広がる広い平原で、行商人や旅人の為の道路も自然と作り上げられていた。そのハラナ平原を吹き渡る風はボリスの長い真紅の髪をなびかせている。アランは風に(もてあそ)ばれる父の髪を(つか)もうと父の隣から体を少し浮かし、身をよじりながら手を伸ばした。するとアランの短い真紅の髪も風になびいた。

 アランがそうやってボリスの髪を掴もうと体を御者席(ぎょしゃせき)から少し浮かせていると、隣で荷馬車を運転しているボリスがアランを横目で見て注意した。

「こら。ちゃんとお父さんの隣に座っていないと危ないぞ」

「……はぁい……」

 アランは渋々ボリスの髪を追いかけるのをやめ、大人しくボリスの隣に座った。アランは面白くなかった。もう少しでボリスの髪を掴めそうな時に注意されたのだ。ボリスはアランが不満げに拗ねている事に気がつくと苦笑いを溢す。

「いいかい、アラン。馬車は平原を走っているんだ。馬車が走っている時に御者席から体を乗り出したらどうなるかな?」

「落ちちゃう」

「そうだね。じゃあ落ちない為にはどうしたらいいかな?」

「父さまの隣にちゃんと座っておく」

「ちゃんと分かっているじゃないか。これからはちゃんとお父さんの隣に座っていられるね?」

「うん」

 ボリスはほんの少しアランに顔を向けながら、優しい声音でアランを(さと)した。アランは小さく頷くと、もう二度と荷馬車に乗っている時は父さまの隣から立ち上がらないと心の中で決めた。アランはまだ小さかったが、人に諭されてまで危ない行動をとるほど愚かではなかった。

 何もすることが無くなったアランは広い平原をボリスの隣で荷馬車に揺すられながら眺めた。広い平原はよく晴れた空の下で風に揺れながら輝いていた。平原のあちらこちらに狐や野兎が駆け回り、小鳥がさえずりながら空を舞っている。アランは平原に生きる動物たちを眺めながら、どこかゆったりとした空気を感じていた。

 そんな中でアランは小さな不思議な雰囲気を(かも)し出す黄色い蝶がひらひらと空を舞っているのを見つけた。その蝶はアランの目の前を通り過ぎ、ボリスの向こうに飛んでいった。その蝶を目で追いかけていたアランは自然とボリスを見上げていた。ボリスの瞳は夜が近づく曇った空のような色をしている。ボリスは家族を危険な目に遭わせないように慎重に馬を御しているように見える。アランはそんな父に頼もしさを感じながら、再び平原に顔を向けた。

 平原をぼんやり眺めていたアランは、ふと父が言っていた赤い屋根の時計台に目を留めた。遠くにそびえるそれはトラバール王国一の高さを誇っていたが、平原から眺めていたアランには赤と茶色の小さな塔にしか見えなかった。アランには不思議でしょうがなかった。どうしてあの小さな塔が赤い屋根の時計台だと分かるのか、いくら考えても答えは出ない。アランはボリスがセレンディーナがアランの生まれ故郷だと言ったことを忘れていたのだ。アランの生まれ故郷ならボリスや母サラが行ったことがあるということにすぐに気がついて、この疑問はあっさり解決したはずなのに。

「アラン、何を見ているの?」

 突然、荷馬車の中から褐色の髪をツインテールにした少女が顔を覗かせた。少女はアランよりも五歳程年上のようだった。

「……時計台……」

 アランは突然声をかけられて肩をびくりと振るわせたが、驚いたことを恥じたのか小さく呟いた。驚いたことがばれたくなかったのだろう。

「何よ、その間は」

 エレナは頬杖をつき、にやにやしながら尋ねた。その問いにアランは身を(ひるがえ)して、御者席の背もたれに手をかけると声を荒げる。

「エレナ姉ちゃんが驚かすからだよ!」

「あら、素直じゃない。じゃあ林檎を一口あげる」

「本当!?」

 アランは林檎(りんご)が一口貰えると聞いて、瞳をきらきらと輝かせた。林檎はアランの好きな果物の一つなのだ。だがアランの期待は次の瞬間、見事に崩れ去った。

「ふふっ、また(だま)された」

「……エレナ姉ちゃんの意地悪……」

 アランはエレナに騙されたことに気づくと頬に膨らませる。エレナは弟が思った通りの反応を見せたからか、くすくすと笑った。そんなエレナをアランは怪訝(けげん)そうに見つめる。アランはエレナが自分をからかっていることに薄々気付いていたが、確信が持てなかった。彼はまだ幼い。わずか八歳の少年は大人びたエレナのからかいによく騙されていた。

 エレナは頬を膨らませたまま、怪訝そうに見つめるアランの頬を手で包み少し押すと、アランの唇が小鳥のようになった。アランは新しい遊びだと思ったのか、唇を上下にパクパクと動かす。

 エレナは弟の様子に思わず吹き出してしまった。ちょんと飛び出た唇をパクパクさせて、何か喋ろうとする弟がおかしかった。エレナはこうしてアランで遊ぶのが好きだった。アランは大体は予想通りに動いたが、時たま予期せぬ行動をとることがあった。そう言う時が一番好きだった。

 アランは誰に対しても差をつけること無く、相手に接しようとする。そういう所がヒュウガ家に生まれた者としてふさわしくないと乳母たちは言う。だが養女のエレナはそんなアランがありがたかった。親を亡くした幼いエレナをボリスとサラは、実の息子のアランと変わらない愛情を注いで育ててくれた。確かにエレナはヒュウガ家の血を引いていない。ヒュウガ家の人間と違って、エレナの蒼い瞳には白い光沢がある。普通の人間ならあって当然の光沢が、ヒュウガ家の人間にはないのだ。

「……エレナ姉ちゃん……?」

 アランが心配そうにエレナの顔を覗き込んでいた。いつの間にかエレナの手をどかしたらしい。エレナは不安げなアランの頭を撫でた。こうするとアランは少しは安心するのだ。案の定、アランは撫でられる感触が気持ち良いのか、口元を緩めた。

 エレナがアランの頭を撫でていると、後ろから肩を叩かれた。エレナが振り返ると、そこにはエレナの乳母がいた。彼女は馬車の中でずっと編み物をしていたはずだ。それがどうしてエレナの肩を叩いたのだろう。

「お嬢様、乳母をしっかりと見て下さいね」

 荷馬車の中は生活必需品が所狭しと並んでいる。本来ならここには商品が積み込まれているのだが、この馬車は違った。ボリスが仕入れた商品は、小姓たちが運転する荷馬車に積んである。それにより、ボリスの荷馬車には他の小姓たちの分も含めた生活必需品が積んである。

 ボリスは名の知れた貴族ヒュウガ家当主の弟だ。普通であれば名門貴族の男が、(がら)でもない行商をするなど思いもしないだろう。だが彼はそれをやってのけた。そのおかげで世間では彼のことを貴族商人と呼んでいた。

「何? 今、アランの相手をしているんだけど……」

「若様をあまり甘やかしてはなりません。若様はこのヒュウガ商会を率いることになるお方なんですよ? それどころかヒュウガ家を継ぐこともあるかもしれないのですよ? 分かりましたか」

 乳母は今までにも言って来たことを今一度言っているんですよと念押しをした。彼女は若い頃からヒュウガ家に仕えてくれている。それゆえにヒュウガ家に対する思い入れも強いのだろう。そのせいか彼女は事あるごとに、エレナの態度に文句をつけていた。エレナにもヒュウガ家の娘としての自覚と教養を持たせたいのだろう。

 その彼女の思いは痛いほどに伝わっている。それでもエレナは彼女の期待に十分に応えることが出来ないでいた。理由は簡単だ。エレナ自身がヒュウガ家の血を引いていないことで生じる軋轢(あつれき)を避けたいのだ。もし、そうなってしまったらエレナは立場が無くなってしまう。ヒュウガ家の跡目争いに加わることが出来るアランとは違い、エレナにはヒュウガと言う重い札しかない。

 それを彼女は分かっているのだろうか。嫁に行くしかないようなエレナがヒュウガ家の人間として自覚をもって何になるのだろうか。

「お嬢様は自分がどういう存在か分かっていないんじゃないですかね」

 唐突に二人の会話に割って入ったのは小姓のルタだった。彼はヒュウガ家に仕えて十年になる中堅で、人を見る目が確かなことで有名な信心深い男だった。

「ルタ、どう言うこと?」

 エレナはルタが言ったことの意味が分からずに戸惑っていた。彼はエレナ以上にエレナのことを知っているのだろうか。それともエレナ自身の存在をよく理解しているのだろうか。

「お嬢様はヒュウガ家の娘です。となれば、嫁に行かれたとしてもその相手はヒュウガ家の贔屓(ひいき)を受けることができます」


 すると荷馬車の中からサラが顔を覗かせた。サラは御者席に座っている夫の後ろに来ると、優しい笑みを浮かべながら口を開いた。

「あなた、城壁が見えてきましたよ」

「あぁ、いよいよセレンディーナだ」

 アランはセレンディーナの大きな朱い楼門に圧倒されながらも、前方に見える扉をわくわくしながら見ていた。

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