宇宙人の間接侵略
一人称視点の物語。
私は宇宙人。
この地球という惑星からは見えない、太陽の向こう側を巡る軌道に浮かぶ惑星からやってきた。
それはただの比喩ではない。
ほんとうに宇宙から来た。
銀河標準コード第42恒星系第3.5惑星、地球時間換算で約三千年、私はこの青く喧しく、愛おしい星に滞在している。
私の使命は明確だった。
地球を我が星の庇護のもとにおくこと。
力によらず、戦火を交えず、ただ静かに優しく。
我々の手で地球を包みこめば、人類は初めて幸福という概念を正しく理解するようになるだろう。
だが――私はもう、その大義のためだけに地球にいるわけではないのかもしれない。
現在の根拠地はイタリア半島の南、陽射しと潮風のやさしい港町。
この町に来て六年が過ぎた。
建物の壁はところどころ塗装が剥がれているが、花々はよく手入れされ窓辺にはにぎやかな布が揺れている。
人々は素朴で、よく話し、よく笑う。
無知で愚か――などと報告書には書いたが、最近はその評価に少し自信がない。
私はアンジェリカという名前で暮らしている。
外見は地球人にして十代前半の少女に見えるそうだ。だがこれは擬態ではない。
わが星の平均的な姿形であり、変化させる理由も必要もない。
この姿のせいで時折ナンパをしてくる地球人の少年に出会う。
くだらない。私はその気になれば、精神接触で彼らを五分で従わせることもできる。
だがそんなことをすればこの町での滞在が難しくなるだけだ。
いつものように街の坂を下っていると、声がかかった。
「アンジェリカちゃん、こんにちは」
笑い皺の刻まれた顔、白髪をきちんと結った後ろ姿。斜め向かいのピッツァ屋の老婦人だった。
「こんにちは、おばあちゃん」
彼女はいつも私にちゃん付けをする。
訂正はしない。彼女にとっては私は孫のような存在で、それが彼女の心の安定につながるのならそれでいい。
かつて殷の王を導いたときの私には、こんな些細な柔軟さはなかった。
少しは成長したということだ。
「今日はね、あそこのジェラート屋が新しい味を出したんだよ。アンジェリカちゃん、食べてく?」
老婦人の指差す先に今日私が訪問予定だった店が見えた。
まるでこちらの計画を読まれているかのようだ。
地球人は時々、理屈を超えた鋭さを見せる。
「食べる!」
私は即答した。これは予定調和。
任務の一環としてジェラートの調査は必要であり、同時に老婦人の人心掌握も重要だ。
だが――私の胸にほんの少し、ふわっと甘いものが満ちたのは単に義務のせいではない気がしていた。
ミントとラズベリーのジェラートは、地球の原始的な食文化において驚くほど完成度が高かった。
甘すぎず舌に残らず、けれど忘れがたい。
宇宙植物発酵アイスにすら引けを取らない。
「ありがとね、おばあちゃん。おいしかった」
「うふふ、よかった」
手を振る彼女を店先まで送り、私は帰路についた。
今日の宣撫工作は、実に順調だった。
「おかえり、アンジェリカ」
玄関の扉を開けた私を出迎えたのは、穏やかな声だった。
フィリッポさんは頬にうっすらと白髪混じりの無精髭をたくわえ、いつも通り新聞を脇に抱えていた。
「ただいま、フィリッポさん」
この家に住み始めて、もう六年になる。
地球において身分証も銀行口座も持たずに暮らすのは、なかなかに困難だ。
だが愛する息子がPKFの一員として遠くの紛争地に派遣され、心にぽっかりと穴を空けていた老夫婦にとって私は、ちょうどいい孫娘だったのだろう。
相場より格段に安い家賃で屋根と寝床を得て、私はその代わりに家族のような存在になる努力をした。
――いや、演技をした。
それが始まりだった。
「アンジェリカ、ちょうどいいところに帰ってきたわね」
台所から声が響いた。カリーナさんが、エプロンを腰に巻いて鍋の前で振り返る。
「今日は中華よ。春巻き、ちゃんとカリッと揚がったの。……たぶん!」
「たぶん、ですか?」
「ええ。今週はアジア週間なの。昨日はベトナム、明日は日本に行こうかしらって」
フィリッポさんが「明日はきっと海苔まみれになるぞ」と冗談を言いながらソファへと戻る。
私はカリーナさんに「何かお手伝いしましょうか」と声をかけたが、「いいのよ、部屋で休んでて」と笑顔で手を振られた。
彼女の料理は、たとえ焦げていてもいつもあたたかい。
私はお言葉に甘えて階段を上がった。
天井裏に巧妙に隠された空間圧縮装置を起動し、四次元収納から通信端末を取り出す。
静かに発光するそれを手に取り、私は今日の報告を記録した。
「地球時間2014年9月27日――南イタリア拠点、対象住民の懐柔・接触進行中。老婦人(ピッツァ経営)との接触を強化、定期的な心理観察を継続する。現地社会における孫的役割の有効性を再確認。ジェラートの新種確認。影響因子なし。……以上」
任務のはずだった。
けれど端末を閉じた私の心には、ほんの少しの期待があった。
今夜も、いつものように三人で食卓を囲み、他愛もない会話を交わしながら静かな夜が過ぎていく――そんな小さな希望。
夕食はやはりちょっと焦げていたけれど、春巻きの皮はパリッと音を立てて割れた。
中の具はほんの少し甘く、ほんの少し塩辛くて地球の味がした。
「明日は何にしようかしらねえ」
「海藻サラダはどうだ? 日本料理なんだろ」
「うーん……それアンジェリカちゃん食べられる?」
私は笑ってうなずいた。
「ええ。たぶん大丈夫です。私はなんでも食べますから」
笑い声がひとつ、またひとつ、こぼれた。
地球を統治する。それはきっと間違っていないはずだ。
でもどうして私は、今こんなふうに温かい夜のなかで、少しだけ心をほどいているのだろう。
食後の果物とほんの少しのワインでエネルギーを補給し、私は静かに眠りについた。
次の日、世界がほんの少し変わってしまうとも知らずに。
朝は静かだった。
いつもと変わらぬ港町の朝。
遠くでカモメが鳴き、海の匂いがゆるやかに窓辺を通り過ぎてゆく。
階下のキッチンからは、かすかにパンを焼く匂い。
私が目覚めるには十分すぎる穏やかな始まりだった。
……けれど、それはほんの数秒の錯覚だったのだ。
「アンジェリカ……おばあちゃんが……」
玄関先で声を震わせるカリーナさんの姿に、私は言葉をなくした。
「……え?」
「ピッツァ屋のおばあちゃんが……夜のうちに……眠るみたいに……」
言葉が耳に届いてもすぐには意味にならなかった。
昨日、一緒にジェラートを食べた。
ミントとラズベリーの冷たさがまだ舌に残っていたような気がするのに。
人間はこんなにも突然、終わるの?
カリーナさんは声を押し殺して泣いていた。
フィリッポさんが彼女の肩にそっと手を置き、ふたりは寄り添い合うように佇んでいた。
私はただそこに立ち尽くしていた。
動かない身体。熱くなる目の奥。
思考は正常だった。
私は宇宙人。
彼女が高齢で死が近いことも――生物学的には予測可能な変数にすぎないことも、分かっていた。
けれど、それなのに。
涙がひとしずく頬を伝って落ちた。
理由はわからない。なぜ泣いているのか、なぜ胸がこんなにも痛むのか。
彼女は観察対象だった。
地球人懐柔のためのごく小さな一駒にすぎなかったはず。
けれど私は、あの人の手のぬくもりを知っていた。
ジェラートを差し出す笑顔も、陽だまりのような声も、風にゆれるエプロン姿も、すべてが今、私の胸を締めつける。
私は宇宙人。
老衰、死、喪失――それらは生物の構造における自然な終点。感情を揺らす理由にはならないはずだった。
それでも私は思ってしまった。
あの世というものが本当にあるのなら。
彼女が、もしそこから地球を見ているのなら。
私がいつか実現するだろう統治の未来を、どうか誇らしく見届けてほしいと。
「……ごめんね、おばあちゃん」
私は誰に向けるでもなく、そうつぶやいた。
この町での日々は、少しずつ変わっていくのかもしれない。
でも私はまだここにいる。
この星を知りたくて、愛したくて、導きたくて、ここにいる。
私は宇宙人。
地球に来て三千年。
今、少しだけ地球人の心を知った気がした。
その日、港町の空はどこまでも澄んでいた。
まるで何事もなかったかのように。
ピッツァ屋の店先には白い布が垂らされ、戸口には花が静かに手向けられていた。
通りを歩く人々も、どこか声を潜めているようだった。
私はその様子を遠くから見つめていた。
別に泣くためじゃない。ただ情報収集として必要な観察だ。
――けれど。
胸の奥で言葉にできない何かが、まだしんと響いていた。
「お前、学校どこ?」
突然、声をかけられた。
見上げると十七、八歳ほどの地球人の少年。
ややくせ毛、やたらと白い歯を見せて笑っている。
「制服じゃないけど、どこかの寄宿舎生? なんなら案内するよ、町も悪くないぜ」
……またか。
私がこの惑星で出会ってきた異性という分類の若年個体たちは、時折、まるで縄張りを誇示する猿のように、よくわからない目的で話しかけてくる。
「未成年に手を出していいの?」
イタリアでも未成年の保護は厳格に行われている。
未成年ではないが、この手の手合いを追い払うには一番手っ取り早い。
私が首をかしげながら問い返すと、少年は言葉につまり、それから照れ隠しのように笑って走り去った。
思えば地球人の多くは、私の見た目に惑わされる。
だがこれは擬態でも演技でもない。私の本来の姿。
成熟とは、長く生きた先に手に入れる深さのことであって、外見の話ではない――そんな考えを、彼らに理解させるのは難しい。
帰宅すると、カリーナさんが静かにテーブルを拭いていた。
「……ねえ、アンジェリカちゃん」
ふいに彼女が言った。
「人って、いつかいなくなるってわかってるのよね。頭ではちゃんと」
「でも?」
「でもね、心は置いてきぼりなの。昨日までいた人が今日はもういないなんて、どうしても納得できないのよ」
私は頷いた。
理解はしていた。
地球人の生体構造、神経伝達、寿命の平均、死の定義――理論上はすべて知っていた。
でも置いてきぼりの心は、きっと理屈の外にある。
「カリーナさん」
私は少しだけ迷ってから言った。
「私ね、もっと長くこの町にいたいって思ってる。……いいですか?」
彼女は少し目を見開いて、それからやさしく微笑んだ。
「もちろんよ。家族でしょう?」
――家族。
その単語の響きが胸の奥にそっと沈んでいく。
私の使命は地球の支配。
けれど、そのためのやさしさとは一体なんなのだろう。
支配するとは守ること?
導くこと?
それとも共に生きること?
私は宇宙人。
それは事実。
けれど今、地球人の心に、少しずつ触れている気がしていた。
夜、日誌を記す手が少し止まった。
指が宙に浮き、そのまましばらく私はペン先を見つめていた。
「――現地住民との感情的接触、進行中。影響評価は要再検討。以上」
わずか一行の追記は宇宙の中で最も静かな決意だった。
玄関のベルが鳴ったとき、私はちょうど庭先でレモンの木を観察していた。
地球の柑橘類は概ねよく出来ていて、特にこの土地の太陽を浴びた果実は香りが高い。
収穫と摂取の周期には――
「ロレンツォだわ!」
カリーナさんの声に私の思考は一瞬で中断された。
扉の向こうから聞こえたのは、懐かしくも低く響く男の声。
「ただいま、マンマ」
それは半年ぶりの息子の帰還だった。
フィリッポ夫妻の息子。
かつてはこの家に暮らしていた青年。今は遠い地で、国連のPKFに所属して活動している。
「アンジェリカも元気だったか?」
その声に呼ばれ、私は玄関先へと歩いた。
階段の上から見下ろしたその人は、思っていたよりも――いや、記録していた映像データよりも少しだけ髪が短くなっていた。
その目尻に少しだけ疲れと、そして笑みの皺が刻まれている。
「おかえりなさい、ロレンツォさん」
名前で呼んだ瞬間、彼は少しだけ眉をあげた。
そしてすぐに口元を緩める。
「おかえりなさいなんて、ずいぶん他人行儀になったな。前はお兄ちゃんだったろう?」
言われて私は、ほんの少しだけ視線をそらした。
いや、お兄ちゃんと呼ぶことに抵抗があるわけではない。
ただ――あまりに言葉が近すぎるような気がして。
「……地球人の家族構成を学習して、呼称の適切化を試みています」
と、私はもっともらしい答えを返す。
ロレンツォは笑った。
「そっか。じゃあ、君が呼んでくれた日が、俺にはちょっと特別だったってことだな」
「……」
どんな反応を返すべきか一瞬迷って、私はひとつだけ頷いた。
なぜだか胸の奥がくすぐったい。
論理回路ではなく、感覚でそう感じた。
「君、身長……伸びてないな」
ロレンツォがひょいと手をのばして、私の頭の上に手を置いた。
――!!
不意打ちだった。
この行為は、どうやら地球文化において親しみや愛情の表現とされるらしいが、突然行うのは反則だ。
「その手、無断接触です」
「はは、ごめん。でも前より元気そうで安心した」
元気そう。
それは私が地球で学んだ中で、たぶん存在を喜ばれていることを表す言葉。
「あなたこそ、怪我はなかったのですか?」
私は静かに問いかけた。
「ちょっとだけ切り傷作ったけどね。戦場ってのはやっぱり物騒だよ。……でもここに帰ってくると落ち着く。特に君がいるとね」
「……そうですか」
脈拍が一瞬だけ速くなった。
気のせいか体温調整機能に微細な揺らぎが生じた。
私は目をそらして言った。
「お風呂、沸いています。夕食は魚料理らしいです」
「ありがとう、アンジェリカちゃん」
ちゃん。
ロレンツォがそう呼ぶときだけ、不思議と嫌ではなかった。
彼の足音が階段を上がっていく。
私の胸の内に、なんとも形容しがたい波紋が静かに広がっていた。
翌朝、陽射しはやわらかく、町はゆっくりと目を覚ましていた。
石畳の隙間に小さな草が揺れて、港からは潮と果物の匂いが風に混じって漂ってきた。
「今日は少し町を歩かないか?」
朝食のあと、ロレンツォがそう言った。
私はほんの一瞬だけ迷って、それから頷いた。
「構いません。……観察にもなります」
彼はくすっと笑った。
「じゃあ観察に付き合ってもらおうかな。ガイド付きで」
道はいつも歩いているはずの小径だった。
なのに今日は少しだけ世界の輪郭が柔らかく見えた。
何を話したかは、正直あまり覚えていない。
それくらい足元ばかり見ていた気がする。
ふとロレンツォが立ち止まった。
「アンジェリカ」
「はい?」
「……その、手、つないでもいい?」
唐突に思えたその言葉。
けれど彼の目は真剣で――それなのに、どこか不器用な少年のようでもあった。
「私は子供ではありません」
そう返すと彼は少しだけ困ったような顔をして、それから苦笑した。
「そうだな。君は、誰よりしっかりしてる。……でも、それでも今は少しだけ、誰かの手を握っていてもいい気がして」
私は小さく息をのんだ。
そして、そっと彼の手に自分の手を重ねた。
その瞬間――
彼の指が、私の指の間にやさしく、確かに絡んできた。
握るのではない。絡めるという、この地球独特の行為。
手のひらと手のひらのあいだに、互いの心が透けて見えるような繊細な距離感。
私はどこかぎこちなく、でも逃げることなくそのまま手を預けた。
「冷たい?」
「少しだけ。でも……気持ちいい」
そんな会話のあと、ふたりで並んで歩いた。
港沿いの道、風はゆるくて朝市では果物の籠が並んでいた。
買い物をするわけでもなく、ただ歩くだけ。
でもそれだけで――充分だった。
「君とこうして歩くと、世界が静かに見えるな」
「そう……ですか?」
「うん。君が隣にいると変なことをしなくて済むんだ」
「変なこと?」
「格好つけるとか、無理して笑うとか。そういうの」
私は、それがどんな感情なのか正確にはまだ解析しきれなかったけれど、きっとそれは私にとっても初めての反応だった。
指はつながれたまま。
手のぬくもりが心までじわりと伝っていくようで、私はその日の日誌に何と書けばいいかきっと今夜も悩むだろうと思った。
手をつないだまま歩いた時間は思っていたよりもずっと短かった。
けれどあのぬくもりは、まだ指の奥に残っていた。
それは皮膚感覚ではなく、記憶として。
部屋に戻った私は、薄く開いた窓のそばで腰を下ろし手帳型の通信端末を静かに開く。
今日も日誌をつける時間だった。
だがなぜだろう――今日の私は、報告書の形式では書けなかった。
かわりに、こう記した。
本日、現地住民との接触活動において非予定接近。感情的親密性の兆候あり。
……繰り返すような既視感。
愛されることに私は慣れている。
けれど今回はそれが少し違って見える。
私は、これまでの任務でも多くの地球人に愛されてきた。
敬愛、憧れ、信仰、あるいは依存。
時に王に、時に神に、時に偶像に似た存在として。
その全ては計画のうちにあった。
地球人の心を読み、望む言葉を与え、望む姿を演じることで、愛されるよう誘導してきた。
でもロレンツォの愛し方は違う。
彼は私に敬語を使わない。
崇めも恐れもしない。
時にからかい、時に眉をひそめ、時に子供扱いさえしてみせる。
そしてそれでもなお――私の手を取った。
私は、自分が宇宙人であることを忘れたことは一度もない。
けれど彼の目のなかには、私がどこの誰かという事実が、まるで関係ないように映っていた。
それが少し怖くて、でも少し嬉しかった。
愛されている――そんな確信めいたものが胸の奥にあった。
そして私は、そこにほんのすこしだけ応えたいと思っている自分を知った。
その夜、私は眠れなかった。
遠くで波の音が絶え間なく打ち寄せていた。
指先に、まだ彼の指の形が残っている気がした。
――これは観察記録ではない。
でも今夜だけは許される気がした。
私はそっと、もう一行、日誌に書き加えた。
私は愛されている。
今も。きっと、また。
その夜、風が少し強くなった。
レモンの木がかすかに揺れて、窓のすきまから潮の匂いが忍び込んできた。
ロレンツォは、スーツケースのファスナーを閉じていた。
明日の早朝には、再び遠くの任務地へと発つ。
「見送りはいいよ。早いし、眠ってて」
彼はそう言ったけれど私は頷かなかった。
明日のことを話すと、なぜだか胸が締めつけられる気がしたからだ。
「……ちょっとだけ、外、歩くか」
彼が声をかけてきたのは、カリーナさんが台所の電気を落としたあとだった。
私はうなずいて玄関先で軽い上着を羽織った。
空には星が浮かび月はひどく丸かった。
ふたりきりで並んで歩く道は、朝とは違ってひどく静かだった。
「アンジェリカさ」
ロレンツォが不意に口を開いた。
「君、すごく静かだよね。……でも内側にはいっぱい詰まってる」
「……どういう意味ですか?」
「うまく言えない。でもさ、君が誰かのことを本当に大事に思ったとき、ちゃんとそれが伝わるんだなって今日思った」
私、足を止めた。
ロレンツォも止まってこちらを見た。
「君のそういうところ、俺……すごく好きなんだ」
胸の奥で何かがぽん、と鳴った。
それが告白というものかどうかは定義しきれなかった。
でも確かに彼の目は、まっすぐだった。
「任務に戻るのが嫌になりそうだよ」
苦笑まじりに彼は言った。
「この町もこの家も、マンマもパパも……君も。全部置いていくのは、やっぱりきついな」
「私は……ここにいます」
しばらく迷って、それだけを言った。
もっと言いたいことはあった。
だけど地球の言語では、うまく形にできなかった。
ロレンツォがそっと手を伸ばしてきた。
昨日と同じように私の指に彼の指が絡まる。
「君、ほんとうに温かいんだな」
「え?」
「なんとなく……冷たい人かと思ってた。最初は」
「私はあまり喋らないからですか?」
「そうかも。でも今は……そばにいると安心する。何も喋らなくても落ち着くんだ」
私は何も言わなかった。
けれど、指をそっと少しだけ強く絡めた。
それが答えだった。
この感情は、たぶん愛というものなのだろう。
地球で、ようやく知った感情。
報告書には記せない、たった一行のほんとう。
私は宇宙人。
地球時間で換算するなら、三千六百四十二年と二十一日。
そのすべてを意識の明瞭なまま生き、記憶を保ち続けてきた。
帝国の王たちが盛衰を繰り返し文明が砂となって風に流れるさまを、ただ静かに見届けてきた。
私は子供ではない。
この身体が地球人にとって幼く見えるとしても、私の中には星々の運行と無数の死を超えてなお残る思考がある。
だから分かる。
この感情は――甘い。
握った指のあたたかさ。
交わした視線。
何気ない言葉のひとつひとつが、まるで内側に砂糖水のように染み込んでくる。
私は本来、こういうものに対しては冷静だった。
たとえば王の寵愛。神託として受けた信仰。
どれも手段に過ぎず、評価し利用し、必要に応じて切り捨ててきた。
でも――今、私の中にあるこれは。
理性で計ることができない。
たぶんではない。きっとでもない。
――これは、恋だ。
どこかで薄々気づいていた。
ただ認めたくなかった。
それを認めてしまえば、私はもう以前の私ではいられないから。
「アンジェリカ」
呼ばれて私は振り返る。
ロレンツォは、カバンを肩にかけ家を出る直前だった。
太陽はまだ昇りきらず、街路樹の影が細く地面を裂いていた。
「……行ってくる」
その声は思ったより小さくて、やさしかった。
私は、小さくうなずいてただ一言だけ返した。
「……気をつけて」
それ以上、何も言わなかった。
言えなかった。
行かないでとは言わなかった。
言えば私の中の何かが決壊してしまう気がしたから。
ロレンツォがゆっくりとこちらに歩み寄る。
そしてもう一度、指を絡めてくる。
「帰ってきたら……また手、つないでくれる?」
その言葉に私は目を伏せて、ひとつだけ頷いた。
そのときの私は、もう任務の主体ではなかった。
私はただのアンジェリカだった。
数千年を生きてきたという自負は、この町の朝風にすうっと溶けて消えていった。
この惑星の言葉で、「さよなら」と「またね」は似ている。
でもそこに込められる想いは、決して同じではない。
私はそれをいま学んでいる。
ロレンツォが玄関に立ち、重たいカバンを肩にかけたまま、私を見つめていた。
空はまだ蒼く、町の屋根瓦に朝の光が届ききらずにいる時間。
人々は眠っていて、風の音すら聞こえなかった。
「……アンジェリカ」
彼の声は、私の名前を呼んだだけ。
でもその一言にすべてが含まれていた。
私は一歩、近づいた。
彼も一歩、近づいてきた。
距離がなくなる。
そっと彼の手が私の頬に触れた。
その掌は、少しだけ乾いていてそして温かかった。
それが戦地に立つ男”の手だということを、私はようやく思い出した。
「……ごめん」
「何が、ですか」
「ほんとうは、こういうことは……しちゃいけないのかもって思ってた。でも、どうしても……」
言葉はそこで途切れた。
彼が顔を近づけてきた。
私は瞳を閉じなかった。
それが受け入れるということだと、どこかで分かっていたから。
唇がそっと重なった。
やわらかくて温かくて、思っていたより静かな触れ方だった。
でも胸の奥が震えるほど確かだった。
千年でも、二千年でも、触れたことのなかった感情が、いま私の中で音を立てて生まれていた。
唇が離れると、今度は彼の腕が私の身体を包んできた。
私は抵抗しなかった。
小さな身体をすっぽりと包み込むようなその抱擁はあまりに優しくて、あまりに安心で、涙が出そうになった。
「……帰ってきたら、また……」
彼が囁いた言葉に私は黙って頷いた。
言葉が出なかったのは、きっといまの私がもう観察者ではなくなっていたから。
感情に呑まれてはいけない。
それが鉄則だった。
でも、いまは――ただ嬉しかった。
彼の腕の中で、私はたしかに愛されているという実感を得た。
これが触れるということなのだと、ようやく分かった。
ロレンツォが旅立って七日が経った。
港町はいつものように時間を刻んでいた。
ピッツァの香りが昼下がりの風に混じり、海辺のカフェでは学生たちが笑い合っていた。
市場ではオリーブが揺れ、猫が日なたで寝そべる。
まるで、何も変わっていない。
……私の中を除いては。
午後の紅茶を淹れようとして、ふと、カップを口に運んだその瞬間だった。
唇が思い出した。
――あの朝のキス。
乾いたようで温かく、
触れるだけのようでいて、すべてを抱きしめるようだったあの感触。
不意に、あのぬくもりが唇の上に蘇った。
私は手を止め、ゆっくりと目を閉じる。
思い出すのは熱ではない。
湿度でも温度でもなくて、ただ想いだった。
ほんとうは、恋なんて知らないふりができた。
ただの観察、ただの接触、そう報告して済ませることだって私にはできた。
でも――唇は嘘をつかない。
この感触は、確かに私の中に残っている。
理性では拭えない。時間でも消えない。
触れた場所が想いを覚えている。
私は愛されていた。
ほんとうに。
そして愛していた。
たぶん――いまも。
いつ帰ってくるかは分からない。
戦地は変わりやすく、通信は不安定。
手紙すら満足に送れないこの星の状況が、時に歯がゆく思える。
でも、それでも。
あの朝、触れた唇の感触があるかぎり私は待つことができる。
きっと記憶は肌に宿るのだ。
そしてその記憶は、いつかもう一度、重なる日を照らしてくれる。