春が一片
チチ、チチュン、眠りが浅かったのか、かなりの至近距離で小鳥の囀りが椿の鼓膜を揺さぶった気がした。
のそりと左手をつき不安定ながらも体を起こす。自慢の艶々とした黒髪が、寝具の上にふわりと広がるのを確かめる。
「…………まだ、ちゃんとある」
誰も―――本人さえも聞くことのない呟きは、狭い部屋に反響することもせずにただ朝日の中に姿を消した。
* * *
その日は、噂の少年の歓迎式が執り行われた。
「準備できた~?若さんが演説するっていう広場に集合なんだから、もう行かないと間に合わないよっ」
言いつつ椿の部屋を覗き見てくる小枝に呆れながら、椿は結い上げた髪の束を撫でつけた。
「後は簪だけだから」
ちょっと待って、声をかける前に既に小枝はぶーたれている。よっぽど今日の歓迎式―――もとい、祭が楽しみだったのだろう。
そしてそれは椿にしても同じだ。
「お待たせ、さあ急ごうか。巾着は持った?」
「うん!早く行こうよ」
「おやおや、気をつけてなあ!」
椿の父の呼び掛けを背で受け、ふたりは並んで商店を後にした。
―――やって来た広場には人がわんさか集まっていた。どの人も、きっと例の"若様"が気になるのだろう。
それを機に、と開けた場所の隅の方に点々と食べ物を売る人影が。恐るべし商人魂である。
「あ、桜の塩漬け売ってるよ。あれ見たら春が来たってしみじみ思うよ~」
「小枝は食べたいだけじゃないの。風流なんてそのついでだったりして」
くすりと笑って見せれば彼女はまた拗ねてしまった。
「そんな事ないわ、あたしだって女の端くれだもの」
「あら、十と少しでそう言うの?」
「十じゃないわ、十一よ!つーちゃんだってあたしと一つしか違わないのにっ」
すっかりご機嫌を損ねてしまったようで、椿も言いすぎたかなと反省しかける。
こういうのは引き際が重要だ。
「そうね……後数年で元服だもの。私達大人になっちゃうんだわ」
「……もう二年もしたら大人のつーちゃんはこの間狸を追っかけて転んで泣いちゃったけどね」
思わぬ反撃に決まり悪そうに顔を強張らせる椿。これは事実で、打つ手がない。
二週間ほど季節の変わり目に床に伏せ続けた彼女は、やっと回復した折に、久しく見ていなかった動物が姿を表して思う存分にはしゃいだ。
……はしゃいだ結果今度は足首捻挫を理由に床に一週間舞い戻る羽目になったのである。
「正確には声は堪えててもボロボロ涙が落っこちてたんだけど、あの時あたしが添え木を持ってこなかったらきっと帰れもしないで―――、」
「……分かったわよ、買ってあげるからその話は終いましょ」
「あらそぅお?自分で買おっかなと思ってたけど、つーちゃんがそう言うなら!」
にっこり嫌味な程満足げに笑む小枝を眺めて、椿はひとつ溜め息を吐いた。
おしゃべり好きな彼女は弁がたち、度々こうして丸め込まれてしまうもので。それでも挑んでしまう椿は学習しないのかと自分を詰りたくなるのだった。
「すみません、枝付きを二本」
「まいどあり~、椿ちゃんと小枝ちゃんならおまけしてやるよ。ほら、仲良くな」
手渡された三本の枝に、今の言い合いを見られていたのだと思い至り、小枝と顔を見合せお互い苦笑してしまった。
「そういえば、彼はいくつなのかなぁ」
「若さん?つーちゃんと同い年くらいじゃなぁい?」
ぱくりと口に含んだ桜は塩っからく、けれどどこかほんのり甘い。
春だから、だろうか。
「―――いらっしゃったぞ、」
「時期棟梁様だ」
至る所からポンポン飛び交う言葉に、ふたりは気付いて頭を上げる。
売り子のおじさんから貰った桜の一片が、ふわり独りでに空へ旅立った。
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