新・ベランダからの季節
この度は当方の作品を手にして頂きまして、誠にありがとうございます。
現在、部屋の実用品は勿論、装飾品としても重宝されるカーテン。
厚手の布生地で作られた物がドレープ。風通しのよいレース生地の二種類が、どの部屋でも見掛ける事が出来る代物だろう。
カーテンに冬物や夏物という言葉以外あると知ったのは、ここに働きに来てからになる。
“ここ”、機械音が止むことなく、日々動く場所。
「月音ちゃん、手空いてる? タタミ場を手伝ってもらえないかな? ちょっと溜ってきてね」
パソコン画面を前にして座る私の顔を、覗き込むように見下ろす平野さん。
私の受け持ち職場、事務所へとやってきた。事務所といっても、二・三歩歩けば玄関先や工場と繋がる小さな空間。
パソコン三台に、ファックス一台がやっと置けるような狭さだ。不意に背後で金属音の軋む音が一つ。
「月音ちゃん、事務所は僕がいるから中を手伝ってきてくれる? 納品は明日の朝一で、今夜中に間に合わせたいから」
中心から左右によりわけた黒髪を手で掻上げながら、目の前にあるパソコンの用向き事から私の方へ視線を向けた木田さん。
木田さんは、私の上司にあたる人。そして、未来の社長さん。このカーテン会社、“キナリ”の社長の息子だ。
実質、会社の内容を全て把握し対処出来る人。だけど、歳が三十代前半と若い事や、一族経営だから他の親族に、それなりの役所名を譲っている状態。
木田さんは、俺は社長の息子だけど勉強中の平社員扱い。と、愚痴を溢しては、キナリで働くパートやバイトの人から笑いをとる。
私も、歳の割りに子供っぽい部分にいつも笑わせられていた。
「わかりました」
上司の言葉に椅子の金属が擦れる物音を残し、平野さんと共に事務所を後にした。
タタミ場、実は嫌いでもないので嬉しい。日の大半、卓上で終わるパソコンや電話対応、商品管理より体を動かす方が好きだから。
キナリでは私が一番若く、主婦層の女性陣が多い。ミシン掛けが中心の仕事だから、男性が少なくて仕方がないのかもしれないけど。
次に若いのが、この平野さんだ。独身の私と違い主婦だけど、三十代前半だから会話の内容も若い。
それがお手伝いが嫌じゃない理由の一つ。誰かと会話しながらお仕事なんて、事務所じゃあまり出来ないから。
「月音ちゃん、今回はこっちで一緒にタタミをしてくれる? 今回はまとめて梱包するから」
「はい」
カーテンが痛まないようにと、配慮され敷かれた真っ赤なベロア調の絨毯。
そこに腰を下ろし掛けていた私に、平野さんは隣で作業をするように勧めた。
効率よく流れ作業をするために、カーテンを綺麗に機械で通してから私がタタミ作業をし、梱包をする。
平野さんは、その間に次のカーテンを機械に通し、サイズなど検品をする。それが普段のお手伝いの仕方。
まだ勤めを始めた頃は緊張していた作業も手慣れたもので、お互いのペースに合わせられるようになった。
タタミ場は人二人並んで立てるだけの狭さで、カーテンが山のように溜ると大変だ。
だから、忙しい時は一人作業から、二人・三人作業になる。
呼び声に応えるよう立ち上がり、平野さんの側へ行く。目前に迫る機械に手際よくカーテンを通して、検品。
カーテンの谷間作りも慣れてしまえば簡単だ。この作業をすると、食品造りで見掛ける素麺の天日干しを、何故か思い出してしまう。似ているから。
「やっぱり若いって良いわね。たまに手伝ってもらうだけなのに、同じ動きが出来るし。私なんか結構、離れると辛いものよ?」
「そんな事ありませんよ? 平野さん、ここ長いのに」
若いからなのかわしらないけど、難しい作業ではないから体が自然と動いている。
事務所より、こちらの方が性に合っているのかもしれないのは確かだけど。
元々、事務員を希望して来たわけでもないために。まだ私が高校生だった頃、バイトを探していた時にキナリの募集広告を見掛けた。
縫製の出来る人を探していたらしかったけど、自宅から五分の好条件距離と興味から面接を申し込んだ。
学校の家庭科で習った程度では、やはり無理だったが。でも、若い人が来るのも珍しいらしく、丁度事務員が欲しいとの理由で採用された。
勿論、事務員らしい経験などないと念を押したが、構わないと返事が返ってきた。
それで勉強も兼ねて試してみる事を決め、現在に至る。カーテン生地の管理で品番調べなどもあり、随分色々と覚えた気もする。
電話対応は、昔から苦手なのは変わらない。きっと事務員らしくない私なのに、ここでは必要なのだと。
気付けば、社長に勧められて就職していた。今思うと、私には昔から大人になって何がしたいとか、そんな目標がなかったように思う。
漠然と好きな科目がある大学を選び、学んだだけ。それを活かして働こうとも考えるのは、人一倍遅かったのかもしれない。
そんな就職時期に声を掛けられた話し。今となっては、居心地の良い場所で就職出来るのはありがたい事だ。
だから、自分に出来る事は頑張りたいと思う。あれから大学を卒業して二年が経つ。
長いようで、あっという間だ。
「月音ちゃん、どうかした?」
「え? あ、はい。今行きます」
カーテンを梱包した箱を棚に置くと、次の準備をする平野さんの側に戻った。
仕事中に考え事するなんて私には珍しいと、平野さんが首を傾げていたが。
不意に現在の季節も思い浮かんだからだろうか? 丁度、新たな始まりと、卒業を迎える春先だから。
「あんた、新米さんかね?」
「……はい」
「手元見たらわかるよ。見慣れん顔じゃしな」
木田さんに連れて来られた訪問先。カーテンを作るだけでなく、取りつける事も請け負っているキナリの仕事。
その現場勉強を含めて覚えるようにとの事だ。いくら作業をキナリで練習したからといっても、実際は違う。
それなのに、木田さんは沢山あるからと一ヶ所の取りつけを私に任せ、違う部屋へ行ってしまった。
残された私は、まだおぼつかない手で作業を始めた。カーテンレールからの取りつけ、結構苦手なのに。
不意にそんな私を見上げる視線を感じた。振り向いた先に玄関先で挨拶を交した、この家の持ち主である佐々木さんがいた。
佐々木さんは小柄で、歳月を重ねた肌が見てとれるお婆さん。背を少し丸めて、怪しむように私を見ている。
勝手しってる我が家に赤の他人が何をするのかと、興味深々に。
ただ木田さんと違い、作業の一際遅い私が新米と気付かれたのは仕方がない。
なるべく自然な笑顔で対応する。だが、佐々木さんは何故か側のソファーに腰掛けて、紅茶を飲み出した。
その間も背に感じ続ける視線。緊張するな。
「広いベランダですね? このカーテンもよくお似合いですし」
脚立に腰掛けて、一つ一つレールにカーテンのカンを掛けていく。次第に窓を塞いでいく布。
広がり具合いなど調べるために、脚立から降りた私は一気に取りつけたカーテンを広げた。
レールの擦れる物音と共に、外の世界を遮るカーテン。改めて間近で眺めると、本当に立派な花柄刺繍が施されている。
「綺麗じゃな」
「そうですね」
「ほんに頼んで良かった」
ソファーを離れカーテンを触り、しみじみと溢す言葉。
皆で一生懸命作った物を喜んでもらえて、私も誇らしくてなんだか嬉しい。
佐々木さんが再び端までカーテンを戻すと、外の日差しが部屋に入り込んだ。
カーテンをまとめとめるタッセルの取りつけ作業を開始すると、カーテンを見上げる佐々木さんが声を掛けてきた。
「のお? お前さん。これは、離れ暮らしている息子が、私を気遣い贈ってくれたカーテンなんじゃ」
「そうでしたか、優しい息子さんですね」
「ああ。だから特別なカーテンじゃ。お前さんの家にもカーテンはあるじゃろうがな」
「……私、自宅の窓にはカーテンつけていないんですよ」
「そうなのか? カーテン屋で働きながら?」
「はい」
予期せぬ意外な回答だったのか、笑い声が佐々木さんから溢れた。
仕事が終り、帰宅途中の道で佐々木さんが何故つけないのかと聞かれた事を思い出していた。
曖昧に答えを濁したままの質問。
キナリから自宅の通り道には、側を流れる川がある。その側、土手上に造られたコンクリートの道をいつも通う。
紅く染まり出した空の日差しを受けた水面が反射し、輝き揺らめく波間が見える。
土手より下った辺りには、沢山の草花が子供時代よりあった。季節を感じさせるススキや菜の花など、草花が毎年咲いている。
今ではそれも埋め立てられ、舗装された道が川に沿うように何処までも続いていた。
「子供頃はもっと自然があったのに……」
不意に漏れる言葉。
足を止めて、川を眺めた。悪戯に、花の香りを包む風が辺りを駆け抜けていく。
ざわめくように辺りの草が揺れ動いた。何度眺めても、綺麗だと感じる事にはかわりない。
元気を貰えるお気に入りの場所の一つ。
段々と空の移り替わりも濃くなり、休めていた足を再び動かし始める。履きなれた革靴のパンプスからは、小気味良い靴音が続いた。
土手を散歩する人。同じようにこの道を通り家路を急ぐ人。
仲良く手を繋ぐ母子の姿も視界に映り込んだ。程なくして、土手から住宅地に続く舗装道路の境目に来た時、ある立て札が視界に入り込む。
何年も前に立てられ、外で野晒しのため随分くたびれた様子の、大きな文字も薄れかかった汚れた白い板。
“車道に注意。飛び出し禁止。交通事故多発。”そんな記載がある立て札だ。
ふと、先程通った道を眺める。車道と土手沿いに挟まれるように造られた、ガードレールを。
この土手沿いに歩行者保護のガードレールがつけられたのは、ついこないだように感じる。
以前から街頭の少なさもあり、夜になればそれこそ暗闇の道になるこの場所。
事故が多発する中、やっと安全対策がとられたのは、現在から一年前の事だ。
幾度、犠牲となった親族や利用する住民から申し出があったのかはわからない。
だけど、その最後となった事故に私も関わっていた。そして通る度、この立て札やガードレールを見る度に思い浮かぶ光景。
深い溜め息を、また一つ溢して私は家路を急ぎ離れた。
忘れられない光景。
そして……失った大切な人。
私の自宅は一戸建ての外観は洋風住まい。その周囲も似たような住宅が密集している。
ただ、半年前から隣接する家が失くなり、空地になっていた。そこだけ時を止めたような、周囲に比べると酷く質素で寂しい。
その前を通り過ぎて、自宅の扉を開くのが日課だ。
現在、両親は兄夫婦と同居し、現在では私だけが住むには広過ぎる家。
時折、様子を覗きにやって来るお客を出迎える家でもある。
鍵を開け、直ぐ目につく木造の階段を上がり自室へ向かう。扉の閉まる物音と明かりが照らされる。
着ていた上着やら脱ぎだして、過ごしやすい部屋着に着替えた。いつもと変わらない行為。
朝から閉めきった部屋は外に比べると、やはり重い。
窓を兼用するように、この部屋唯一の風通しの場所へ近付いた。
私の身長ごと映し出したベランダの窓へ手を伸ばす。だが、その手を引っ込めて扉を開けたまま部屋を出てしまった。
廊下に取りつけられた出窓を開け、風を受け入れる。
丁度、お腹の鳴る音が響いた。その音に急かされるよう、晩御飯の支度をするため一階へ降りていく。
私の部屋のベランダからは幸いな事に、先程の川や土手沿いなど見渡す景色がある。
密集した住宅地の中でも、端の位置になり裏手になる部屋には住宅はない。
だから昔はよく出て、その景色を眺めていた。でも……。
晩御飯を終えて、お風呂に入り、体を休めるために部屋へ戻った。
椅子変わりに座るベッドからは、軋む物音が響いた。
再び立ち上がり、ベランダの側へ寄る。何度もためらった手に、窓から伝わる冷気が届く。
浮かない自分の顔が、部屋の明かりと共に映し出された。
この窓を開いてベランダに出なくなったのは、現在から一年前程。
そう、あの忘れられない時から。
「おい? また朝から寝惚けたか月音?」
不意に声がする方を見ると、木造りのベランダに手を掛け私を覗く男がいた。
男の着る白いワイシャツが、朝日を浴びるせいか眩しく見える。何が面白いのか薄笑いを浮かべて。
男手にしては私より細く綺麗な手をし、右手で目元にかかりそうな黒い前髪をすかしている。
「仕事が休みの時、私が何をしようが関係ないでしょう? 紅羽?」
気分を害されたとばかりに、私は眉間に皺を寄せていた。その視線の先にいる長身の紅羽をとらえて。
私達は隣家という事もあり、昔からの“幼馴染み”になる。
お互いに大学を卒業してから、それぞれの就職先が一年が経つ頃。外では四月の花見を迎えていた。
「まぁな。休みの時に家にいるより、彼氏を作ってデートしたらなぁ……と思うだけだよ。“凄く”」
何処か言葉に含みがあり、相変わらずの笑みを浮かべる紅羽。
私は昔から異性関係について触れられるのは嫌だった。例え冗談でも。
同じ歳でありながら、何処か年上のように振る舞う紅羽に嫌悪を覚える事は多々あった。
的を得ているためか、思春期頃のように感情の起伏がある。紅羽の前では何故か抑えられずにいる。
昔から側にいるためなのか、少々きつい口調も言えた。
私は腰掛けたベランダから離れ、無言のまま窓を閉める。
「おい……それはないんじゃないか?」
紅羽の言葉が聞えないとばかりに、窓の閉まる音をベランダに響かせ。そんな些細な抵抗を私はする。
“可愛くないね”溜め息混じりの言葉を溢して、部屋へ戻る紅羽の物音が窓越しから聞こえた。
自宅付近に建つ鉄橋からは、そんな私達の間に入るよう電車が走り去る音が響いた。
「朝から出会いたくない奴ね……」
閉めた窓を背に呟く声が溢れてしまう。せっかくの休日、気を取り直して買い物に出かける事にした。
身支度を整えて扉を開くと、まだ寒さの残る季節、外に並び立つ枯れ木の樹木が数本見えた。
鍵を閉め、吐息の白さにすっかり冷えた手をポケットに入れた。
「いらっしゃい! 今日は特売だよ――!」
自宅から二十分もない距離を歩くと、店先の赤いテント下では店員が呼び込みをしているのが見えた。
その真横を通り過ぎ、黄色のカゴを手に店の中へと入って行く。
「玉子とパンに……」
広い店内を移動しながら、欲しい商品をカゴに詰める。
特売品に目がつき、眺めていると不意カゴ重みが増えた気がした。
覗き込むと、手にした覚えのないお菓子箱が一箱。
「何これ?」
驚き、手にお菓子箱を握り締めた。
真横から気配を感じ見上げると、紅羽が視界に映り込んだ。無邪気に笑顔で笑い、悪戯っぽく。
「クッキー、嫌いじゃないよな?」
その笑顔と間の抜けた声が、何故か神経を逆撫でさせる。
“ストーカー?”と、一言冷たく言い放つと、その場から立ち去った。その後を紅羽は当たり前のように離れずついて来た。
「そんなに照れるなよ。全部、俺が払うからさ?」
「照れてない!」
段々と眉間にシワを寄せ始めた私を余計に怒らせる言葉。
レジ前を並ぶ長蛇の列に、紅羽は何が面白いのか笑みを絶やさない。
私はそんな紅羽の子供じみた所が嫌だった。
「いいよ私のは。紅羽の分だけ払ってよ?」
そう伝え、顔を背けながら再び私の頬が少し膨らむ。
その様子を紅羽は面白いと感じるようで、瞳に輝きが増す。まるで楽しむように。
幼い頃から同じ学校を通い、顔を会わせればこんなやりとりばかり。そして、いつの間にか側にいる。
学校で撮影された写真には、必ず私達二人でおさまった記念写真が多かった気がする。
「なぁ? 別に良いじゃないか、一緒に歩くくらい」
人の気持ちも知らない呑気な言葉に、更に怒りが増し始める。
店を後にした私達は、自宅へ帰るため付近の土手の方を歩いていた。
その右側には大きな川があり、陽射しが反射し輝き波間が揺らめいている。
「そういや、この辺りも随分変わったな……」
自然の草花や虫の鳴き声など、よく眺め聴く事が出来た場所には、工場の煙突からはき出される煙を見る方が多くなっていた。
そして、無機質な石畳の舗装された道が、川に沿うように何処までも続いている。
その言葉に懐かしむように立ち止まり、川を眺めた。
「月音、彼氏は欲しくないのか?」
不意に聞こえた声。
何故、毎回“彼氏”の二文字にこだわるのか。眺める景色も台無しにさせる台詞だ。
ムードの欠片もない、わからず屋がいる方へ、軽蔑を含めた視線を向けた。
映り込んだ紅羽は、何故か悲しげな顔をしていた。上着に付いた薄茶のボアから顔を覗かせ、そっと私に近付く。
「紅羽?」
近寄る紅羽は真剣な眼差しをし、普段見せる顔とは違う別人。私は戸惑い、後退りをするように身を引く。
いつになく真剣な眼差しをする紅羽に“何か”を感じたから。
「ふっ。大丈夫だよ、何もしないよ」
そんな私の心を見透かすように、相変わらずの悪戯好きの笑みを見せる紅羽。
普段通りの姿に“子供”と言い残し、私は再び歩き出した。いつもより早い鼓動を隠すように、早足で。
「可愛いね」
紅羽はそんな言葉を漏らして私の後を歩く。いつも、私の一歩後ろをわざと紅羽は歩いている気がする。
いつからだろうか?
視界に入れておきたいから。と、意味不明な返事を聞いた事が一度あったけど……。
あれはどういう意味なのか……私は今でもわからない。
「何、笑ってるのよ?」
紅羽の方に顔だけ振り向き直すと、足元に浮かぶ私の影絵を見るようにして歩いている。
何が面白いのか笑みを浮かべて。その笑みが余計に不気味に思え、紅羽がまた何か悪戯を考えているのかもしれない。
紅羽は“違うよ”と、大袈裟に手を振るが。警戒しながら、その影絵に目をやる。
こうして見ると、紅羽の身長分伸びた影が私の影と並んで歩いているように見えた。
まるで恋人のように仲良く、時折腕を組むように重なりながら。
先程の笑みは、そういう事かと呆れ果て、再び紅羽の方へ振り向く。
「っ!」
その瞬間、段差に気付かず私は足をとられた。
傾く体。
視界に映る紅羽は、先程まで見せていた笑顔とは違い、険しくなっていた。傾く視線と合わすように私に手を伸ばす。
「月音!」
紅羽が私に差し伸ばすために出した手。
さっきまで握られた離れた買い物袋、その中身が色を足すように地面に転がっていく。
左腕を強くひっぱられて、体が鈍い痛みを覚える。私を呼ぶ名を最後に紅羽の顔が視界から消えた。
私はうつ伏せになるように地面へ倒れ込んでいた。
何も考えられない私を現実に戻すように、女性や人の叫ぶ声が背後から聞こえてくる。
私は足に力を込め、体を支え起き上がった。
振り向いた先、そこには路上を赤く染めた、頭から血を流す紅羽が横たわっている。
その側では、助手席の扉部分が妙に潰れた車が一台。電柱にぶつかり、止まっている。
周囲では“救急車”と叫ぶ声が木霊した。一体何が起きたのか、酷く痛む頭を抱え、重い足取りのまま紅羽の側に一歩、また一歩と向う。
「く、紅羽? ねぇ? 紅羽!」
腕をひっぱられた時、私の体は傾いた車の行き交う車道から歩道に戻されていた。
丁度、側を車が走り去ろうとしていたので、そのまま倒れていたら私が事故にあっていたのだろう。
そんな私をかばった紅羽。救急車で運ばれた後は、治療の甲斐なく、紅羽は逝ってしまった。
紅羽のご両親は地方へ転勤していたが、悲報を聞き直ぐ駆けつけた。
昔から私と顔を知る仲もあって、辛く掛ける言葉は無く、余計に心が痛んだ。
ただ、“紅羽の分も元気に”そう言い残し、事が済むと帰っていった。
あの後、お通夜が終っても涙が止まらず、会社も何日か休んでいた。
もう二度と向けられる事がなくなってしまった無邪気な笑顔。その耐えがたい現実に。
鈍い物音と共に視界がぼやける。頭をぶつけたらしく、手で擦る。
芯から冷えた体。背もたれにした壁。側のベランダから日差しが淡く入り込む。
どうやら、あのままいつの間にか寝ていたらしい。
さっきのは……夢? あれから何年経ったのだろうか?
長く感じるが、まだ一年だ。
体を起こして、ベランダの側へ近付く。この春季節、ベランダでは何処からか入り込んだ猫の鳴き声がする。
毎日、朝方になると雀の声がした。その声は相手がいるのか楽しそうに聞え、心地良い。
同じ時刻に過ぎ去る鉄橋の響き。今日も沢山の人を乗せ、何処かへ行き帰っていくのだろう。
変わらない季節の移りが外にある。ベランダ越しから眺めていたはずの何かが。
紅羽がいなくなってからはベランダに出る事はない。窓も隙間程度に開けるくらいだった。
あの悪戯な笑みや悪態が懐かしくて、ベランダに昔のように居るんじゃないかと思ってしまうから。
今でも涙が溢れてしまう。若くして逝った紅羽を忘れられない。
「月音」
名を呼ぶその声を覚えているから。思い出しては窓から手が離れてしまう。何度も足を向けても同じだった。
先程の夢のせいか、こうしてここから景色を眺めるのも、久しぶりかもしれない。
何故だか自然と窓を開け、ベランダに足が向いた。誰の姿があるはずも無いのに、毎年季節の変わりゆく姿は刻まれている。
枯れ葉が舞い込み、手入れして欲しそうに。
まだ夜明け混じりの薄青い空。澄み渡る世界。
隣にあった紅羽のベランダは、もうない。
空き地を、ただ見下ろした。紅羽のご両親から頼まれた工事が入り、家が壊されたからだ。
もう一人息子もいない場所へ帰る事もないと。そんな寂気な土地に滴が落ちた。
いつしか頬を伝う涙が溢れて。だから嫌だったのかもしれない。
変わらないはずの景色に、大切な物が失われた世界をまのあたりにするから。
拭っても、抑えのきかない涙。空地から目を反らして、空を仰ぐ。
たとえ涙が溢れようとそれでも、今日から昔のようにベランダへ出ようと思う。
何故だか時折体を吹き抜ける風に乗って、紅羽の声が聞こえた気がしたから。
“馬鹿だな”と。
私の前から姿が消えて一年経つというのに、鮮明に記憶する紅羽。
その姿や声は現在でも色あせていない。昔から曖昧な感情が、現在聞かれたらハッキリと言える言葉がある。
“好きだった”と。
「月音ちゃん、今日は本当にどうしたの? ぼんやりして?」
「すみません、今行きますから」
何個、梱包した箱を今日は積み上げただろう。昔の思い出も早々に浸るのを止めて、平野さんの側へ戻る。
聴きなれた物音に、会社の人達の声。佐々木さんに今度出会う機会があれば、一つ訂正をしなくてはいけない。
“私のベランダにもカーテンを付けました”と。四季に合わせたカーテンの扉をくぐると、私のお気に入りの場所が現在も存在している。
そこは私にとって、大切な事を思い出させてくれる場所。風に乗った懐かしい声を、カーテンが揺らし届けてくれる。
生きている私には人生がある。
それでも、もう少しだけ、この想いを忘ずにいたい。そんな大切な場所へ繋がっている。
「僕も手伝うよ」
不意に聞こえた声。
私と平野さんが振り向くと、木田さんが立っていた。
「木田さん、事務所は?」
「一段落したし、電話やお客さんが来ても直ぐ側だから聞こえるし、大丈夫だよ」
満面の笑みをする木田さんに、平野さんが何も盗られる物もないしね、と付け足していた。
「じゃあ、ここをお願いします木田さん」
「月音ちゃん、別に機械の方をやっていても良いのよ?」
平野さんの側から離れて、ベロア調の絨毯に座り込む私を不思議がる二人。
そんな私の行動に、木田さんは入れ代わるよう平野さんの真横に並び立つ。
私は二人を見上げながら、笑顔を向ける。
「座った作業の方が楽じゃないですか」
「月音ちゃん……」
「なんじゃそら」
楽はさせないよと、不敵な笑みで二人は溜ったカーテンを握り締め作業する。
勿論、さっきの言葉は冗談だけど、座ってする方が楽なのは本当だ。
二人に負けないよう私も作業を早める。
キナリでは沢山のオーダーメイドカーテンが作られている。
それは誰かの所で色々な意味を持ちながら、今日も使われていく。
「新・ベランダからの季節」、最後までのお付き合い、ありがとうございました。
何度か手直しをしながら掲載していましたが、物語そのものから全てを見直し書き直しました。
この作品は本当に沢山の方に評価へ書き残して頂きました。
いつかきちんと手直しをしなければいけないなと思っていましたので、こうして改めて掲載出来た事を嬉しく思います。本当にありがとうございました。
〇登場人物〇
月音
紅羽
木田
平野
佐々木