「生きているだけで偉い」と朝から私の怠惰を全肯定してくれる旦那様。私が彼のためにできることは、全力で二度寝することだけでした。「貴方のために、私は精一杯の怠惰を返します。愛を込めて」
「……素晴らしい。実に、素晴らしい」
低い、チェロのような美声が鼓膜を震わせた。
まどろみの中でその声を聞いた私は、反射的に「ありがとうございます!」と叫んで飛び起きそうになった。
これは社畜時代の条件反射だ。
上司に褒められたら即座に感謝を示す。
それが生存本能として染み付いている。
けれど、体が動かなかった。
なぜなら、私は今、とんでもなくふかふかな高級羽毛布団の中に埋もれており、さらに言えば、逞しい腕の中に完全に拘束されていたからだ。
ゆっくりと目を開ける。
視界いっぱいに広がったのは、色素の薄い銀色の髪と、星を全て集めて、その瞳の中に夜空を凝縮したように美しい濃紺の瞳。
そして、この世の美を全て集めて凝縮したような、超絶美形の顔面だった。
我が国の最年少騎士団長にして、私の旦那様。
シベリウス公爵家の当主、ヨシュア・シベリウス様。
「……おはよう、リリベット」
至近距離。
鼻先が触れそうな距離で、彼が甘く目を細めた。
その瞳には、デロデロに溶けた熱い情欲と慈愛が渦巻いている。
「お、おはようございます、ヨシュア様……」
私が蚊の鳴くような声で答えると、彼は満足げに頷き、私の額にチュッと音を立てて口づけを落とした。
「今日も生きていて偉い」
「……はい?」
「君は、生きているだけで偉い」
挨拶代わりの一言が重すぎる。
寝起き一発目に言われるセリフだろうか。
「今、君が目覚める瞬間の瞼の動きを見ていたんだが、奇跡のようだった。長い睫毛が震え、翡翠のような瞳が光を捉える……。その一連の動作だけで、私はこの国を守り抜く活力を得た」
「そ、そうですか……」
顔が熱い。慣れない。やっぱり照れる。
「ああ。君が存在し、呼吸をしている。その事実だけで、私の世界は平和だ」
ヨシュア様は真顔で、詩人が一生かかっても紡ぎ出せないような歯の浮くセリフを言い放った。
しかも、私の腰に回された腕は、ミリ単位で私を逃がさないようにガッチリとホールドしている。
私はちらりと、サイドテーブルの時計を見た。
短針は11時。長針は40分。
「ひっ!?」
私は一気に覚醒した。
昼だ。もうすぐ昼だ。
公爵夫人が昼まで寝ているなんて、怠惰にも程がある。
前世の私なら、上司にシュレッダーにかけられても文句は言えない大遅刻だ。
「も、申し訳ありませんヨシュア様! 私、とんでもない寝坊を……!」
慌てて布団から這い出そうとする私を、しかしヨシュア様の腕は鋼鉄のように動かなかった。
それどころか、ぐいっと引き寄せられ、彼の硬い胸板に顔を埋める形になる。
「謝る必要はない」
「でも、もうお昼で……!」
「リリベット」
ヨシュア様が、諭すように私の名を呼んだ。
その声は、戦場で部下に指令を下す時のような、有無を言わせぬ威厳に満ちていた。
「君は昨日、何時に寝た?」
「えっと……夜の10時頃には……」
「そうだ。そして今は11時。つまり、13時間以上の睡眠をとったことになる」
「ね、寝過ぎですよね! ナマケモノでももう少し働きますよね……!」
こんなに眠ってしまったことに自分でもビックリする。
でも、この世界の魔力というものは、生きているだけでかなり体力を消耗する。
私が転生者というこの世界の不純物だからなのかは分からないけど、常に酷く疲れて、眠い。
「寝すぎなどではない」
ヨシュア様は首を横に振り、私の乱れた髪を大きな手で優しく梳いた。
その指先の感触が気持ちよくて、思わず背筋がぞくっとする。
「君は、成長期なのだ」
「……えっ、20歳を超えていますが……」
「魂の成長期だ。前世で酷使された君の魂が、今、必死に修復作業を行っている。13時間の睡眠は、君の生命維持に必要な最低ラインのメンテナンス時間だ。つまり君は、生きるために必要な業務を遂行したに過ぎない」
「むちゃくちゃな理屈です……」
「理屈ではない。事実だ。見てごらん、今の君の肌艶を」
彼の手が、私の頬を包み込む。
少し硬い、剣だこのある指先が、私の肌を確かめるように優しく撫でた。
「薔薇の花びらのようだ。十分に睡眠をとり、ストレスから解放された結果だ。この柔らかさを守るためなら、私は国の予算の半分を使っても構わないと思っている」
「国が滅びます!」
「構わん。君が健やかであるなら、国の一つや二つ、また一から作り直せばいい」
傾国の美女ならぬ、傾国の寝坊助だ。
私はガックリと項垂れた。
この人に常識を説いても無駄だということは、結婚して一ヶ月で痛いほど理解している。
ヨシュア様は、私が大人しくなったのを確認すると、さらに私を強く抱きしめ、首筋に顔を埋めてきた。
すーっ、と深く息を吸い込む音がする。
「……ヨシュア様?」
「動かないでくれ」
「……くすぐったいです」
「君の匂いは、どんな精神安定剤よりも効く。陽だまりと、ミルクと、甘い菓子の匂いがする。赤子のような、優しい香りだ」
ミルク臭くて、赤ちゃんみたいな匂いの公爵夫人ってどうなんだろう……。
でも、彼の体温は心地いい。
高い体温と、規則正しい心音。
それに、彼から香る爽やかな石鹸と、かすかな革の匂い。
その匂いに包まれていると、焦燥感も罪悪感も、すべてがどうでもよくなってくる。
前世では、常に「何かをしていないと不安」だった。
休日はスキルアップの勉強をし、移動時間はニュースをチェックし、寝る直前までメールを返信していた。
「止まったら死ぬ」と思い込んでいた回遊魚のような人生。
けれど今、この人は私に「止まること」を強要してくる。
全力で、全霊で、私の怠惰を肯定してくる。
それが、申し訳なさの反面、凄く心地いい。
「……そろそろ起きないと、お腹が空きました」
私がボソリと言うと、ヨシュア様は顔を上げ、ぱっと花が咲いたような笑顔を見せた。
その破壊力たるや、直視したら目が潰れるレベルだ。
眩しすぎる……。
「そうか。腹が減ったか。偉いぞ」
「お腹が減るのが偉いんですか?」
「当然だ。生命活動が正常に行われている証拠だ。生きようとすることは、それだけで偉いんだ。すぐに食事にしよう」
彼はサイドテーブルのベルを鳴らした。
即座に、本当に一瞬のタイムラグもなく、ドアが開いてメイドたちがワゴンを押して入ってきた。
待機していたのだろうか。ドアの向こうで。
「おはようございます、奥様」
メイド長が、何事もなかったかのように微笑む。
昼の12時前におはようございますと言われても、顔が引きつるだけだ。
怠惰ですみません……。
ワゴンには、焼きたてのパンケーキ、色とりどりのフルーツ、たっぷりのホイップ、温かいスープ、そして香り高い紅茶が並べられている。
それを、メイドたちは手際よく、ベッドの上に設置できるサイドテーブルに並べ始めた。
「あの、テーブルで食べます」
「ならん」
私が布団から出ようとすると、ヨシュア様が即座に私の腰を押さえつけた。
「ベッドから出るには、エネルギーが必要だ。今の君は空腹状態。エネルギー切れの体で動くなど、遭難した登山者が無理に下山しようとするようなものだ。危険すぎる」
「ベッドからテーブルまでの3メートルが遭難レベル!?」
「ここが一番安全だ。さあ、口を開けて」
ヨシュア様は、カトラリーを手に取り、一口大に切ったパンケーキにたっぷりと蜂蜜とホイップを絡めた。
そして、それを私の口元に差し出す。
星のようにキラキラと輝く瞳。
「早く食べてくれ」と尻尾を振る大型犬のようなオーラ。
拒否権はない。
「……あーん」
私は観念して口を開けた。
甘い。
とろけるように甘い。
ふわふわの生地と、濃厚なクリームが口の中で混ざり合う。
甘くて美味しい。
けど、その甘さの半分以上は、彼の甘やかしという名の愛情だ。
「どうだ?」
「美味しいです」
「そうか。可愛いな」
彼は満足そうに目を細めると、今度はスープをスプーンで掬った。
そして、ふー、ふー、と丁寧に息を吹きかけて冷まし始める。
その仕草が、あまりにも似合わない。
クールで整ったその顔立ちからは想像もできないほど優しい表情で、少年のように唇を尖らせてスープを冷ましているのだ。
ギャップ萌えを通り越して、何か見てはいけないものを見ている背徳的な気分にさえなる。
「さあ、もう熱くないはずだが、気をつけて」
差し出されたスープを飲む。
完璧な温度だった。
野菜の甘みが体に染み渡る。
「ヨシュア様は食べないんですか?」
「私は君が食べるのを見ているだけで満腹だ」
「嘘をつかないでください」
「本当だ。リスが頬袋を膨らませて木の実を食べている姿を見たことはあるか? あれを見ている時、人は空腹を感じない。ただ『尊い』という感情で満たされる。今の私はそれだ」
妻をリス扱いしないでほしい。
けれど、彼の手は止まらない。
パンケーキ、スープ、フルーツ、紅茶。
次々と運ばれてくる食事を、私は甘やかされるままに口を開けて待ち続けるしかない。
ふと、口元にクリームがついた気がして、舌で舐め取ろうとした時だった。
「あっ」
ヨシュア様の指が伸びてきて、私の唇の端をぬぐった。
そして、その指についたクリームを、彼が自分の口へと運ぶ。
ちゅ、と色っぽい音がした。
ボンッ!
私の顔から湯気が出る音がした。
「な、ななな……!?」
「ん? ああ、すまない。勿体無いと思ってな」
彼は平然と言った。
その舌先が、妖艶に唇を舐める。
「やはり、君についたものは何倍も甘く感じるな」
「〜〜ッ!」
私は言葉を失い、布団を頭までかぶって丸まった。
無理だ。
この人の糖度攻撃には耐性がない。
前世で受けてきた攻撃は「理不尽な叱責」や「無茶な納期」ばかりで、「過剰な愛」に対する私の防御力は、ハッキリ言って、ゼロなのだ。
「リリベット? どうした? 苦しいのか?」
心配そうな声と共に、布団がめくられる。
そこには、本気で心配しているヨシュア様の顔があった。
「……ヨシュア様のせいです」
「私が? 私はただ、君への愛を表現しているだけなのだが」
「それです! 心臓に悪いです!」
「まあ……そうだな、自覚はある」
ヨシュア様は苦笑し、ベッドに手をついて私を覗き込んだ。
その表情が、ふと、切なげなものに変わる。
「だが、止められないんだ」
「え?」
「君は知らないだろうが……私はずっと、君を見ていた」
彼は私の頬に手を添え、親指で優しく撫でた。
「夜会で、壁の花になっていた君を。皆が煌びやかなドレスや宝石の話をしている中、君だけは退屈そうに欠伸を噛み殺し、『早く帰って眠りたい』という顔をしていた」
「み、見られてたんですか!?」
恥ずかしい。
「その姿が、私には何よりも輝いて見えた。この世界で、君だけが『飾らない』でいた。無理をせず、自分を偽らず、ただ『眠い』という本能に忠実で……。それがどれほど、救いだったか」
ヨシュア様の声が、少し震えているように聞こえた。
騎士団長という立場。
公爵家当主という重圧。
彼は常に「完璧」を演じ、期待に応え続けてきたのだろう。
だからこそ、私の「ダメさ」が、彼にとっては「許し」のように見えたのかもしれない。
「私は君を甘やかすことで、私自身を許しているのかもしれないな。『ああ、こんなにだらけてもいいんだ』『何も生み出さなくても、生きていていいんだ』と、君を通して自分に言い聞かせているんだ」
そんなふうに言われたら。
そんな、迷子のような目で見つめられたら。
私が彼を拒絶することなんて、できるわけがない。
私はそっと手を伸ばし、彼の首に腕を回した。
引き寄せると、彼は素直に私の肩に頭を預けてきた。
大きくて、重たい体。
でも、今はそれが愛おしい。
「……わかりました。じゃあ、私がヨシュア様の代わりに、一生懸命だらけますね」
「ああ。頼む」
「その代わり、責任取ってくださいよ? 私、もう一人じゃ何もできない体になっちゃいますから」
「それでいい。君の手足となり、枕となり、布団となることが、私の生涯の任務だ」
ヨシュア様は私の首筋にキスを落とし、低い声で笑った。
その振動が、私の体にも伝染して、心がじんわりと温かくなる。
前世の私へ。
今の私は、世界一甘くて、世界一ダメな公爵夫人です。
でも、どうやらそれが、この世界を救う(主に旦那様の精神衛生を)重要な仕事らしいのです。
「さて、リリベット」
ひとしきり抱き合った後、ヨシュア様が体を起こした。
「お腹も満たされたことだ。次は何をする?」
「着替えます。さすがにパジャマのままでは……」
「そうか。では、私が着替えさせよう」
「えっ、自分で……」
「ならん」
本日二度目の却下。
「ボタンを留めるという指先の運動は、食後の消化に悪い。血流が指先に集中し、胃への血流が不足する恐れがある」
「そんな医学的根拠はありません!」
「ある。私の辞書にはある」
彼は真顔で断言すると、クローゼットから私のドレスを選び出し(なぜか一番露出の少ない、肌触りの良さそうなワンピースだった)、満面の笑みで戻ってきた。
「さあ、腕を上げて。万歳だ」
「……ヨシュア様、楽しんでますよね?」
「当然だ。世界一可愛い着せ替え人形を前にして、楽しまない男がいるものか」
ああ、もう。
この旦那様には、一生勝てる気がしない。
私はため息をつきつつ、言われた通りに両手を上げた。
「偉いぞ、リリベット。綺麗な万歳だ」と褒めちぎられながら、私は今日も、甘すぎる、クリームの沼のような幸せに沈んでいく。
こんなにも幸せな毎日が、これからもずーっと続いていくなんて、私はなんて幸福な人間なのだろう。
怠惰で、息をするだけで偉いと言われ、甘やかされる。
そんな日々を贈ってくれる旦那様に、私は精一杯の怠惰を返そう。
愛情いっぱいの、怠惰という、二人だけの愛の時間を。
私も、言われてみたいです(^^)




