魔法の植木鉢
花屋の店のドアが開いたのか、花の香りと共に心地よい風がエミリーの頬を撫でた。
——わたし、眠ってしまっていたの?
記憶の糸を辿りながら辺りを見回すと、テーブルの上に花の絵が描かれたクッキーの皿が置かれていた。
エミリーはお腹を押さえ、空腹の虫が鳴いたことをハナに気付かれまいと、そっと周囲を確認する。
ハナがいないことを確かめてから、そっとクッキーに手を伸ばし、一つを丸ごと口に頬張った。
「美味しい……それに、良い花の匂い……。食感が時々モサモサしてて、なんだか草花を食べてるみたい……」
眠る前にハナが「エディブルフラワーのお菓子だよ」と嬉しそうに言っていたのを思い出す。きっとこれがそれなのだろう。
「花って……美味しいんだ」
思わず漏れた独り言と共に、エミリーは次々とクッキーを口に運んだ。
そして弟切草の恐ろしさを思い出しながら、ぽつりと呟く。
「花なんて、食べてしまえばいいんだ」
そう口にしたとき、まるでターリーの破滅さえ避けられる気がした。
“マーノリアの旦那さんが犠牲になる前に、ハナと一緒に……ハナ……兄さん、手伝ってくれるかな”
エミリーは立ち上がり、店舗側へと足を向けた。
ハナの姿はどこにも見えず、代わりにせっせと働くマーノリアが目に入った。
「マーノリアさん、ハナ……兄さんは、どこですか?」
エミリーの変化に気づいたマーノリアは、表情を緩めて答える。
「立派なお兄ちゃんだよ、ハナは。頼もしいね。明日には帰ってくると思うよ」
「……それって、どういうことですか?」
全身から血の気が引いていくのを感じながら、違う返事が返ってくることをどこかで願っていた。
「ターリーに行ってくれてるよ」
「どうしてっ……誰も行かないでって言ったじゃないですか。それに子供一人で行かせるなんて、非常識です!」
引いた血の気がすべて頭にのぼったように、エミリーは顔を真っ赤にして叫んだ。
「安心おし。ここいらで一番の護衛隊をつけたからね。ジェルベーラも一緒だし、ハナくんならきっと大丈夫。男らしくなって帰ってくるさ」
「……どうしよう。ハナが……お兄ちゃんが死んでしまう……」
エミリーは、晴頼が現れたときのことを思い出す。
目隠しをされたハナに向かって、あいつは平然と刀に手をかけた。
体を与えた主にすら、容赦なく牙をむこうとした——。
あの目は、人を殺す目だった。
双子の兄たちがいなければ、確実に斬りかかっていたに違いない。
今すぐ、弟切草の鉢を壊せば、晴頼を止められるかもしれない。
けれどヨナの研究によれば、千日紅だったニチ子は、花が枯れてもなお動いていた。
それが千日紅の特性によるものであっても、弟切草にそれがないと信じるのは、あまりにも甘い考え。
花が枯れ晴頼が消える前に、彼女はターリーの人々を、マーノリアの夫を——そしてハナを殺してしまうかもしれない。
「マーノリアさん。馬を貸してくれる場所を教えてください」
今、取るべき行動は一つしかなかった。
「まさか……追いかける気かい?」
「はい」
迷いのないその瞳に、マーノリアは思わず声を飲んだ。
止めようとしたが、エミリーは静かに首を振るだけだった。
仕方なく、マーノリアは信頼できる護衛のひとりを紹介し、出発の準備に取り掛かった。
支度の途中、エミリーが口にした花の名に、マーノリアが首を傾げる。
「千日紅、ガーベラ、スイートピー……? 誰かのお祝いにでも行くのかい?」
統一感のない花を求めるエミリーに、理由を問うと、彼女は少し黙ってから小さく頷いた。
マーノリアは不思議に思いつつも、用意を始めた。
水魔法を付与した吸水スポンジ。光魔法の球体。氷魔法で保冷された透明な箱——
それは花を長く保たせるために設計された、小さな温室のようなものだった。
元の花が枯れれば、魔法で人の姿になった存在は消えてしまう。
ならば少しでも長く、美しく咲かせておく必要がある。
そのための魔法の植木鉢。
「こんな、不揃いで不恰好な花束をもらって喜ぶ人なんて、いるのかい?」
マーノリアの問いに、エミリーは静かに答えた。
「これでいいんです。これだけあれば……お兄ちゃんが、きっとみんなを——」
花束を肩がけの鞄にそっと仕舞い、エミリーは険しい顔で馬に跨がった。




