東邦の女戦士
意識の外、どの花かも分からない状態であっても、ハナの魔法は発動した。
艶やかな黒髪、腰まで伸びる長髪は、後頭部で白い布紐によって結ばれている。
凛とした糸眉に、切れ長の黄色い瞳。
紺色の袴に、白い胴着はゆるく着崩され、豊かな胸元はさらしできつく締め上げられていた。
腰に帯刀した長さ170センチほどの得物は、彼女の身の丈と変わらぬほどだった。
その姿は、かつて父に連れられ東邦の国【アガリ】を訪れたときに見た、女戦士たちの姿に酷似していた。
あまりの美しさに、エミリーは息をのむ。
声も出ないまま、ただ見惚れてしまい——そのせいで、ハナに命の危険が迫っていることに気づくのが遅れた。
弟切草だった女戦士は、帯刀していた刀を抜き、無言のまま、その切っ先をハナへと向けた。
「……っ」
エミリーが思わず息を呑んだその瞬間、ふたつの影が音もなく割って入り、
「氷捕縛」「炎行李」と同時に呟く。
次の瞬間、弟切草だった女戦士の動きが止まった。
「えっ、なに? 誰かいるの?」
不穏な空気に、ハナが目隠しにしていた布へと手を伸ばす。
ふたつの影がエミリーに目配せすると、彼女は咄嗟に立ちふさがり、言った。
「だ、大丈夫です! もう少しそのままで!」
「大丈夫なわけないじゃないか、なんか寒かったり熱かったりしたよ? もう目隠し取るからね……って、あれ? 誰もいない」
「どうやら失敗したみたいです。やっぱり、どんな花か理解してからじゃないと、魔法は発動しないようですね」
エミリーは慌てて取り繕い、ハナと同じように部屋を見回す。そこには、もう誰の姿もなかった。
「そっか……そうだよね。勝手に魔法が発動しちゃったら、それこそ大変だもんね」
ハナは苦笑いを浮かべ、何も知らぬままマーノリアの手伝いへと戻っていった。
「……あれは、ゴーシュ兄様とローシュ兄様」
弟切草を手際よく連れ去ったふたつの影。その気配と動きに、エミリーは覚えがあった。
ファザ家の五男・ゴーシュ。氷の魔法を得意とし、寡黙で冷徹な執行官。
六男・ローシュ。炎の魔法を操り、軽薄ながら残酷な拷問官。
アララガ国軍執行部に所属し、捕縛・尋問・処刑を請け負う双子の兄弟——“地獄の門番”と恐れられる存在。
「……お兄様方なら、きっと大丈夫」
エミリーはそう自分に言い聞かせ、胸を撫でおろした。
しかし同時に——自分が信用されていないのかもしれないという疑念がよぎり、胸の奥がざわついた。
「少し、出かけてきますね」
「あ、ちょっとエミリー!」
ハナとマーノリアの呼びかけを背に、エミリーは花屋を飛び出す。
胸の中で、何かが警鐘を鳴らしていた。
——何か、とてつもない過ちを犯してしまった気がする。
エミリーは、双子の兄たちの後を追いかけた。
✿
アララガ国へ向かう一台の荷馬車。
その中には、棺桶のような箱がひとつ。そして、それを見張るように、二人の男が向かい合って座っていた。
「簡単な仕事だったな、兄者」
燃えるような赤のショートヘア。くっきりとした目鼻立ちに、爽やかな笑顔。
ファザ家の六男、拷問官であり炎術師——ローシュが言った。
「ああ、女一人攫うだけとはな。俺たちに頼むほどのことか? 父上も耄碌したか」
銀髪を角刈りにし、小さな丸眼鏡をかけた氷術師。無愛想な顔で返すのは、ファザ家五男、執行官のゴーシェだった。
「だが、なかなかの女だった。父上が要らないと言うなら、俺が貰ってやってもいいがな」
そう言いながら、ローシュは棺桶を軽く叩いた。
「……勝手にしろ」
ゴーシェは腕を組み、目を閉じたまま、それ以上は何も言わなかった。
「相変わらず堅物だな、兄者。女遊びのひとつもすりゃいいのに、楽しいぞ?」
「……」
「まぁ、そんなんじゃ女にもモテんだろうがな」
ローシュは楽しげに続ける。
「しかしハナのやつ、女を“作り出す”魔法だなんてな。見直したぞ。あいつが俺好みの女を呼び出してくれたら、今までのことを水に流してもいいかもな」
そう言って、わざとらしく声を高くする。
「魔法が使えないって分かったときの泣き顔は今でも忘れられん。『ボクは……ボクは……』ってな! ギャハハハハ!」
ゲラゲラと下品に笑う弟に、ゴーシェは思った。
——相変わらずだな、こいつは。
才能があるからといって、父上が甘やかすからこうなる。俺とは違う。
寡黙で勤勉なゴーシェと、天才肌で享楽的なローシュ。
性格は正反対でも、魔術の相性だけは抜群だった。
敵の動きをゴーシェの氷で封じ、ローシュの炎で一網打尽にする。
彼らの連携から逃れられた者は、いない。
炎で構築された真紅の棺は術者のローシュ以外には触れられず、中に納められた者は、氷で仮死状態にされたまま運ばれる。
荷馬車の中には、ゴーシェの鼻歌だけが静かに響いていた。
✿
やがて荷馬車はアララガの都に到着し、双子の兄弟はファザの書斎へと棺を運んだ。
「連れてまいりました」
ローシュが扉を叩き、ファザの「入れ」という声と共に部屋へ入り、棺を差し出す。
「それが……弟切草の花だった者か。喋れるようにしてやれ」
ファザが命じると、ローシュが棺の蓋を開け、ゴーシェが中の女の頭部だけを氷から解放した。
「いきなり、何の真似だ」
鋭く睨みつけながら、女は声を発した。
「手荒な真似をして悪かったな。しかしこれは——お前のためでもある」
「俺の……ため?」
その一人称に、ローシュがくくっと笑う。だが女は無視し、ファザの顔を睨み続けていた。
「そうだ。私と、取引をしよう」
「……取引?」
「“自由”が欲しくはないか?」
女の眉がぴくりと動く。
“自由”という響き。それは、彼女の心を確かに揺さぶった。
ファザは静かに語り出す。
ハナの魔法の本質、花が枯れれば死ぬという事実。
ハナが願えば、その存在は消えるということ。
そして、与えられた命が、小間使いのように消費されていく未来。
歪められた情報ではあったが、弟切草だった女は信じた。
理由は幾つも考えられた。
——最初に声をかけてきたのが、この男だったから。
——“自由”という言葉が、あまりにも魅力的だったから。
——ただ、思いきり戦ってみたかったから。
胸に秘めた衝動は、確かにそこにあった。
「……俺に、なにをさせたい?」
弟切草の化身は、わずかに表情を緩めた。




