足枷
✿アララガ国・軍司令部 ファザの書斎
軍司令部の一角、重厚な扉に守られた大賢者ファザの書斎に、一つの足音が響いていた。
一歩ごとに床を踏みしめるような、怒りと焦りのこもった足音。
「ハナとエミリーを……どこへやったのですか?」
扉が乱暴に開かれ、鋭い怒気とともにその場へ飛び込んできたのは、ハナとエミリーの母・フローラだった。
「鍛錬の一部だ。口を挟むな」
ファザは手にしていた分厚い書物から目を離さず、無機質に吐き捨てる。
「鍛錬? 修行? 国のため……? あなたは、いつもそうやって子供たちを……!」
まるで部下を一蹴するようなその態度に、フローラは声を荒げた。
「なんだ? 私に口出しする気か?」
ファザはゆっくりと本を閉じ、ようやく顔を上げた。
「地位、名誉、名声……私は子供らにすべてを与えてきた。お前はどうだ? 無意味な優しさで、あいつらを堕落させる気か?」
「……!」
フローラの唇が震える。
彼の言葉は、事実として反論し難い現実を含んでいた。ハナ以外の兄妹たちは、それぞれ国家における重要な任務を担っている。それもこれも、父であるファザの熾烈な教育の賜物だということは、否定しようのない真実だった。
「それに、ハナについて私は一切関与していない。……一番上の愚息が、街から追い出したとの噂だが、私は興味もない」
「ワンが……!? それでは、エミリーは?」
「知らん。心配なら、首輪でも付けておけ」
ファザの冷笑に、フローラは思わず拳を握りしめる。
「……なんてことを……あなたは……」
「用が済んだのなら、出て行け」
「……」
フローラはもはや、言葉を返すことすら無意味だと悟った。
教育熱心で威厳のある父、誇りある夫だったのは何時の頃だっただろうか——フローラは下唇を嚙み、書斎を後にした。
✿ 同・数分後
書斎の静寂を破ったのは、誰にも気づかれず入り込んだ一つの影だった。
「戻ったか。首尾はどうだ?」
「はい、お父様」
暗闇から静かに現れたのは、エミリーだった。
その膝を床につけ、凛とした声で続ける。
「ハナは、新たにスイートピー、ガーベラ、ストレリチアの花に魔法を使いました」
ファザは椅子に身を預けたまま、興味を示すように片眉を上げる。
「ほう。その者たちの能力はどうだった?」
フローラの時とは打って変わり、ファザはしっかりとエミリーの目を見て問いかけた。
「スイートピーとストレリチアには特筆すべき能力は見られませんでしたが……ガーベラは、アルテメトを使用しました。確認できただけで数十回以上。威力・範囲ともに調整可能で、魔力の底はまだ見えていません」
「ほう……アルテメトを、か。いいぞ、これは使える……でかしたぞ、エミリー」
「……ありがとうございます」
名前を呼ばれ、褒められただけなのに——どうして、こんなにも嬉しいのだろう。
胸が熱くなる。呼吸が少しだけ浅くなる。
ほんの一瞬、母のことも、ハナへの後ろめたさも、心の奥に沈めていた苦しみも、すべてが遠のいていく気がした。
「お母様は……どうしてここに?」
ふと湧いた疑問。自分の報告を母にも聞いてほしかった。自分が“役に立った”ことを、あの優しい人に誇らしく伝えられたなら——。
だが、その想いはあっさりと切り捨てられる。
「アレは捨て置け。足枷にしかならん」
「アレ……」
母を「アレ」と呼ぶ父の声に、エミリーの胸には鈍く冷たい痛みが走った。
「いいかエミリー。お前には才能がある。私に従えば成功する。必ずだ。……努々(ゆめゆめ)忘れるな」
「……はい。分かりました」
「よし、もう行け。引き続きハナを見張れ。できるだけ多くの花に魔法を使わせるのだ」
ファザは嗾けるように手を払った。
「……いや、待て」
その声に、エミリーは足を止めた。
「ヨナが残した記録に、こうあったな——『想いが花を咲かせるなら、無意識の想いは何を生むのか』と」
花の擬人化は、ハナの感情が具現化した結果である可能性が高い。
短いながらも鋭い考察を遺したヨナの言葉を、ファザは静かに思い返していた。
特にストレリチアの一件は例外だった。切羽詰まった状況下で発動したあの魔法——あれこそが、意識の外にある“想い”の発露ではないか。そう感じさせる何かがあった。
ファザは一冊の古い書物を手に取り、ページをぱらぱらと捲る。
やがて指を止めたその先には、一輪の鋭利な花が描かれていた。
「これは……弟切草でしょうか」
「そうだ。次はその花を使わせろ」
「……承知しました」
弟切草——
その名前は、子どもの頃に見た図鑑の中でも、特に強い印象を残していた。
そして、その花言葉も。
『恨み』『秘密』『復讐』
エミリーの背筋に、ぞくりと冷たいものが走る。
(私は……お父様に必要とされている。だから——)
自分の存在価値を、その言葉にすがるように信じて。
エミリーは拳を握り、再びハナのもとへと向かっていった。
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花図鑑No.010
弟切草
学名【Hypericum erectum】
分類【オトギリソウ科、オトギリソウ属】
花言葉【迷信】【敵意】【秘密】【恨み】【盲信】




