帰る場所
「ハナ……おにいちゃ……」
巨鳥の注意を引いてくれたハナの背中を見つめながら、エミリーは思わず口にしそうになったその言葉を、咄嗟に飲み込んだ。
「どちらかが地上に出られれば、助けを呼べます。二人一緒に死ぬなんて、馬鹿げてます」
「どちらか、って言うなら、エミリーが逃げるべきだ」
ハナはきっぱりと否定した。
「地面に風魔法を放ったって、私の体じゃあそこまで届きません。でも……ちょっと、いや、かなり痛いかもしれないけど、ハナを飛ばすことなら、できるはずです」
「でも、エミリーを置いてなんて行けないよ」
「馬鹿。分かってない。冷静に考えて、あなたが助からなきゃ意味がないの。いいから、さっさと行って」
エミリーはそう叫ぶと、ハナの背中に拳を突きつけた。
「大丈夫……大丈夫だよ、エミリー。怖がらないで」
背中越しに感じた彼女の微かな震えに、ハナは胸が締め付けられた。
一歩、また一歩と、ハナは巨鳥のもとへと進んでいく。
「ラクチョも、そうだよ。怖がらなくていい。僕は、君を傷つけたりしない」
ストレリチアの花だった巨鳥は、ハナの柔らかな眼差しを見つめ、ゆっくりと心を鎮めていった。
……私は、何に怒っていたのだろう。
確かに、突然だった。気付けば、花としての静けさから引きずり出され、知らぬ姿へと変えられていた。
翼。嘴。羽ばたける脚。
初めて手に入れた“自由”は、なぜこんなにも苦しかったのだろう。
私は望んだ。
日の当たる場所で咲きたいと。誰かの目に留まりたいと。
それなのに、なぜ私はこの子に怒りを向けていた?
この子は――ハナは、私を花のままでは届かない空へと連れていこうとしてくれたのに。
彼の目に恐れがあった。けれど、それ以上に、心から私を信じていた。
どんなに暴れても、名前を呼び、話しかけてくれた。
名もなかった私に、初めて「ラクチョ」という音を与えてくれた。
私は、ただ――
ただ、空を飛びたかったのだ。
ただ、太陽の光に包まれたかったのだ。
……私を、咲かせてくれた少年を。あの冷たい瞳をした少女を。
今度は、私が運ぶ番だ。
「ピィィィィーーーー」
巨鳥は高らかに叫び、ハナを軽く啄み、エミリーを右足でそっと掴むと、大きな羽を広げて羽ばたいた。
ラクチョは地上に出ると、二人を丁寧に降ろし、空高く舞い上がっていく。
――この命尽きるまで、この大空を独占したい。
その想いが言葉になることはなかったが、彼の飛ぶ姿を見送るハナの心に、不安は一切なかった。
地上に戻った二人は、まるでラクチョが生み落としたかのようなストレリチアの花々をみつけ、優しく摘み取ると、帰路についた。
治癒魔法を施したとはいえ完治には至らず、少し足を引きずる兄の背中を見つめながら、エミリーは自分を庇ってくれたその姿を思い返していた。
「ハナ兄さん……」
「うん? なんだいエミリー」
「さっきは、その……助けてくれて、ありがとうございます」
「お礼なんていらないよ、エミリー。お兄ちゃんとして当然のことさ」
「ハナ……おにいちゃ……。今度から、ハナ兄さんって呼んでもいいかな……なんて」
「変なエミリーだな。当たり前じゃないか」
「そ、そうだよね……」
エミリーは照れくさそうに笑った。
「さぁ、早く帰ろう。マーノリアさんが待ってる」
ハナが差し出した手に、エミリーはそっと自分の手を重ねた。
その手をギュッと握ると、夕焼けに染まった空の下、二人はゆっくりと歩き出した。
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「遅かったじゃないか、二人とも……って、怪我までしてるじゃないか。どうしたんだい、一体」
出迎えたマーノリアは、二人の姿に思わず語気を強めた。
けれど、ハナもエミリーも、その怒りが決して“責め”ではないことをすぐに理解した。
本気で自分たちのことを心配してくれている、優しさから出た言葉だと分かったから。
「ごめんなさい、マーノリアさん」
「わたしたち……約束を破ってしまいました」
ダンジョンに入ったことを正直に打ち明け、事の顛末を語ると、マーノリアは一言も責めず、静かに二人を抱きしめた。
その温もりに包まれて、ハナもエミリーも自然と目を閉じた。
空はすっかり夕焼けに染まり、花たちも静かに眠りの準備を始めていた。
店内では、ハナとエミリーが、マーノリアの淹れてくれた花茶を飲みながら、ひとときの安らぎを噛みしめていた。
「まったく、無茶するんだから。……でも、無事で良かったよ」
マーノリアは笑いながら、そういえば——と、店先の花を見た。
その花は、どこか誇らしげで、まるで何かを伝えたがっているようだった。
「……魔法、使ってもいいよね?」
ハナは思わず立ち上がり、そっと花に手を伸ばす。
「仕方ないですね。一応、お礼も言いたいですしね」
エミリーはあきれたようにため息をつきながらも、どこか嬉しそうだった。
光がふわりと舞い、花の姿がゆっくりと変わっていく。
——そしてそこに現れたのは、あのときと同じ、鮮やかなオレンジ色の髪と赤い瞳を持つ少女だった。
「ふぅ、ようやく出られたわ。……って、あんたたち、また変な名前つけたりしてないでしょうね?」
腕を組んで威張るように言うその姿は、どこか照れくさそうだった。
「おかえり、ジェルベーラ」
ハナがにっこりと微笑む。
「ちゃんとその名前で呼ぶよ。べっちゃん、じゃないからね」
「当たり前よっ!」
ぷいっとそっぽを向いたジェルベーラだったが、その耳はほんのり赤く染まっていた。
「聞いたよジェルベーラ。さすが、私が育てた子だよ」
マーノリアは優しく微笑みながら、ジェルベーラを強く抱きしめた。
「おばさ……マーノリアさん、痛いです」
ジェルベーラはぶつぶつ言いながらも、どこか嬉しそうだった。




