忘れようとした花言葉
最後の力を振り絞り、ジェルベーラはふらりと立ち上がる。
その背中を眺めながら、エミリーはハナに目配せをした。
「このまま気持ちよく頑張ってもらいましょう」
「うん。また後で、ガーベラの花に魔法を使って説明とお礼をしないとね」
ハナも静かに頷く。
「私のこと、忘れないでね……それから、おばさま……マーノリアさんにも。いつも大事に育ててくれてありがとうって、伝えて」
そう言い残し、ジェルベーラは渾身のアルテメトを放つ。
凄まじい光がミノタウロスを呑み込み、その姿を跡形もなく消し去った。
同時に、彼女自身もまた、花としての命を全うし、その場から静かに姿を消した。
「ジェルベーラちゃん、いい子だったね」
「少しワガママでしたけど……」
花はまた咲く。それを知っていても、二人の胸には名残惜しさが残った。
「さて、どうやって帰りましょうか」
エミリーが溜息をついた。
「帰り道、牛さんが塞いじゃったから……」
ジェルベーラがいなくなったことも相まって、急に寂しさが増す。
「日の光が差しているってことは、上から出られるかも。でも、私の風魔法じゃ届きそうにない」
ぽつ、ぽつと、水滴の音だけがダンジョンの最深部に響く。
✿
天井のわずかな隙間から差し込む光が、薄暗いダンジョンの中をぼんやりと照らしていた。ミノタウロスとの戦いを終え、しばらく経った今も、ハナとエミリーは出口の見えない空間で、肩を寄せ合うようにして静かに座っていた。
「エミリー……怖くない?」
ぽつりと、ハナが問う。
「……少しは、ね。でも」
エミリーはゆっくりと首を振り
「……平気よ。強くならなきゃいけないから」
そう自分に言い聞かせた。
「お父さんに言われたの?」
「……」
ハナの問いにエミリーは答えを返さなかった。
しばらく沈黙が流れた後、エミリーがふと目を伏せて呟いた。
「本当は、私……お花、好きなの」
「えっ?」 驚いたようにハナが振り返る。
「花言葉も……たくさん覚えた。子供の頃、お父様の書斎から花の図鑑をこっそり持ち出してね、寝る前に何度も読んだの」
小さな声だったが、それはどこか震えていた。
「でも、お父様に見つかって……睨まれた。“そんな言葉がなんの役に立つ”って、一度だけ、本当に冷たい目で……それが怖くて……」
エミリーは膝に手を置き、ぎゅっと指を握りしめる。
「それから、忘れようとしたの。好きだって気持ちも、意味も……全部」
ハナは黙ってエミリーの隣に座り直し、そっと笑った。
「でも、忘れてなかったんだね。好きな気持ちは、ちゃんと心に残ってたんだ」
「……うん」 エミリーの返事は小さかったが、確かに震えが止まっていた。
「僕もよくお父さんに怒られてた」
「うん、知ってる」
「でもね、僕はずっと好きでいようって決めたんだ」
「どうして?」
「花って、心を咲かせる魔法みたいだから。花言葉だって誰かがその意味を忘れても、誰かが思い出せば、きっとまた咲いてくれるって……そう思ってる。だから、エミリーが強くなるために花言葉を忘れちゃっても、大丈夫だよ」
「そう……なのかな……」
なにが“大丈夫”なのかは分からなかったが、なんとなくハナの言葉に暖かさを感じた。今はそれだけで救われた気がした。
「あっ、あれを見て」
少し時間が経ち、天井から漏れる日の光が当たる場所に、ヒラヒラと煌めくものが目に入り、ハナが叫んだ。
「よし、咲かせよう」
ハナは立ち上がり、エミリーへ手を伸ばした。
「なにを急に……」
あまりに突然だったので、エミリーは反射的にハナの手を取る。
そして、その手の暖かさに、懐かしさと安心を覚える。
「あの花に魔法を使ってみよう」
ハナは天井の光が差し込む先へと歩み寄る。そこに、寄り添うように咲くストレリチアの群れがあった。
「こんな暗い場所でも咲いてる……綺麗だね」
ハナは目を輝かせながら言った。
「やめてください。どんな人が出てくるのか、どんな魔法かも分からないんですよ? また彼岸花みたいだったら……」
ダンジョンに閉じ込められた不安を拭いきれないエミリーは、ハナの手を引いた。
「ストレリチアには“寛容”と“恋の伊達者”って花言葉があるんだ。きっと優しい人が出てくるよ」
「どこからその自信が……恋の伊達者ってなに……」
呆れたように返すエミリーだったが、自分の顔が緩んでいるのを知って顔が少し熱くなった。
ハナは地面に落ちたジェルベーラのシャツを拾い上げ目を瞑り、祈りを込めた。
「お願い、ストレリチア。僕の願いを聞いて——“ブロッサム・インカーネーション”」
ハナの手が、そっと花に触れる。




