優しい思い出
荷馬車の中で、レンリはすやすやと眠っていた。揺れる車輪のリズムと、エミリーの膝の柔らかさが、まるで母の腕のように安心を与えているのかもしれない。
静かな時間が流れる中、ハナがふと口を開いた。
「あー懐かしいね、昔はよく、お母さんと僕とエミリーで、こんなふうにお家の馬車を借りて遊びに行ったよね?」
エミリーは少し驚いたように目を瞬かせた。
ハナが“昔の話”をするのは、いつぶりだろう。
「エミリーったらさぁ、はしゃぎ過ぎちゃって、今のレンリちゃんみたいに疲れ切って、僕の膝でよく寝てたんだよ? 覚えてる?」
「……そんな時代もありましたね」
エミリーは、眠るレンリの頭をそっと撫でながら、声のトーンを落とす。
その表情には、懐かしさと同時に、どこか距離を取ろうとするような翳りがあった。
ふと、エミリーの視線が、ハナの横顔に移る。
ハナは穏やかな顔で前を向いていたが、その目にはどこか影があった。
リリーの一件。自分の魔法で人が倒れ、命が失われかけた現実。
あのあとハナが、しばらく一人でラボの庭園に咲いた花と話していた姿を思い出す。
誰もいない温室で、ひとりぽつんと、泣きそうな顔をしながら「ごめんね」と何度も繰り返していた背中。
あの時——
“話しかければよかった”
“隣に座ればよかった”
エミリーの胸を、今さらのように後悔が締めつける。
「昔さ……」
ハナがぽつりと呟いた。
「お母さんが、僕たちに花の名前、たくさん教えてくれたよね。忘れてない?」
「……そんなことに私のタスクは割けません」
エミリーは、顔を伏せて答えた。
「そっか……」
ハナは少しだけ唇をかみしめて、それ以上は言わなかった。昔の兄だったら、しつこく問いただして、いつの間にかペースに巻き込まれるのに。
本当は全部覚えているのに——楽しかったあの頃のことで花を咲かせたいのに——
けれど、次の言葉は出なかった。
エミリーの胸には、ファザの声がこだましていた。
「特別な存在であれ」「優しさは力にならない」——まるで呪いのように。
“父の望みに応えなければ、自分の価値はない”
そんな思いが、鎖のようにエミリーを縛っていた。
「ハナ、あなたは……もっと強くならなきゃだめ。でないと、また同じことが起きる」
少し強い語調で、エミリーは言った。
それはハナを叱る言葉ではなく、自分自身への言い聞かせでもあった。
「うん、僕、ちゃんと強くなるよ」
ハナの声は、どこか大人びていた。
その横顔に、ほんの少しだけ、お母さんに似た面影を見たような気がして。
エミリーはそっと、レンリの額にかかった花びらを直しながら、再び黙った。
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花図鑑No.007
スイートピー
学名【Lathyrus odoratus】
分類【マメ科、レンリソウ属】
花言葉【別離】【門出】【ほのかな喜び】【優しい思い出】




