芥子の願い
「エミリーーーッ!」
ハナの悲痛な叫びが、冷えたラボの天井に反響する。
「あらあら、お兄ちゃんったら。なんにも出来ないのに、大声なんか出しちゃって」
ケーシィはエミリーの髪を撫でながら、淡々と、どこか壊れた玩具のように微笑んだ。
「なんで、なんでこんなことをするの……」
ハナは唇を噛んだ。自らの魔法が、またも家族を壊そうとしているという絶望。指先まで震えるその怒りを唇にぶつけるように噛み締めると、すぐに赤い血が滲んだ。
「魔薬を使え、ハナ」
ニコが静かに言った。差し出された小瓶の中では、淡い琥珀色の液体がとろりと揺れている。
「魔薬? エミリーが言っていた、あの凄い効果の薬のこと……?」
「そうだ。強化剤としては最上級……だが代償も最悪だ」
「どうして今、そんなものに……そんな暇はないよ。僕は、エミリーを助けなきゃ……!」
ハナは首を振ったが、ニコの声は冷徹だった。
「魔法を制御できぬ者が、今さらどうやってケーシィを止める? 手段を選んでいる余裕はあるまい」
「……これを飲めば、本当に止められるの?」
「……おそらく、な」
その答えは曖昧だったが、ニコの目は確信を秘めていた。いや、むしろこの瞬間を待っていたかのようにさえ見えた。
「でも、これって危険なんじゃ……?」
周囲に転がる呻き声を上げる軍人たちの姿。皮膚が裂け、歯を食いしばる彼らの末路が、薬の本質を物語っていた。
「自分の作品に嘘はつかん。魔薬は身体能力と魔力を爆発的に高めるが、適性がなければ廃人。……それでも使うか?」
「……使うよ。失敗したって構わない。僕は、ニチ子に“強くなる”って、約束したんだ」
ハナは迷わなかった。小瓶の蓋を外し、迷いも戸惑いも飲み込んで、一気にその液体を喉に流し込んだ。
「ダメ……ハナ兄さん……」
震えるような、か細い声が届いた。魔法の効果で心を曝け出されたエミリーの本心が、ハナの名を呼んでいた。
けれどもう、後戻りはできない。
「今、助けるから。絶対に……!」
口元を拭いながら、ハナはケーシィに願った。ニチ子を人に戻したように、自分の魔法がきっと届くはずだと。
「ケーシィちゃん、お願い……僕の願いを聞いて……!」
ハナは強く祈る。魔法の本質を、信じて。
だが――
「バカなお兄ちゃん。そんな薬、意味ないのに」
ケーシィの微笑みは、どこか寂しげだった。
「どうして……どうして花に戻ってくれないの……」
「だってその薬……私の成分でできてるんでしょ? 私の魔法が、私自身に効くわけないよ」
「そ、そんな……」
ハナは膝から崩れ落ちた。希望が、脆くも崩れていく。
「魔法効果の打ち消し……実に、興味深い」
ニコの手がノートを走る。弟の絶望さえも“実験結果”として記録しながら、満足げに唇を吊り上げる。
「でも……いいよ、お兄ちゃんが、そんな危険を冒してまで願うなら」
ケーシィはそっと、エミリーの顔に触れた。
「ごめんね、エミリーちゃん。私の願いより、お兄ちゃんの願いの方が……強かったみたい」
そう言って、彼女はエミリーをゆっくりと床に横たえ、立ち上がる。
そして静かに目を閉じた。
✿
地下施設がまだ新しく、芥子の花が咲き乱れていた頃――
少女は、ひとりきりで歩いていた。うつむき、歯を食いしばり、感情を押し殺すように。
そして、その視線の奥は、いつも何かを、誰かを、強く――強く憎んでいた。
風など吹かぬ地下のはずが、そのときだけ、ふわりと髪が揺れた。芥子の花の香りが鼻をかすめる。
少女はその香りに、懐かしさを覚え、立ち止まった。
「また、お兄ちゃんと……一緒にお花を育てられたら、どんなに……いいことか……」
その声は掠れ、震えていた。
「お兄ちゃん……ハナお兄ちゃん……もう嫌だよ、こんな生活……」
「エミリー。訓練の時間だ。急げ」
呼ぶ声は、命令にも、慰めにも聞こえた。
少女は涙を拭い、立ち上がる。心に芽生えたやわらかな感情に、背を向けながら。
「強くならなきゃ、捨てられちゃう……こんな弱い思いなんて、消えてしまえばいいのに……」
そして彼女は、芥子の花に背を向けた。
✿
その少女を見ていた芥子の花は、思う。
人は、わたしの力で、すべてを忘れるくらいの刺激を得る。
たとえそれが、死に至る快楽だとしても。
それでも「そう願う」のなら――その願いを、叶えてあげたいと。




