戻れぬ花
振り下ろされた獄炎剣は、ニチ子の前に飛び出したハナへ襲いかかった。
「くっ」
ニチ子は木剣を投げ捨て、咄嗟にハナに覆いかぶさる。
なぜ、自分がそんな行動を取ったのか……。
その理由を、ニチ子は瞬きの間に思った。
──自分は、ただの花だった。
喋れない、動けない。生まれ育ち、風に揺れ、やがて朽ちて土に還る存在。
思考はあっても届かず、想いはあっても形にならなかった。
それが“生”だと思っていた。
それが“普通”だと、信じていた。
だが、ハナに出会った。
名を呼ばれ、願われ、人としてこの世に在ることを許された。
自由に動けるようになり、言葉も発せるようになった。
けれど……最初は、それがどうということでもなかった。
“自由”なんて、ただ重いだけの枷に感じた。
どう生きればいいかもわからない。意味も見出せなかった。
──それでも。
人の姿で生きる時間が長くなるほど、心の中に少しずつ何かが芽生えていった。
剣技への憧れ。
ハナの優しさと、時折見せる弱さ。
ヨナへの激しい憎しみ。
そして……誰かを大切に思う心。
それらが、すべてハナと出会ってから芽吹いたものだと気づいた瞬間。
ニチ子の中に、確かな感情があふれ出した。
──ハナを、守りたい。
自分を咲かせてくれたこの少年を、何があっても。
「なにっ!」
ヨナは絶句した。
渾身の力を込めて振り抜いた獄炎剣は、確かにニチ子の頭を捉えたはずだった。
だが、砕けたのはヨナの剣の方だった。
剣は半分に折れ、獄炎を纏った剣先がクルクルと宙を舞った。
「ヨナッ、避けろ!」
ファザの声が響くまで、ヨナは呆然としていた。
絶大な信頼を置く魔法剣が砕けたという現実を、まだ理解できずにいた。
「グハッ……!」
落ちてきた剣先がヨナの右肩から肘を裂き、悲鳴を上げさせた。
ファザの声がなければ──命を失っていたのは彼だったかもしれない。
「エミリー、治癒魔法だ」
「承知しました」
道場の隅で呆然としていたエミリーが、ファザの声に反応しヨナへ駆け寄る。
「ここで待っていてくれ」
ニチ子はハナの頭に手を当て、静かに立ち上がった。
「え? なに? どうなったの?」
ニチ子に守られていたハナは状況がつかめず、傷を負ったヨナの姿を見て愕然とする。
「今ここで奴にトドメを刺す」
「ニチ子……何を言っているの?」
その言葉は届かない。
手放していた木剣を再び握りしめ、ニチ子はヨナへと駆け出した。
──あの男を殺せる。
自分を育ててくれた、優しい花屋の娘を汚した男。
花を……散らせた男。
怒りが、心の底から湧き上がる。
いや、それは怒りなどという言葉では足りない。
花だった自分が抱いた、あのときの悔しさ、無力さ……
ただ咲くだけで何もできなかった、あの無念の全て。
今なら──動ける。
剣を振るえる。
意思を示せる。
そのことが、ただただ嬉しかった。
この胸の鼓動が、たまらなく心地良かった。
「ファイヤーテンペスト!」
ファザの叫びが響き、全てを焼き尽くす大賢者の魔法がニチ子を包む。
だが──ニチ子の【不朽】の魔法の前では無力だった。
「うぉぉぉぉ……ッ!」
炎を纏いながらも、ニチ子は木剣を振り抜いた。
「くっ」
ヨナは左腕に防御魔法を展開し、かろうじて攻撃を防ぐ。
「お前が……お前さえ居なくなれば……お前がぁ!」
防御魔法に阻まれても、ニチ子の手は止まらない。
木剣には自身の魔法効果が宿り、どんな金属よりも硬く強い刃となっている。
手負いのヨナの魔力が尽きるのは、時間の問題だった。
「ハナッ、止めさせろ、兄が死ぬぞ!」
ファザが叫ぶ。
エミリーはニチ子の鬼神の如き姿に怯え、動けずその場で蹲る。
「ニ、ニチ子、やめて!」
ファザの声に、ハナはようやく我を取り戻し叫んだ。
「ダメだよニチ子。ヨナ兄さんが死んでしまう。お願いだから……もう、お花に戻って!」
ハナの叫びが響く。
その声に、ニチ子の動きが一瞬だけ止まった。
──シーラは、ハナが願えば花に戻ってくれた。
自分の魔法は、花を人の姿にし、そしてまた花に戻す魔法。
そう信じていた。
けれど……ニチ子は、戻らなかった。
「ニチ子っ!」
ハナはその背に抱きつき、涙ながらに訴える。
「お願いだよニチ子、もう止めて」
「ハナ、危険だ。下がっていろ」
ファザの放った魔法の飛び火が、ハナにも届こうとしていた。
「嫌だっ、どかない!」
ハナは両手を広げ、ヨナの前に立ちはだかる。
「邪魔をしないでくれ。これは私の問題だ」
ニチ子は木剣を振り上げ、ハナを威嚇する。だがその瞳には、わずかな揺らぎが宿っていた。
「お願いだよニチ子。僕が好きなお花は、誰かを傷つけたりなんかしない。ヨナ兄さんがニチ子に……千日紅の花に、何か酷いことをしたのなら謝るから。僕が一生懸命、お世話して、償うから……!」
ハナの声が、真っ直ぐに、ニチ子の心を貫いた。
「ハナ……」
──“もっと、きれいに咲けるように頑張るから”
花屋の娘の言葉が、脳裏に浮かぶ。
そして、彼女の姿が、いま目の前にいるハナと重なった。




