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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

抜け殻のヒーロー

作者: アカネ


今の俺には、何も残っちゃいない。

いや...たったひとつだけある。

それは俺にだけ、俺だけがまっとうできる使命だ。

それが、俺がまだこんなところで呼吸をしている意味なんだ。


俺は、手芸が得意だったんだ。

誰よりも早く、綺麗に縫うことができて...

でも、ない物を縫うことはできなかった。

結局俺は彼女を縫い留める事なんてできなかったんだ。


でも、もう俺は何者でもない。


俺の全てだったあの子は、もうここにはいない。

俺からすべてを奪い去って、勝手に幸せになっていった。

だから、彼女が誰よりも憎い。


でも──それでも。

俺の心に残る唯一のもの。

それが、未だにくすぶる“熱”だった。

人生なんて簡単に棒に振れてしまうほどの、一生分の熱。


俺は、馬鹿だから。

そのちっぽけな言葉ひとつくれたあの子のことを思い出すと、

それだけで「これでいいんじゃないか」って思ってしまう。


あの子の声は、たぶんもう聞けない。

でも、網膜にはずっと彼女が焼き付いている。


決して綺麗とは言えない黒髪。

服の端から見える、いくつもの痣。

そんな身体の中で、俺を俺たらしめてくれる罪深い爪。

あの子がどんなところに居たって、なぜか光を宿していた焦げ茶色の瞳。


──あの子を超える衝撃は、もうきっとこの先にはない。

もし来るなら、誰でもないこの俺が否定する。

あの子より美しいものなんて、信じない。


スマホを手に取り、バイトの時間を確認する。

通知は無視して、ひとつずつ消していく。

確認なんて、もうしない。

そんな癖は──この手と足が自由にならなくなった時から、消えた。


そして、今日も僕は“あの子の抜け殻”を見る。

更新されていないSNSのページ。

何度も見返した、結婚式の写真。どこをズームしても、新しい発見などない。


俺の知っていたあの子は、もうどこにもいない。でも、俺にはこれしかないんだ。

今いるのは、抜け殻だけだ。



僕は昔から、感情を言葉にするのが苦手だった。

嬉しいときも、悲しいときも、上手く言葉にできなくて、よく黙ったまま誤解されていた。


それはたぶん、親が転勤族だったのがよくないんだろう。

たしか二つ目の学校だった。最初の学校から離れて不安だったけど、勉強も別にできたし、運動もできた。

なにより手芸の特技がすごく受けた。ぬいぐるみはよく褒められた。それが気に食わなかったのだろう。僕はすぐにいじめられた。

転勤による度重なるリセットだけが、僕の感情を守ってくれていた。

場所が変われば、僕の記憶は時間とともに薄くなるからだ。


何かが起こればそれは僕のせいになり、先生から形式的に怒られたあと、休み時間にはクラスメイトから制裁という名の暴力を受ける。

大人なんて信じられない。それこそ同級生なんかよりも利害で動いている。きっと面倒だから関わってこないんだ。

大人は同級生よりも冷たくて、遠い。

僕はいつの間にか学校に縫ったぬいぐるみなどを持ってこなくなっていた。持ってきてしまえば綿はあふれ出し、糸はぐちゃぐちゃになる。

必死に縫った記憶も、時間も、壊されてしまうから。

人間というのは不思議で、ふだんからそうしているとそういう人間になってしまう。幼少期なんて特にそうだろう。


次の学校でもその次の学校でも、中学校でも僕は変わらなかった。


僕がなにかを選んでいる間に、誰かが大きな声で正解をいったり、からかってきたりする。

うまく笑えなかった、反応ができなかった時には空気が悪くなって僕がみんなの共通敵になる。


自分のせいじゃないと思いたかった。

でも、みんなからの視線や態度で感じるんだ。

「努力が足りない。」「もっと人に合わせろ。」

言葉にされなかった分、余計に僕には伝わった。


気づいた時には、もう一人の自分が心にいた。いや、すり替わっていた。

面白いことがあっても、悲しいことがあっても、その自分が笑おうとすれば「お前の笑いなんか、誰も求めていない。」泣こうとすれば「また、下手な演技をするのか?」と囁くんだ。それはこれまでみんなの反応に合わせようとして失敗した羞恥心の塊だった。


だからなのか、僕は人に心を開くことがなくなった。

ノートを貸して、答え教えて、そんな利害関係でしか友達を作れなかった。

でも僕にはそれでよかったんだ。

曖昧な感情を信じられる時期なんてとっくに過ぎていた。ただの論理的帰結、利害の一致が僕を安心させた。

「ありがとう」「助かった」の一言が僕をまだ生きさせてくれる。


このままで終われたならよかったかもしれない。

人より幸せでは無いながらも、なんとか普通を演じれたかもしれない。

でも、僕はまだ何かを失わなければいけないようだった。僕を惑わす魔女が来るんだ。



高校生になって、転校が終わると聞かされた。


「よかったね」と言われたけど、胸の奥はどこか冷えていた。

ここなら大丈夫なんて思える心は僕にはもうなかった。


でも入学初日は、いまだに緊張する。わかってる。ここで決定的に何かを変えられるわけじゃない。でも、最初の数日がここで決まる。


教室の席に座って、ホームルームを待っていた。

先生が入ってきて、やたら明るい声を張り上げる。

どうせ自己紹介をさせるのだろう。気が重い。


「よーし!今日も元気にやっていこう!でもその前に……転校生がいます!」


その声で全員の視線が僕に向いた。


椅子を引く音がやけに教室に響いた。この断罪を待つような空気感が僕は嫌いだ。


「ぼ……僕は……」


と口を開きかけた瞬間、先生に止められた。


「ごめん、名前だけ先に黒板に書いてくれない?」


くすくすと笑い声が聞こえる。重要なことは聞き取れないくせに、僕の耳はどこまでも僕をいじめたいようだ。

何度も経験してきたことだ。いつもと同じ。

なのに、チョークを握る手が震える。


カタカタと音を立てながら書いた「牧原秋」。震え続けるチョークでいつよりも丁寧に書いたはずなのに、黒板に書かれた文字は酷く歪んでいた。


振り返ると、教室はシンと静まり返っていた。

さっきまで聞こえていた笑い声は、もうない。

そう、これだ。これなんだ。全員が僕を注視している。だれもが僕を笑いものにしようとしている。

だんだんと音が遠ざかり、自身の鼓動だけが音を増していく。


言葉が出ない。

喉が、硬直していた。


先生の声が何かを言っていた。

でも聞こえなかった。

心臓の音だけが、耳の中でサイレンのように響いていた。


その時だった。


「──あっ、牧原くん!? 秋くんでしょ?」


明るくて、優しい。高くも低くもない、耳に馴染む声。


僕は驚いた。

あの声は知らない。こんなに心に響く声を忘れるはずがない。


教室のざわめきの中で「結城の友達?」「澄香の知り合いかー」という声が聞こえた。


僕の緊張は、驚きに負けた。


「まっ……牧原秋です。よろしくお願いします……」


視線は、彼女に釘付けだった。


どこか影を帯びた雰囲気。髪は乱れていて、頬には痣のような跡がある。

でも、なぜか明るい印象を受ける。

整えられた爪、まっすぐな瞳。全体に似つかわしくないくらい、澄んだ瞳。


彼女は満足そうに笑って、席に座った。

僕の席は、偶然──いや、配慮かもしれない──彼女の隣だった。


「……ありがとう」


不器用に伝えると、彼女は不自然なくらいに目を丸くして、すぐに笑った。


「ううん、困ってたみたいだったから。こっちこそありがとう!」


その笑顔は、日差しの中に溶けるように明るかった。


──結城澄香。


彼女は不思議な存在だった。


午前中は明るく、誰とでも楽しそうに会話をしていた。

でも午後になると、彼女の周りには示し合わせたように、人がいなかった。


理由はすぐにわかった。


数日後の午後。

いつものようにペンが紙の上を走る音だけがなっていた。だが、その日はそれだけではなかった。

重苦しい足音が響く。

教室のドアが荒々しく開かれた。


「おい! 結城!!」


誰だ、と振り返る前に、彼女の表情が変わったのがわかった。

怯え。凍りつくような。


ドアの前には、大柄で髭面の男が立っていた。


「てめぇ...なにガン飛ばしてんだコラ! ぶっ殺されてえのか!?」


……いつの間にか、睨んでいたらしい。


次の瞬間、頬に衝撃。

視界がゆがみ、意識が遠のいていった。


──目が覚めたときには、裏庭だった。


首を引きずられ、壁に投げつけられた。

言葉はわからない。ただ、殴られていることだけが確かだった。


再び、意識が途切れる。


……次に目を開けたとき、空は朱に染まっていた。


やわらかいようで、その奥にはしっかりと芯がある感触。

膝枕──だった。


「……起きたの?」


見上げると、結城さんがいた。


その後の話を、ぼんやりと聞いた。

あの男は、彼女の父親。

二週に一度、午後に学校へ現れる。


誰も彼女に関わらないのは、そのためだった。


彼女は言った。


「あの人、昔この学校に寄付してたんだって。いまも、たまにしてるみたい。」


僕は腹の底が冷えるのを感じながら、痛む体で頷いた。


それでも僕は、次の日も彼女に話しかけた。

午後になっても、席を離れなかった。

発見はあった。彼女はごはんを食べている時が一番可愛い。初めて話しかけたあの時よりも数段は良い笑顔をしている。


そんな日々を過ごすなかで、もちろん教師などにも事情は聞いた。誰に聞いても彼女から聞いたような話しか出てこない。

あんな奴でも社会的に強いらしい。この学校は腐っている。心底そう思った。


そしてある日。


「ねぇ、今日は一緒に帰らない?」


その一言で、僕の世界から雲ひとつなくなるような心地がした。


帰り道。

彼女は、少しだけ照れながら話し出した。


「……恥ずかしいから、一回しか言わないよ?」


「みんな、私をかわいそうって目で見るの。だから、あなたみたいに普通にしてくれる人って、いなかった。」


僕は、黙って聞いていた。いや、混乱と興奮でなにも言えなかったのだ。


「お父さんに何されたって、話しかけてくれてさ……」


「だからね、思ったの。……きっとね、私のヒーローだって...そう思ったの。」


心臓が、うるさい。

世界から音が消えて、彼女の声と、自分の鼓動だけが響いていた。


「だからさ──ずっと、私のそばにいてね。」


──あのときの笑顔を、僕は今でも覚えている。


あれから、僕の時間は彼女とともに流れていた。


今思えば、あそこが引き返せた場所だったんだろう。

それでも、僕には砂粒ほどの後悔すらなかった。



結城澄香が、学校に来なくなったのは、六月の終わりごろだった。


理由なんてわからない。だって彼女と仲が良いと言えるのは僕だけだったし、その僕が知らないんだから。


結城の席は数日も経てばそこには元から誰もいなかったことになった。

切り傷がかさぶたすら作らず治ることがあるように、この腐れ切った学校の治癒力は中々な物だった。


彼女の名前が教師から呼ばれなくなり、彼女の残滓というものがなくなり始めてからは何もかも静かになった。

彼女がいなければ、ここはこんなにもつまらない場所だったのだ。朝、昼、夕と三種の光に照らされ、鮮やかな輝きを放っていた爪。

その輝きが僕を呼んでいた。

彼女がいない日々は、生きた心地がしなかった。

僕もきっと、もうクラスでは名前の呼ばれない生徒になるだろう。


親はなんとなく渋い顔をしたが、気づかないふりをしてくれた。

恐らく気づいていたんだろう。そのくらい転勤する前の自分と今の自分が乖離していることはわかる。


そこからはこの街を練り歩いた。

ヒントなんてない。僕は彼女のことをなにも知らない。

好きな食べ物も、好きな色も、もっと広く言えば好き嫌いのようなものを知らない。

僕は彼女にヒーローだと呼ばれたこと。それだけで僕には十分だった。


そこから数か月たった秋。

僕は彼女を見つけた。僕らのいた街はもう巡り切った。何時何分どんな場所にいようとも確認できるであろうルートはすべて通った。

部屋はメモや地図の残骸で埋まり、帰れる場所ではない。


彼女は隣町の悪名高い深夜の広場にいた。

妙に容姿に気を使った服。男受けの良さそうな化粧。周囲に同じような奴らはたくさんいたが、僕にはわかった。


痣もなくなっていたけれど、あの黒髪も綺麗になっていたけれど。あの瞳とやけに綺麗な爪をわすれるはずがない。

彼女の瞳にはあの日と変わらない輝きが映っていた。


「結城...やっと見つけた。」


その言葉を掛けたとき、周囲の目線すら僕には気にならなかった。

彼女のためなら僕はトラウマだって無にできる。今ならそう確信できる。


「なんで......?」


そういった彼女は教室で初めて話しかけたあの時のように目を丸くさせている。

変わった彼女の外見なんて気にならなかった。ただここで、彼女が僕に話しかけてくれている。僕にはそれだけでいい。


「だって僕は、君のヒーローだから。」


なんで?なんて言われるとは思わなかった。だってこれしかないじゃないか。だから僕はまっすぐと、彼女を見ながら迷わず言う。

その言葉を聞いて彼女は、いや彼女の友人たちもまとめて吹き出した。


「なにそれっ...バカじゃん!」


その笑顔はたしかに結城澄香だった。やっぱり彼女は笑っている時が一番いい。これを引き出せるのが俺だけなら...とも思う。



社会人すらほぼ歩かないような夜更けに彼女の話を聞いた。


べつに何かが変わったわけじゃない。むしろ僕が悪い。

優しくされたのならその変化は心を弱くしてしまう。彼女は自分を守らねばならなかったのだ。


そんな彼女を見ていると、僕の心はより一層決意を固めた。


何か特別なことがあったわけじゃない。ただ、この夜の街にいる彼女を見ていると実感する。

学校にいた彼女と根本はなにひとつ変わっていない。だから、僕は僕にしかできない事をしようと思った。


僕はまず彼女にマフラーなどの防寒着を贈った。

さすがに手作りなのはどうかとも思ったがそれでも手作りした。

他の子にも作ってほしいと言われ、彼女の目の前で作った時の事は今でもはっきりと覚えている。


「ええっ!!!すご!?早すぎない!?」


僕は将来衣服などを縫う人になろうと思った。


彼女の仕事についていったこともある。

いわゆるパパ活というもので、見守るだけしかできない自分に腹が立った。僕はヒーローじゃなかったのか。縫物で稼ぐにしても、僕ではまず仕事を頼んでくれる人間がいない。結局彼女に労働を強いてしまうんだ。

彼女が体を売ること自体には正直あまり抵抗はなかった。こればかりは幼少期に死んだ感情に感謝しないといけない。


そんな彼女の金魚のフンと化していた日々のなかで、彼女がどうしても客を取れない日々が続く。

恐らく、新しく来た新顔の若い子たちに客を取られてしまったんだろう。


その日はどこかに泊まるお金すら持ち合わせていないようだった。


「その...僕でよければ出すよ...?」


ありったけの勇気を込めたその一言はいつものまあるい目で返される。


「ほんとに...?」


いつもなら断っていただろうに、今回に関してはよほど気が滅入っていたのだろう。

僕たちはホテルへと向かった。


部屋に入り、鍵を置いてから出ようとすると彼女から止められた。


「お礼...させて。」


心が躍っていたというほど興奮できたわけではない。なんだか彼女の弱みに付け込んだようで僕の心地としては悪かった。


行為について言えば、たしかに彼女は上手くはないんだろう。顔もスタイルだって周囲の見解を聞けば高く見積もって50点ほどだ。


食べ物を食べている時の澄香より可愛いものが存在したのには正直驚きだった。

あの夜に付けられた背中のひっかき傷は今でも僕の背中に残っている。いや、残したのだ。


あれからしばらく経った。


もう何度もホテルに泊まり、お礼を受ける。

どんどんと価値が薄くなる彼女に親近感を覚えそうになることもあったが、彼女の笑顔を見るとそんな気も失せた。

あんな綺麗なものに俺の影などみじんも残してはいけないんだ。


彼女には特別感はないだろうけど、僕にはいつだって特別だった。

癖なのか、するたびに彼女は背中の傷を深める。すこし膿んできたときは病院で薬をもらう。傷口をなくそうとは思えなかった。


なぜかはわからないが、彼女とは別れることになると確信していたのだ。


それが円満な形なのか、最悪の別れなのかはわからない。でも、僕と彼女では絶対に生きる場所が違う。それだけは強く感じていた。

彼女が友人たちと仲良くしているところを見ると余計に感じてしまう。

だって僕は結局だれとも仲良くなれなかった。


そんな別れの日は突然訪れた。


いつものように広場に向かうと、なんだか賑やかだった。

人混みをかき分けながら現場を見ると、恰幅の良い男が三人がかりで一人の女の子を引っ張っている。

もう実力行使すらためらわない勢いで。


じりじりと距離を詰めながら女の子を確認すればそれは結城だった。

それは丁度彼らが実力行使を終えた時。

彼らは結城を抱え、走り去っていった。


その背中を追いながら、僕も走った。

彼らが車に乗り込もうとしたとき、ぼくは結城に手が届いた。


彼らが何かを言っていた気もするが、もう今では思い出せない。110番に電話したまま床に落とした電話と、殴りかかる暴漢から自分の意識を守るのが精一杯だった。


気づいた時にはこんな体になっていた。

いくつか臓器はダメになり、けじめで必要なんだとか言って、僕の指は10本から7本になった。


...僕の指を奪ったところで、一体なんのけじめになるのだろうか。


後日にニュース記事を見れば彼女は警察に保護という形になっていた。

それだけで僕は幸せだった。



抜け殻を見ていると、あの記憶を思い起こす。いつものことだ。


セミの抜け殻を見れば、セミの事を思い出す。それと同じだろう。

僕は酒を飲める年齢をとっくに過ぎても抜け殻を集めている。

でも仕方ないんだ。今はもう抜け殻にしか存在しない。結城澄香は遠くに行ったんだ。


結婚式の写真にはどこかでみたような男が映っている。たぶん、あの夜の街にいたんだろう。

俺の知らない奴と、俺の知らない顔で、俺の知らないことをして。幸せそうに、お腹を撫でている。


「もうすぐバイトか。」


事実確認のための独り言を零し、いつもの作業に入る。


ここからバイト先までは遠い。一時間半ほどかかる。こんな腐りきった障害者を置いてくれるだけ感謝すべきだ。

今日もまた確かめる。俺の中にいる澄香の存在を確かめる。

いつものカッターナイフを持って背中の傷をなぞる。最初は下手だったが、いまではもう失敗するほうが難しい。


流れ落ちる血液の温かさが澄香の中を思いださせる。そして痛みが今の自分を殺す。

鏡に映る傷が、俺に澄香を宿らせてくれる。ジンジンと痛むこの感覚が澄香の呼吸みたいに思えた。


きっと俺も抜け殻なんだ。俺の中に澄香はいる。

認識が人を生かすんだ。ぼくに認識されているのなら澄香はそこに生きている。

僕はヒーローだから。澄香を信じ続けるんだ。

それだけが、澄香の生きる術なんだから。


ドアを開ければなにひとつ変わらない真っ赤な景色が俺を出迎える。

すこし剥がれ落ちたペンキの目立つ壁や、先月からずっとシャッターの下りているビデオ屋。

そしてすぐそこには...コン


「澄香...?」


コンビニがある。その前には澄香がいた。

不意にこちらを振り向く。彼女は何かに気づいた様子もなく、側のベビーカーに目を向ける。


ああ。あんなのは澄香じゃない。きっと見間違いだろう。

そうだ。違うにきまってるんだ。

澄香にはこんなさびれた街は似合わない。


誰もおらず、ひとり寂しく駅前を歩く。

この駅には人がいなさすぎる。


なにも感じない景色のなかで、背中の痛みだけが...それだけが僕の世界を色づける。


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