胡蝶はにやりと笑う。やりがいがある仕事は、とても好きよ。
ひらひらと蝶が舞う。
アドリアーナ・デッラ・フリーニ子爵令嬢は、それを横目で見ながら茶に口を付けた。
彼女の貴族としての振る舞いは完璧である。
音一つ立てず茶器を持ち上げ、ゆっくりと流れるような動作で口を付ける。
白を基調としたドレスと相まって清冽な中にどこかな色気を感じさせる、そんな仕草だった。
彼女が属するフリーニ一族の主家である、フリーニ伯爵家嫡男イレネオは、彼女を見つめる視線に熱がこもらないようことさら気をつけながら言葉を繋ぐ。
「芥子の君が国を出た」
その言葉に、アドリアーナの眉がぴくりと動く。
何故か、と問うような視線に彼は肩を竦めて見せた。
フリーニ伯爵家は、帝国で代々「紋章官」という役職を与えられている。
この大陸の三分の一強を擁する帝国の歴史は古く、広大な国土に封じられている貴族の数も多い。
多いが、良くも悪くも実力主義の傾向があるこの国では功績を上げれば平民とて貴族籍を得ることが、他国に比べると容易である。反面、凋落する家も多いことが知られている。
平民に与えられる爵位は男爵、準男爵、騎士爵とそれなりに種類があり、下り坂に踏み込んだ貴族家の中にも一気に平民とまでなる物もあれば、温情でかろうじて貴族とされる準男爵あたりにひっかかる家もある。
一時期帝国内では「いかに素早く家格替え、領地替えに対応できるか」が実力のある貴族の指標とされている時期があった程だ。
数代前の皇帝はその家格変動の激しさに頭痛をおぼえ「紋章官」という職務を作り、担う一族を指名した。
貴族へ取り立てする基準を厳しくすれば良い、といった元有る貴族からの意見は封殺された。
遠い地を治めるためには従順な僕が必要で、力を蓄えた貴族達を押さえるより平民に恩を売って餌を与え、また餌が食えると期待をさせて飼い慣らす方が楽だからだ。
今のところその方針で上手くいっている。
不満を持ったり実力の無い貴族はその座を平民に取って代わられる。
危機感を持った貴族達、力を持てばと意気込む平民達。それらが相乗効果をもたらし、帝国の隆盛を下支えしていた。
そんな帝国の中でフリーニ家の役割は多岐にわたる。
例えば貴族家の代替わりの時、帝位相続の継承位を決める時、そんなとき活躍するのが紋章官だ。
家門・血統を全て把握している彼らが第三者として「正しい」血筋であるかを詳らかにすることで、正当性を明らかにしたり問題の早期収束にと大いに役立っていた。
その役割を世襲してきたフリーニ家は、帝国が発足した当初から存在する旧家中の旧家でありながら、帝室とは一度も縁づくことなく媚びを売る必要も無く阿ることをしない、またそれが許された一族であった。
勿論他国から見ればこんなに「利用できる」家は無い。
昔からどうにか縁付こうと様々な誘惑を仕掛けられてはいるのだが、一族通して研究者気質を持った者が大多数を占めていたため金銀財宝や地位には目もくれないし、他国に通じることによって派生する面倒を考えてか甘言に乗ることは無い。
また外から嫁いで来る者も同じような気質であったため、これまで問題となったことは一度も無かった。
さらに重要な情報に触れることができるのは直系と、当主に選ばれた極一部であるため一族の秘匿性・重要性は天井知らずである。
ちなみに一族にたまに出現する「気質に合わない例外者」も特に制約されることなく、ある者は他家に嫁ぎ、ある者は国外出てと自由に過ごしている。そもそも、そんな気質の者は面倒な家業に興味が無いため問題となることは無い。
今現在、次代のフリーニ家は、本来であれば優雅に茶を嗜むアドリアーナの筈であった。しかし彼女は研究者肌というよりも社交や計謀が得意であり好むと言うフリーニ家としては一風変わった気質を持っていた。
結果、数年前に一族の総意でもって分家である子爵家の養子とされ、情報を集めたり一族のための謀をする担当となる。
割を食ったのはアドリアーナが養子となった子爵家の嫡男でイレネオだ。「フリーニ家らしい」性質を持った彼は、将来は紋章官を支える文官として大いに働こうと目標を持って勉学に励み、社交などはどこ吹く風、とのほほんとしていたのに突然主家の嫡男に押し上げられてしまった。
当然、反抗したし目一杯の抵抗をした。
書物を好み、資料の編纂を最高の娯楽とする彼には主家嫡男という立場は面倒事でしかなかった。
しかし今代当主の「アドリアーナを嫁にできるぞ」という甘言にふらふらとよろめき、気がつけば周りの意に沿い、嫡男としての教育を受けていた。
元々イレネオのアドリアーナ好きは、皆が知るところであった。
新年を祝う一族の宴席で初めて目にした時、常に大事に抱えていた読みかけの本をごとりと取り落とし、首元まで真っ赤に染めたのは彼が5歳の時だ。
以降、主家嫡男となるまでも事ある毎に彼女を餌にしてイレネオは良いように働かされていた。
内容は紋章官としての働きに必要な資料の編纂や過去帳の調査などであったから彼にとってはご褒美のようなものだったが。
恐らくその頃から伯爵家の婿として見込まれていたのだろう。
婿になるか、嫁に取るか。
名目の違いだけかもしれないが、婿入りよりも嫁取りの方が結ばれる可能性が高いと唆されて、まんまと大人達の目論見に乗った形となっていた。
「イレネオ?」
名を呼ばれ、彼は瞬きを数度繰り返す。
庭園の花々と蝶、そしてアドリアーナの美しい共演に見惚れていたのを気取られたのだろう。目元と口元を僅かに緩めるだけで、彼女が醸し出していた色気は華やかさとあどけなさに取って代わる。
「今は大事な打ち合わせではなくて?」
ああ、と、こほりと一つ咳払いをして仕切り直す。
「赤鉄の主が妙な欲を出したようだ。碧海の妃にする、と」
「愚かですこと。約定をお忘れか」
「覚えているだろうが、履行開始からかなりの時間が経ち、血も薄まったためこちらに知られなければ良いと考えているみたい」
甘いことだ。と呟きながら、濃いめの茶を一口飲む。
彼の好みを完璧に踏襲したそれに、ふと口元を緩める。
アドリアーナはそれを見ながら小菓子を一つ皿に移し、頭の中から関連する情報を引っ張り出そうと考えに沈む。
どこにどんな耳があるか知れた物ではないため、彼らの会話は自然、固有名詞を避け、隠喩ばかりになる。だが膨大なそれを覚える事もフリーニ家を担う条件となっているのだから問題なく会話は進む。
「碧海」は、大陸南端の美しい海に面した国である。
名をサルヴェール王国。今の王になって、海路を主とした貿易に力を入れ、周辺に比べて勢いを増している国だった。
「赤鉄」はその北部にあるヘルモルト王国。鉄を多く産出し、国土の半分を山間部が占めている。
最初に出た「芥子の君」の名はコーネリア・ヘルモルト。ヘルモルト国王の三人いる娘の末子で、彼女だけ側室の子であり、また100年程前、当時のヘルモルト国王に拐かされた帝室の姫君の裔だった。
帝室の姫君の拐かしは、当時のフリーニ家にとっては大変な騒動だったと記録に残されていた。
完全なる文系で引きこもりがちな彼らにとって大陸の南端までの移動は大変な苦痛で、家内の誰が行くべきかの押し付け合いに端を発する騒動の様子が当主の日記に残されていた。
「腹いせに、散々脅してやった」と意気揚々と報告する担当者となった嫡男の報告に、大いに笑ったと書かれていたのを読んで、アドリアーナもまた笑ったものだ。
二十年程前までは、その拐かされた姫君の血筋は他国に現存する帝室の傍系として注視しておくべき存在だったが、今代の皇帝が先代の遠縁にあたるため、ますます血筋が遠くなったことを理由として監視を緩め、記録に止めておくべきといった存在まで成り下がっていた。
その「赤鉄」に居るべき「芥子の君」は、成り立ちの特異さと国外に存在しながらも名を知る同年代の女性として彼女の印象に強く残っていた。
ヘルモルト王国の一伯爵家として血を繋ぐことを許された姫君の裔は、以降家門の広がりを抑えるため主家である伯爵と子爵の二つのみ、貴族として名乗ることが許され、子の数にも制約を設けられていた。
それ以外は全て平民となる。なお平民となるときは帝国とは生涯を通じて関わらない旨、国と契約を交わことになっている。
アドリアーナが興味を持ち、膨大な資料の中からようやっと探し出すことができた、当時交渉に挑んだ嫡男の日記を思い出す。
そこには「破れば首が胴と離れるだけさ」と「脅し」の内容が克明に記されていてすこし引きつつも、鮮やかな手腕に憧れたものだ。
「こんな愚かな王に舐められたんじゃ、また同じようなことが起こるかもしれない」と、長時間による馬車移動の苦労などの愚痴と共に克明かつ生き生きと書き連ねられ、読みながらも同意する他なかった。
ただ、散々脅したそれが長い時間の内に形骸化されたのか、姫君の裔が側妃として召し上げられたことがわかったのが一七年程前。
その頃には側妃は既に儚くなっていたため、娘には「芥子の君」という俗称を付けて注視することになった。帝室には、彼らが既に姫君のことは忘れ去っていたこともあり報告もせず、フリーニ家中での取り決めとされている。
「碧海には?」
「知らぬし、知らせるつもりも無いと見える。可愛そうに、余計な火種を抱えることになったな」
「処分するおつもり?」
「いや。暫く様子を見る」
「確か、芥子の君に関する約定は」
「『還らず、無力であれ』。国内で血を繋ぐだけであれば問題無い。初代の芥子の君は人を一目で虜にする、不思議な魅力を持った姫であったと記録されている。存外こちらに居ない方が面倒事が起きなくて良いが、将来必要になれば利用できるよう、血が連なることは温情をもって許したとある」
「赤鉄にあればこそでは?」
言外に流出を認めるのか、と含ませるのに、イレネオは然りと頷く。
「此度の事があり、帝室と協議した。向こうはとうに忘れ去っていたけどね。しかし当時の資料を見て、興味が沸いたようだ。あと赤鉄はきな臭いと聞かされた」
ふふ、と笑いつつ椅子の背に体預け、我々には関係無いがね、と小さく呟く。
「そこでこの際「帝室のやんごとなき姫の裔」として芥子の君を持ち上げて、血を碧海に移す可能性を示唆された。そうなった暁には正式な書面を起こして赤鉄に残る血筋は完全に切る」
過去の醜聞も何もかもをヘルモルト王国が望むが望まないが全て白日の下にさらし、以降、血筋に連なる者は貴族であろうが平民であろうが未来永劫帝国とは無関係、と公にする方針が伝えられる。
「碧海に食い込むと?」
「あそこは勢いがある。良い関係の布石になるべく利用できるなら、黴の生えたような密約も無駄に捨てることにならないとさ。尤も、芥子の君の出来如何によっては不都合もあり得るから、暫くは見極めの期間とし、対応を一任された。皇帝にとっては役に立てばよし、立たなければ知らぬ存ぜぬを通すだけ」
帝室の希望は以上、と続けるのに、アドリアーナはふむ、と呟きつつ小首を傾げ考え込む。
その顔は彼女が印として利用している白いクレマチスのように繊細で、肌はどこまでもきめ細かく青い血管まで透けて見えそうな程だった。
傷一つ無く整えられた爪をちまりと乗せた細い指先で、とん、とん、とテーブルを叩く。
「承知しました。碧海には」
「芥子の君と次代、専用に人を付ける。人員は国から出させた。報告は直接アドリアーナに行くように手配済み。見極めの期間は次代と子を成すまで。方法は任せる」
うちの人間、皆赤鉄くんだりまで出向くのを了解するわけないしね、とイレネオは笑う。
それら全て渉外担当のアドリアーナへの依頼と受け止め、小さく頷き返したのを最後に報告会を打ち切った。
これを境に、アドリアーナは猛然と情報集めにかかることになる。
続々と集まる報告書や資料を眺め、久しぶりに手応えを感じる仕事に人知れずにやり笑った。
シリーズ「逃した魚は大きかっただろう。思い知るが良い!」の一連の騒動を、「胡蝶の君」ことアドリアーナ側から見た内容になります。
一応、これだけ読んでも成立するようにしたいなーと思ってます。