その10 マニュアル
次話で、第1話が終わります。
楽しんで頂ければ、幸いです。
何とか1日半で2日以上の仕事をこなした。
痛みや腫れが引いてくるかと思ったけど、思ったより痛む。
特に寝てて寝返りを打った瞬間が酷い。
とりあえずは家にあった痛み止めを完全に消費したが、なんとか木曜の昼前に新関課長から早退の許可が出た。
何とか午前中の受付に間に合い、整形外科で診てもらった。
これを逃すと銀行が午後3時までの営業であることを考えると、病院が後回しになるところだった。
結果、頬骨にひびがあったようだ。
場所が場所だけに固定具は勘弁してもらった。
直りは早いかもしれないが、2週間もそんな目立つモノはしたくない。
という事で、内服薬と小さめのシップで対応することにした。
「無理をしないように。お大事に。」
俺を見た医師が少し笑いをこらえながら、そう言って俺を見送った。
俺は転んだと言ったはずだが、転んで頬にひびが入るようなときは他の顔面にも傷が出来るらしい。
こういう怪我は殴られたか、硬質の物で叩かれた時という事らしい。
だからと言って死神の助手を名乗る半透明の少女が、持っている大鎌、ディスサイズの柄で殴られたと正直には言えない。
そんな事を言えば、この医師はきっと違う病院に紹介状を書くことだろう。
心療内科ならまだしも、精神科に直行させられそうだ。
暴行を受けたという事は強く否定した。
いや、実際はその通りなのだが、医師はその俺の必死さに、違う想像をしたようだ。
きっと、痴話げんかの類を想像して含み笑いをしたに違いない。
まあ、精神科に叩きこまれるよりかはましか。
こんな顔であまり人に会いたくはなかったが、本来はこれからやることが重要だった。
銀行の受付に番号を呼ばれて引き出し依頼書と通帳を持って受付カウンターの前に立った。
案の定、俺の顔を見た受付嬢の営業スマイルが凍り付いた。
これが朝一番であったら、ぼったくりのバーにでも行って監禁暴行にあったと勘違いされ、警察を呼ばれそうだ。
警察が来れば、絶対暴行事件扱いをされそうだ。
本当にあのレイとか言う女、てめえの所為で至る所で嘘を吐かねばならないじゃないか!
固まってる受付に通帳と印鑑、引き出し依頼書を出した。
その俺の行動にやっと再起動が掛かったようだ。
「申し訳ありません。お、お引き出しですね…。お客様、大丈夫ですか?」
そう言って俺の顔の腫れに、心配気に尋ねられた。
この様子だと、申請書の色から引き出しであることは理解しているようだが、その金額は見ていないようだ。
「ええ、まあ、大丈夫です。さっき病院にもいってきましたし…。引き出し、お願いします。」
「は、はい、失礼しました。……、この金額で、よろしいのでしょうか?」
若干、間があったが、先ほどの様に固まることはなかった。
そこは流石に仕事で慣れているようだった。
額面には800万円と記されていた。
さすがに全額を降ろすことは抵抗があったので、端数はそのままこの口座に預けることにした。
もし、俺が生き残ったら、別の銀行に口座を開く予定だ。
そのままここに同じ金額を入れるのは不自然だ。
特にこの後、使い道の説明をする内容が内容だからだ。
「もし差し支えなければ、この金額の使い道をお教え願えませんか?最近、特に物騒な事件が多いものですから。」
「うん、暗に特殊詐欺に引っかかってるんじゃないか、を疑う」という大義のもと、出来れば預金を降ろすのではなく貸し付け、という選択に持って行きたいところだよね、お姉さん。
今回の件はそれでもいいんだけど、死ななかった場合の金利がもったいなさすぎる。
「こんな顔で言うのもなんですが、この度、結婚が決まりまして…。結納やら、結婚式場やら、新居への手付金やら、さらに引っ越し費用もありまして……。私が払える限りのモノとして現金を両親に預けることになってしまったんですね。何せその度に下ろすのも面倒だし、クレジットも限度額があるし。それで、結婚後すぐに海外に転勤という話も…。正確には転勤の話が出たんで急いで結婚という事なんですけど…。」
俺はこの結婚相手を大貫先輩を仮想の相手として選んだ。
アイドルやせくすぅい女優さんにすると現実味が出ない。
しかも知り合いの女性というと、大学当時のボス化したあのマントヒヒ、じゃなくて的井さんか、男友達の嫁さんぐらいしか思いつかない。
大学1年の女性を想うと、辛さから今でも涙が出そうになるので永久封印。
まあ、そこまでの演技をする必要はないとはいえ、大貫先輩を夢想すると、昨日の先輩のあれやこれや匂いなんかが溢れ出てきて、自然と顔がほころんでくる。
これは結婚を前にしたいかにもモテなさそうな男であれば、真実味を加えられるに違いない。
(そんなことがあるか‼ぼけっ‼)
どこかで聞き覚えのある少女の罵倒が聞こえた気がしたが、きっと気のせいだろう。
案の定気持ち悪そうに受け付けのお姉さんたちが俺を見ていた。
確かにそれ以上、何を言われるでもなく、「お呼びするまでお待ちください」と引き攣った笑顔で言われた。
うん、成功……。
成功なんだけど…。
清元雅弘の何か大切なものが削られたような気がした。
ただ、ちょっと額が大きかったせいか、窓口では渡されず、違う応接室で明らかに偉そうな人から現金を並べられて数えるように言われた。
800枚を数えている間、しつこく理由を確かめられ、(これは疑われてるのだろうか)、さらに貸し付け、クレジットカードの上限の設定の変更などで対処できないかしつこく言われたが、何とか現金を用意したスポーツバッグに入れ、銀行を後にすることが出来た。
最後に、余った場合にはまた口座に預金して欲しいとまで懇願されてしまった。
恐らく、どの銀行でもそうなんだろうけど、もし生きていたら端数もおろして口座を解約することを心に誓った。
そのまま、駅前のファストファッションの店に入り、マネキンに展示されている着やすそうなコーデを一揃い買った。
俺にその方面のセンス、知識共になかった。
初めてのデートだから、それなりのモノが必要とは思うが、どうせ俺には似合わないと思っている。
もしイタくてかわいい先輩と付き合えるようになれば、その時先輩に揃えてもらえばいい。
死ぬかもしれない俺には、結構焦りがあった。
こんなに元気なんだから死ぬはずはないと思う反面、その都度右頬に痛みが走り、昨晩のことが事実であることを思い出させられていた。
一通りの買い物を済ませ(現金を使わずにクレジットで。過去最高額を記録)、家に着いたのは夕刻。
気づいたら大貫先輩からメールが来ていた。
『雅くん♡ 体の調子はどうですか?
火曜日は、はしたない姿を見せてごめんなさい。でも、雅くんが紳士だってわかったから、ちょっと嬉しい。ホントは家に上がって欲し……。それはまた後で、ね。
でもでもでも、デート誘ってもらって、本当にうれしかった!!!
土曜日、楽しみに待ってます!♡」
このメールは、どう判断すべきか?
自分を揶揄ってるわけではない。それは、たぶん、間違いない。
ただなあ、なんで俺のことでここまで喜べるんだろう?
大貫先輩は29歳で大台一歩手前。
焦りはあるんだと思う。
でも、あれだけ綺麗で…、ちょっとイタイとこはあるにせよ…、その気になればいい人はいくらでもあるだろうし…。
俺のこと、可愛いって言ってたよな。
あの夜のレストラン。
どう考えても勝負をかけてきてたよな…。
この会社に入ってからの3年間を思い出してみた。
全体研修終了後、各課をローテーション出まわされた。
経理課でも同期数人とともに研修は受けた。
今のシステムの前のシステムだったが、確かに癖のあるシステムで俺以外は少し戸惑っていた。
その時に確かに大貫先輩が俺たちの教育係だった気がする。
そういうのも、今思い返していて思い出したからだ。
地味な普通の女性社員に教わったという事しか記憶がない。
それよりも俺と同期の大田原という体育会系の男が、同期の女子や先輩女性社員にやたら馴れ馴れしくていた。
その時の教育係の先輩にもちょっかいを出して、えらい剣幕で怒られていたっけ。
ああ、そうだった。
その時に一緒だった加藤という女性が「あれが噂の鬼の大貫さんだ」と教えてくれた気がする。
大田原は配属された地方営業所でセクハラして、1年くらいで解雇になったんじゃなかったかな。
加藤という女性社員が今どの部署かはもう覚えてない。
というか、同期で仲良くしたのは俺と同じような陰キャの井原と真中くらいだからな。
100人近く新入社員がいたと思うけど…。
ああ、そうだ。一度決算期の経理に行った時だ。
経理課内でトラブルがあった。巻き込まれると面倒くさそうだったから、自分の用事だけ済ませて、とっとと逃げた記憶がある。
その時鬼の形相の大貫先輩を見て、研修の時の言葉を思い出したんっだけ…。
う~ん。
接点はないわけではないけど…、今の記憶の中で、大貫先輩がその力の全てで俺に挑んでくる理由が皆目見当がつかない。
それよりも死期が迫ってるんだっけ、俺。
どうも実感がわかない…、痛い!
なんでこのことを考えるとタイミングよく俺の右頬が痛むんだよ!
まさか、始終俺のそばにいんのか、あの死神助手は!
(ギクッ)
ん、何か聞こえたような…。
合鍵は既にポストの中の天井に貼り付けてある。
これは流石に知らなければ取れないと思う。
スポーツバッグには今日下した金額がそのままある。
そしてノートパソコンをそのバッグに入れた。
据え置き型があるので、のちに必要になったらメディアにデーターを落とせがいいか。
これで一応の準備は整った。
俺はこれからどうなるんだろう。
あの死神たちは、何か俺に特殊な能力があるみたいに言っていたが、それは俺が死んだ後に必要そうだった。
なんか、腹が立ってきたな、それ。
俺はそんなことを考えて、それでもまだ実感がわかなかった。
鞄から大貫先輩から渡された書類を出した。
コンビニ弁当を温めずに開き、口に運びながら新システムのマニュアルを読み始めた。
確かに従来のモノよりも使い勝手がよさそう……、ちょっと待て。
俺は食事を中途でやめて、そのマニュアルを自分のPCに取り込み始めた。
次話で、第1話終了します。
引き続き読んで頂けると、嬉しいです。




