第二話:物音
指の手当を自力で済ませ、ティアラが風呂から上がってくるまでに、鍋にスープを仕込み終えた俺は、そのままパンを切り分け、何とか準備を間に合わせた。
「ふぅ……」
と、直後にパジャマ姿のティアラが、更衣室から姿を見せると、キッチンからパンをテーブルに運ぶ俺に、少し驚いて見せる。
「まさか、もうご用意できたのですか?」
「ああ。まあ男料理だし、味の保証はしないがな」
「いえ。本当に楽しみです」
実の所、こいつが居候してから、ずっと先に飯を作られていたから、確かにこいつに俺の手料理なんて食わせていなかったな。
あんまり期待させてもいけないが、色々言うのは野暮な話か。
心底楽しみといった顔を見せたティアラの期待感を壊さぬよう、敢えて言葉を返さず料理を運んでいると。
ティアラが突然、料理を下ろし終えた俺の手を取った。
「あの、ヴァラード様。こちらはどうなされたのですか?」
「あー。ちょいとドジ踏んじまってな。指先を少し切っただけだ。ちゃんと手当てもしてあるし、気にするな」
「そうは参りません。動かないで下さい」
そう言うと、彼女は静かに目を閉じた。
そして、少しばかりの沈黙の後、俺の手がふわっと温かな光に包まれると、指先に走っていた鈍痛が治っていく。
無詠唱。
という事は……。
「今のは、治癒か?」
「いえ。回復にございます」
「……は?」
こいつ、無詠唱で神術を使ったってのか?
俺が目を丸くすると、あいつはふふっと微笑んでくる。
「残念ながら、効果は著しく落ちますが。ちょっとした魔術や神術であれば、無詠唱で使う事も可能です」
「いや待て。そう簡単に言うが、お前は星霊術師じゃないだろ?」
「はい。ですが、術のコツを習いました相手は、あのセリーヌ様でしたので」
いや、そりゃ聞いたが……セリーヌ。お前、どんな化け物を生みだしたんだよ。
俺は予想外の言葉に舌を巻いた。
魔術師も神術師も、詠唱に魔力を乗せ術を発動する。だから無詠唱なんてできやしないんだ。
が、セリーヌのような星霊術師はそうじゃない。
星霊達と心を交わしているからこそ、無詠唱で術を行使できる。
勿論仕組みは大きく違う。だがティアラは奴から星霊術の使い方を学び、神魔術師として応用したって事になる。
ほんと。こいつの才能には、度肝を抜かされてばかりだな。
「お前は、いい師匠に出会えたんだな」
俺がそう感心すると、にこにこと微笑んだまま、ティアラはこんな話をしてきた。
「実の所、セリーヌ様は私を弟子とは思っておりませんし、私もあの方に応える為、師匠であるという気持ちは、敢えて持たないようにしております」
「ん? どういう事だ?」
「私が師事頂く際に、今後師匠とお呼びしたいと申し出ましたが、断られましたので」
……あー。
俺は何となくあいつが言いそうな台詞を、ティアラの代わりに口にしてみる。
「『私、師匠とかってガラじゃないし。友達として楽しく、仲良くやろ?』、か?」
「は、はい。よくそこまでお分かりで」
流石にドンピシャだったのか。彼女が目を丸くするが、あいつと付き合いが長い奴なら、皆大体察するさ。
「やっぱりか。あいつはずっと前から変わらないからな」
思わず呆れながら、ふとあいつの事考える。
まあ、あいつはこの世界でも珍しい、人間界で暮らすエルフだからな。
今考えても何処か能天気で明るい、パーティーのムードメーカー。それは長寿であるエルフ故のマイペースでのんびりした性格もあるんだろう。
あれから十年。
あいつは相変わらずだろうか? なんて考えたが。あいつが変わる姿なんて想像できなくて。俺は結局、苦笑を浮かべる事しかできなかった。
§ § § § §
「ご馳走様でした」
「ああ。お粗末様」
互いに並べたブレッドとスープを食べ終えた俺達は、ティアラに淹れて貰ったお茶で一服する。
「でも、ヴァラード様は本当にお凄いですね。ここまで美味しい野菜スープ、初めてでございます」
「おいおい、そりゃ褒めすぎだ。王都には美味い店だって沢山あっただろ?」
「学生の身分で入れるお店は、やはり何処か値段相応の味。ここまで野菜の甘みと旨味を凝縮した、濃厚なスープなどございませんでしたよ」
食事中から、ずっと満足そうな笑みを浮かべているティアラ。
まあ、そこまで喜んでくれるのは、こっちも料理を作った身としては嬉しいが。流石に褒めすぎだろと思っちまうのは、自分の手料理を他人に食わせた事がなかったからに他ならない。
パーティーで旅している時だって、街や村なら宿やレストランで食ってたし、野宿なら基本保存食だったからな。
「どちらで修行なさったのですか?」
「いや、特に」
「え? そうなのですか?」
「ああ。ここに住むようになってから、必要に迫られて作るようになっただけだしな」
予想外だったのか。これまた目を丸くするティアラだが、実際これは嘘じゃない。
流石に自分で食うのに、不味いもんは食いたくなかったからこそ、それなりの努力はしたからな。
「だが、少し安心した」
「どうしてですか?」
「初めて俺の飯を食った奴に、褒められたんだ。そりゃほっとするさ」
「は、初めて……ですか?」
「ん? ああ。誰かに作る機会なんてなかったしな」
初めて。
その単語を耳にした瞬間、ティアラから漏れる嬉しそうな笑み。
こいつからすりゃ、恋に落ちた相手の初めてを奪ったのは俺、って事になるんだろうが……。
「……頼む、そこまで露骨に喜ぶのは止めろ」
そう口にしてやりたかったが、まあその程度で小言を言ってもな。
こいつだって、今回ハイルの村の一件で、色々気を遣ったんだ。彼女への労いになったとでも思っておくか。
あまりに分かりやすいティアラの反応に、自然に肩を竦めると、俺はゆっくりと紅茶を飲み干し、テーブルにカップを戻し立ち上がった。
「さて。そろそろ風呂に行ってくる」
「では私が火の番を──」
「ダメだ。こんな寒い日に外に出て、湯冷めして風邪でも引かれちゃ堪らないからな。自分の事は自分でできる。だからお前は──」
ドン
言葉を遮るように、突然玄関の扉に何かがぶつかったような音が届く。
瞬間、言葉を失った俺達は、思わず顔を見合わせると、すぐさまその場で身構えた。
「今の音は、一体……」
「分からん。お前はそこから動くなよ」
「はい」
緊張した顔をした俺達は、改めて玄関に視線をやる。
雪の日らしく、積もった雪が落ちたってならいいが、玄関の上には屋根があるから、扉に当たるなんてのは稀。
まあフォレの森が近いと、ごく稀に迷い込んだ獣がやってくる事もあるが、それだって十年で指折り数える程もないし、こんな雪の日には尚の事あり得ない。
となれば、一体何だ?
自然とベルトに付けたままの短剣に手を掛け、俺は忍び足で扉まで近寄っていく。
あれから音はしない。って事は、何かがたまたまぶつかっただけか?
音もなく扉まで歩み寄った俺は、ぴたりと扉に耳を当てる。
吹雪いてきたせいか。
やや強い風の音。それ以外は何も聞こえない。
扉についた覗き窓を少しだけ開け外を見ても、誰かがいるようには見えないし、人の気配もしないような──。
トン
瞬間。俺はまた目を瞠る。
扉の一番下の方からした小さな、力なく戸を叩く音。
何かが扉にぶつかって音を立て、今度は下から弱々しい音……まさか……。
俺が意を決して扉を勢いよく開けた瞬間。
一気に入り込んできた雪と風と共に、倒れ込んできた奴がいた。
「アイリ! エル!」
同時に耳に届く、ティアラの悲鳴。
そう。そこには確かに、雪まみれとなり、青ざめたかおで力なく倒れている、二人の姿があったんだ。




