小池蒼汰、恋に落ちる
春の推理の期間は終わりましたが、本作は完結まで続きます。
小池は、ドアから現れた一人の女性を見た瞬間、全身くまなく高圧電流が流れたと思った。
なんという言葉で表せば良いのだろう。
一騎当千?
やや違う。
一攫千金?
だいぶ違う。
一刀両断?
相当違う。
己の語彙力のなさが、恨めしい小池である。
「あ、こ、こんにちは……」
女性が挨拶する。
小顔から、こぼれ落ちそうな黒い瞳。
肩よりも長い、光沢のある黒髪。
何よりも。
異世界モノのアニメで、メイド服が似合うキャラを担当する、声優のような声!
小池の心臓は、八百メートルを無呼吸で全力疾走した時のような慄きを打つ。
ああ、そうだ。
この感覚は……。
一目惚れ、だ。
挨拶を返そうとする小池だが、咽喉が乾いて言葉が出ない。
頑張れ、頑張るんだ小池蒼汰!
お前は偏差値よりも、チャラさで有名な大学出身じゃないか!
「は、初めまして? ですよね。お隣さんの、小池です」
笑顔が引きつっていないだろうか。
ここしばらく歯医者に行ってないが、歯は白かっただろうか。
「そう、ですね、初めまして。小池さん。牧村、牧村塔花です」
塔花!
なんという甘やかな名前。
小池の脳内はクラクラする。
いけないいけない。
そもそも、お隣さんへの用事って何だったっけ。
そうそう、深夜の騒音。
その原因解明と改善の要望だ。
「あの、ま、牧村さん。ええと、ウサギ……」
「えっウサギ! 小池さんもウサギ好きなんですか? ウチにいるんですよ!」
「あ、やっぱり! ウサギなんですね」
牧村は微笑みを小池に向けながら言う。
「今日はちょっと用事があるんですけど、今度ウチのウサギ、見に来てくださいね」
「はい! ぜひぜひ!」
厚底のサンダルで小走りに駆けて行く牧村塔花の後ろ姿を、小池はしばらく見つめていた。
◇◇
「そうですか。騒音問題、解決したのですね」
牧村塔花と挨拶を交わした数日後、小池はまた石田の元を訪れた。
そして問われてもいないのに、隣人が見た目も声音も超絶可愛かったと、べらべら喋ったのだった。騒音も気にならなくなった。
石田は少しだけ目を細めながらも、冷やかすことなく小池の与太話を聞いていた。
が、小池の一言に、石田の目が僅かに開いた。
「でね、彼女、牧村塔花って言うんです」
「とうか?」
「ええ、エッフェル塔の塔に、お花の花。名前も綺麗で……」
「小池さん」
与太話を石田は切った。
「え、はい」
「牧村さんという方なんですが、結構有名人だと思いますよ」
うおっ!
ひょっとして、アイドルか? アイドルっぽい声優か!
「独特の動画配信者として有名ですね」
「独特って、ウサギとか?」
「ヤングケアラーの経験を、詩で表現されている方です。多分……」
ヤング、ケアラー? 何だっけ……。
そうだ、確か厚労省のホームページで見た。
『大人が担うはずの家事、介護を含む家族の世話を、日常的に行っている十八歳未満の子どものことをヤングケアラーと言います』
あの牧村さんは、ヤングケアラー、だった?
病気を抱えた家族か、高齢者の身内でもいたのだろうか。
現在は一人暮らしだから、過去の話、なのか。
ヤングケアラー。
厚労省によれば、全国に相談窓口が設けられ、当事者や元当事者の家族会などもあるという。
しかしながら、中学生の十七人に一人がヤングケアラーと言われている割に、一般的な認知度は低い。
「元々のご家族とは、離れて暮らしているのでしょうね。『とうかの詩』で検索してみて下さい」
「はあ……」
その夜、住まいに戻った小池は、そっと隣室を伺う。灯りはない。
牧村は不在のようだ。
春の花が一斉に開いたかのような牧村の笑顔に、ヤングケアラーだった過去を見出すのは難しい。
牧村塔花と『とうかの詩』の配信者は、本当に同一人物なのだろうか。
小池は石田に教えてもらった動画を再生する。
後々。
彼は後悔するのである。
牧村塔花の過去を、垣間見てしまったことに。
何よりも、小池が牧村に出来ることが、何もないという事実に。
『とうかの詩』
テロップには、おどけたような文字が流れた。
「実話ですか? って聞かないで」
次いで音声が入る。
先日聞いた声と、同じに聞こえる。
『おばあちゃんが死んだ
ようやく死んだ
死んでくれてホッとした
あ、銀行行って、お金引き出さなきゃ
暗証番号はなんだっけ?
え、指紋認証?
聞いてない。知らない。
どうしよう……
ああ、そうだ
指があればいいんだ
植木用の鋏で、おばあちゃんの中指を切った
割りばしを切るみたいな感じだった
死んだら、血って出ないんだね
いそいそと、銀行へ行った。
おばあちゃんの指を、認証場所に当てる
ええ?
エラー?
なんでなんでなんで』
『はい。詩はここまで。
皆さん、死体の指では、指紋認証出来ないみたいだよ!』
小池の背筋に冷たい汗が流れた。
実話、なのだろう。
表現があまりにリアルだ。
唐突に小池は思い出す。
石田と一緒に行った、篠田文の家で、指の骨だけが見つかったことを。
令和5年4月から、ヤングケアラーに関しては、「こども家庭庁」の管轄になりました。