森の密談
◆真夏の太陽が山間に沈み、森は闇に覆われて行く。
ほとんどの森の生き物たちは活動を止め、日昼の賑やかだった森の音も疎らとなり始める。
やがて雲間から見え隠れしていた月が南中に差し掛かると、森は翌日までの暫しの休息を迎える。
その時である、一匹の大きなキツネがそれを待っていたかの様に月明かりを頼りに動き出した。
妙に色香のあるキツネである。
キツネは音を立てずに、軽快な動きで森の中を駆け抜けて行く。
やがて小さな水の流れにぶつかると今度は上流へ向かい、水源地である湧水に差し掛かると、そこでしなやかな脚を止める。
湧水の直ぐ側には、この辺りでは一際大きな杉の木が天に向ってそびえている。
その木陰から数体の影が静かに姿を現わし始める。まるでそれはキツネを出迎えるかのように見える。
影達はキツネを交え湧水の横で小さな円陣を組むと、顔を寄せ合わせる。
それは、まるで何かの相談をしている様に見える。
月が雲間から姿を現し、影達に明かりを灯すと、影達の正体が映し出された。
その影達は、この辺りに古くから住み着いているタヌキ、テン、ヘビ、カワウソ、それと、飼いネコであったと思われる毛並みの良いネコである。
そこに、旅館のパンフレットを咥えたキツネが円の中心に加わると、獣達の表情は人の様に豊かになる。
獣達は鳴き声どころか身動き一つせずに、表情のみを変化させている。
この奇妙な光景は暫らくの間続いていたが、月が西に沈む頃には、それぞれが四方に散って行った。
そんな奇妙な光景が翌日以降も続くのだが、ただ日毎に違うのが円の中心の獣が毎日変わることである。そして、中心の獣は何かしらを咥えているのである。
2日目の中心はタヌキで、街角で配布される広告入りのポケットティシュを、3日目はカワウソが小年誌の切れ端で、4日目はヘビが二つ折りの財布。
5日目のネコはメガネで、そして、6日目に最後のテンがピンク色の花を6本咥えて来ると、そこでその集会も最後となった。
***その3日後***
◆列車は山間部をスピードを落とし、長く続く緩やかな傾斜を登って行く。この傾斜を登り切った所に北佐和高原駅があり、そこは小規模ながら古くからある温泉地である。
この列車に一人の旅行者が乗っている。名前は、田北聡。大学を卒業後、製菓メーカーに就職。今年で9年目の31才になるサラリーマンである。
大学時代の友人が、昨夏から実家の後を継いで温泉旅館を営んでおり、その友人の誘いで二泊三日ののんびり温泉旅行に行くために、列車移動をしている最中である。
「この温泉に来るのは、大学3年の時以来だから10年ぶりになるのか。あっと言う間だな」
聡が思い出に浸る。
彼がこの温泉に来たのは、大学が夏休みに入って間もなくの時だった。
余り有名ではないが、森の中には沼地や清流が流れており、ハイキングに訪れる人も結構多い。その為、友人(川田直樹)の実家の旅館も夏が稼ぎ時である。
当然の如く友人の川田(聡は”カワ”と呼んでいる)も夏は実家の手伝いに戻っていた。
聡も彼の誘いで、夏休みの1か月間を住み込みのアルバイトでここで過ごしたのだった。
カワは、何とその時の宿泊客である女子大生と(三奈美)と3年前に結婚したのである。
付き合い始めた頃に、聡は彼女にカワのどこが気に入ったのか聞いてみたことがある。何でも彼女は眼鏡の似合うやさしい人が好みだったと言うことであった。
それを聞いた、視力1.5の聡は単純にも眼鏡をかけて見ようと思ったものである。
そんな学生時代の思い出に浸っていると、間もなく列車は駅に着いた。駅舎は10年前と殆ど変っておらず懐かしい匂いだと聡は感じた。
温泉地にあるカワの旅館は、駅前の通りを真直ぐに10分程度歩いたところに在り、数件の旅館や民宿が点在している。
前もって連絡をすれば各宿泊施設の車が迎えに来るのだが、聡は敢えて歩いて旅館まで向うことにしていた。
今とは違って、楽しかった頃の懐かしさに浸りたい気持ちがそうさせたのだ。
駅前の道は緩やかな登り坂の真直ぐな道で、温泉地の少し手前に分かれ道がある。そこまでを背の高い杉並木が続く。聡は並木道を懐かしげに歩を進める。
分かれた道の先には、10年前に何度か行ったことがある小さな清流の流れるハイキングコースがある。
聡がその分かれ道に差し掛かると、藪の中が何やらゴソゴソと騒がしい。何か生き物が動いているような音がしている。
(んっ、何だろ?)ちょっと背筋に寒気が走ったが、興味の方が勝り聡の脚を止めさせた。すると、藪の中から”ひょい”と一匹のキツネが跳び出して来たのだ。
不意を突かれてしまった聡は、驚きのあまり身体を半身にして仰け反ってしまう。
「うぉ~大きいキツネだなぁ。びっくりした〜」
直ぐ目の前には通常の2倍はあろうかと言う大きなキツネがいる。
良く見ると、キツネは口に何かを咥えている。
「なんだ、花か?キツネって、そんな生き物だっけ?」
キツネは濃いピンク色の花を1輪加えていた。しかもこのキツネ、妙に色っぽい。
キツネは少し聡に近づき見つめるも、キツネに”負けるか”と言う気持ちで聡が睨み返すとキツネは急に向き直ると平然と藪の中に消えて行った。
そのキツネの一連の様は、人間と思わせるような理知さと優雅さが見て取れ、不思議にもキツネが通った後には、微かにだがずっと嗅いでいたくなるような香水の様な匂いが漂っているのだ。
何か酔いそうな匂いだけど、何処で嗅いだ様な気もする。
「何処だっけなあ? 最近嗅いだような気が…」
山の中には場違いな匂いである。
「あっ?この間付き合いで行ったキャバクラの女の子の匂いに似てるんだ。キツネって女の子の匂いがするんだっけ?」
しかし、そんな訳が無いことは良く考えれば聡にも分かる。
「じゃあ、あの咥えていた花の匂いってことか…まあ、どうでもでもいいか」
聡は気にするのを止めて、再び旅館に向けて歩を進めだした。
旅館が見えるところまで来ると、友人の川田が営む旅館の前で、大きく手を振る3人の姿が見える。
自分に振っているのだろうかと思いながら歩を進めて行くと、その内の二人は友人の川田夫妻であることが分った。
川田夫妻には、予め移動する列車を伝えてあったので、迎えに外に出ていてくれていたのだ。
聡も「カワのヤツ、キャラ変わったのか?」と思いながら聡も付き合いで手を振って答えるが、もう一人手を振る女性が誰なのかが分からない。
それも一番一生懸命手を振ってくれているのである。独身の聡には非常にきになるところである。
旅館に着くと、
「よく忙しいのに来てくれたな」
カワが笑顔で聡に握手を求めて来た。
「いらっしゃいませ」
カワの妻の三奈美も心から笑顔で迎えてくれる。聡にはそれが何より嬉しかった。
旅館に目を向けると、玄関がかなり立派になっている。
「久し振り。 改築したんだ」
「あ〜、玄関だけな。もう3年になるよ」
「そうか、それ以外はいっしょみたいだな」
「何も変わっていないよ」
聡は10年前そのままでなかったことが少し残念だった。
「でも、おまえのキャラは変わったな、明るくなった」
「そうか、ここの生活が合っているのかもな」カワが笑顔で答える。
そんな懐かしむ会話をしながらも、聡はさっきから三奈美の隣にもう一人女性が立っていることが気になっていて、ついついチラチラと視線がそちらに向いてしまう。
カワは聡の視線に気が付いたのか、妻の三奈美に肘をぶつけて合図する。
「聡くんに紹介したい人がいるの。と言っても既に横にいるんだけど」
「えっ?」
ある程度の察しがつきながらも、照れ隠しでつい反射的に驚いた振りをしてしまう聡。
「初めまして。今井愛子と言います」にこにこと全く臆することもなく挨拶をしてくる。
「あっ、あ、初めまして田北聡です」つられて聡も挨拶をするが、何の照れもない、はきはきとした愛子の挨拶に面食らってしまい、ぶっきら棒な喋りになってしまう。
「私の友達なんだけど、いい娘だよ聡くん。・・・と言うことなんだけど。どお?」
と、三奈美は真剣な顔をわざと作り聡の目をのぞき見る。そして、聡の表情を楽しむかの様に笑っている。
全ての状況を理解した聡は顔には出さないようしているつもりも、ついつい表情に現れてしまう。
実は、カワ夫妻は三十路を過ぎても彼女一人出来ない聡と、28才で彼氏のいない彼女を会わせるため二人を招いたのだった。要するに形式ばらないお見合いと言うことになる。
ただ、彼女には事前承諾を得ており、聡に対しては敢え何も言わないで、リアクションを楽しもうと言うのがカワ夫妻の策略であった。
カワ夫妻は二人の紹介が終えると、「仕事があるので、ごめん」と言い残し、嬉しそうに旅館へと戻って行ってしまう。
その戻る最中である。
「お前の部屋は、2階の一番奥のあの部屋な。分かるだろう」
「大丈夫だ」
付き合いの長い、二人の会話はそれで成立する。
「ああ、そう言えば今朝、花を加えた妙に色ぽいカワウソに出会ったんだよ。面白いだろ」
カワは面白げに聡にそう話すのである。
「そうなのか!実は俺もここに来る途中で、花を加えた妙に色っぽい大きなキツネを見かけたんだ」
「奇遇だなぁ」
そんな二人の会話を聞いていた三奈美は、冗談を言っていると思い
「つまんな~い」
と言い、呆れた顔で笑いながら、早く戻れと言わんばかりにカワの背中を押し、旅館の中へと戻るのであった。
◆
川田夫妻が仕事に戻ってしまい、愛子と聡の二人だけとなってしまったが、時間はまだ午後2時で夕食までにはかなりの時間がある。
せっかくなのでと言う愛子の誘いで、近くの沼まで二人で散歩に行ってみることになった。
愛子は明るい性格でどんな話題でも盛り上がり、特に製菓会社に勤める聡と食べ歩きの好きな愛子は、スイーツ店の話で大いに盛り上がった。
沼までの散歩から帰って来ると、旅館の前にパトカーが止まっており、カワと警察が何か話をしていた。
カワの話では、2日前に20代後半のホテルの従業員男性1人が、そして昨夜別の旅館に宿泊していた男子大学生2人が出かけたまま、今日になっても帰って来ないとのことで、捜索願いがでたとのことである。
相次ぐ行方不明により、警察が聞き込みと注意を促しにこの辺一帯を回っているのだそうだ。
行方不明になっているのは10代後半から20後半までの男性ばかりで、カワが
「お互い若いから気をつけようや」
そう言うと、31歳の二人の周りで微妙な空気が流れ出す。
「若さを競うようになったら、すっかりおじさんね」
と愛子も軽く話に加われることに、大学時代の交友関係を思い出し、聡はこんな他愛もない会話が懐かしく、楽し思えた。
ちょっと照れたが、そのノリで愛子と一緒に夕食を取りたい件を敢えて平然を装ってカワに伝えると、カワも三奈美も敢えて聡に突っ込みを入れず、笑顔で了解をしてくれ、その場を別れた。
肝心なところは流石にカワも大人の対応であある。
午後6時の時報の様に愛子はオンタイムに聡の部屋に現れた。聡は浴衣姿でなかったのが少し残念に思えた。
夕食のメインは、地元牛のサイコロステーキを固形燃料でその場で焼くもので、そこでも愛子は笑いを振りまいてくれた。
「私ね、くさい食べ物が好きなの。」
「ギョーザとか、ニラとかを?」
「そう、特にニンニクの入ったものが大好きなの。例えばね、この肉には…」そう言ってなにやら膝の上に載せていた水色のポーチの中から小瓶を取り出した。
そして、愛子は小瓶を開封し、おもむろに焼きあがった肉に瓶の中に入っている褐色の液体をたっぷりとかけ始めた。そして、肉を一つを摘まんで美味しそうに食べる。
「あ〜美味しい」
聡は、爆笑だった。
「良かった、ウケてくれて」
「ちょっと心配だったんだ、笑ってくれるか」
「笑うさ、自前のタレを出されりゃ、まさか芸人志望だったとか言わないないよね」
「まさか。ただのお笑い好きOL!それと臭いものも好き、商売柄ね。このタレね、実は私の会社の製品なの」
「休みの日まで、宣伝ご苦労様です」
聡がそう言うと、
「くさいものは嫌い?」と愛子は笑いながら聞いて来る。
「いや、結構好きだよ。特にガーリックはね」とにっと笑い返すと、愛子は小瓶を渡してくれた。
聡も、貰った焼肉のタレをかけると、「ありがとう」と、ウケ狙いで小瓶をポケットにしまう。
「ワハハハ」愛子が大笑い。
「良かった受けて。」
「受けたところで、もう1本」愛子のポーチからもう一本出て聡も大笑い。
聡はそれもポッケトに入れると、”焼肉のたれ”でポケットはおもいっきり膨らんだ。
ここのところ、毎日が流されるままに過ぎていた聡にとって為、愛子との出会いは久しぶりに楽しい一時であった。
聡の宿泊する部屋は旅館の正面側の二階で、入口から出入りする人が良く見える。
食事も終え、ベランダ側にある椅子に向かい合って座り、部屋に備え付けの冷蔵庫にあった缶チューハイを飲んでいると、
「あれ、直樹さん何処に行くのかしら」愛子がカワらしき人を見つけた。
聡が窓の外を覗き込んだ時には木陰に入ってしまい見えなくなっていた。
その後、あまり気にせず愛子の会社での出来事や、カワ夫妻の結婚前の話を互いにバラシあうことで盛り上がっていると、 午後8時を回ろうとしていた。そこに、三奈美がやって来た。
「うちのひと来てるでしょ」
「えっ?いや来てないけど?」聡が応える。
「あっそう。・・・何処に行ったのかしら?もう1時間位見当たらないんだけど」
愛子が思い出したように、窓の外を指した。
「さっき、窓から旅館から出て行くのを見たわよ。多分、直樹さんに間違いないと思うけど。何時頃だったかしら」
「本当?」三奈美は不思議そうである。
「多分1時間位前だと思うけど」
聡が応える。
「この忙しい時に何処に行ったのかしら?聡さん達がいらしているから早く仕事を終わらせようって言ってたのに」三奈美は困惑した表情を浮かべた。
「携帯は持ってないの?」
「それが、置きっぱなしで出て行ってるの。だから直ぐに戻ると思ったんだけど…。全くしょうがないなぁ〜」
「久しぶりに旅館の仕事も悪くないかな。学生時代を思い出すなー」聡は腕捲くりをして、楽しげな顔を浮かべた。
「そんなの悪いわ」と三奈美はいいながらも、目はしたたかに懇願している雰囲気がある。
それを見た愛子は「決〜まり!皆で旅館ごっこね」
「旅館ごっこが終わったら4人で飲みますか」
こうして、二人は夕食の後片付けを手伝うことになったが、多少お酒が入っていたので、洗い場を担当することにした。
それから一時間が過ぎ、夕食の片付けや布団の用意が終わる頃には、三奈美の顔に心配と不安が募っていた。
「昼間のお巡りさんの話しが気になるんだけど。良く考えるとね、いなくなり方が似てるの。それに、あの人今まで黙っていなくなること無かったし」
「警察に連絡しましょ!もし、戻って来たら、みんなで頭下げればいいよ」
愛子の言葉に背中を押され、三奈美は電話に手を伸ばす。
丁度その時である。聡の鼻を心地良く擽る芳しい香りがロビーの窓から流れ込んで来たのである。 どこかで嗅いだ記憶のある匂いである。
「何の匂いだっけ?」
女性を感じさせる芳しい匂いがする。
聡は窓の外を覗いてみた。
すると、窓の外には大きなキツネが一匹こちらに向かってお座りをしている。口にはピンク色の花を咥えており、妙に色っぽい。
「昼間のキツネか?」
そう思った瞬間から、心地良い香りが強く聡の鼻を擽り、その匂いから離れたくない衝動にかられている。
気分は次第にほろ酔い状態となり、その香りを嗅ぐほどにとても気持ちが良くなって行く。
聡は香りに釣られて、玄関に向かう。
「聡さん何処に行くの?」
聡には愛子の問い掛けも余り頭に入って来ない。
「ちょっと捜して来る」
と、虚ろな声で聡は愛子に応えはするが、聡には応えている感覚が全くない。
聡が外に出ると、そこには色白で姿勢の良い聡好みの綺麗な女が立っいた。浴衣姿の良く似合う一見清楚な女だ。
聡は当然であるかの様にその女に引き寄せられ、その女に手を引かれるままに歩を進めて行く。
何か戻らないと行けない気もするが脚も心も言うことを効かない。
聡は更に空ろな眼差しとなり、女に導かれるままに旅館の前から姿を消した。
三奈美の警察への電話を見守っていた愛子は、電話が終わると直ぐに聡を探しに玄関を出るが、そこには既に聡の影すらも無い。
「何処に行ったんだろう?」
愛子は嫌な予感がしてならない。
***
聡は夢心地のまま高揚感が高まるのを感じ、次第に興奮を覚えていく。
してはならないように思えるのだが、欲望を止められない。ついつい隣を歩く女に体を摺り寄せながら歩いてしまう。
本当は、今にも押し倒したい衝動に駆られているのだが、若干残っている理性がそれを持ちこたえている。
やがて、女は小さな流れの辺で足を止め、振り向くと聡の目を見つめる。聡には、そこは煩悩の果て、全ての欲望を叶える世界に映っている。
女は、聡のズボンのポケットの膨らみを見て、中の物を出すように促して来る。
聡は左のポケットから小瓶を取り出し、前に差し出す。すると、それは違うと言わんばかりに、聡の手を振り払って来た。
女の要求は、彼が現実とのつながりを絶たせるめの携帯電話なのである。
振り払われた彼の左手から小瓶が滑り落ちると、石にぶつかり原形を大きく崩し、中から物凄い臭いの液体が零れ出る。
辺りがニンニクの臭いで覆われる。
すると、聡の視界もその後を追って世界が一変した。煩悩が映す幻覚の世界が現実の世界に戻ったのである。
キツネは慌てて零れ出た液体に後脚で土を掛け始めるが既に遅い。
聡の脳は、周りの状況を正確に掴み始めている。
「なんだ! ここは」
驚きで思わず声にならない声を上げる聡。
目の前には、お伽話かファンタジーか、現実では考えれない世界が存在しつぃる。
ネコと舌を絡める若者、タヌキに覆いかぶさり腰を振る者、裸でへびと戯れる者、そしてもう一人。
「あっ!カワっ」
カワは上機嫌でカワウソに手を回し、しきりに湧き水を飲み、雑草を美味しそうにつまんでるのである。
聡はその光景に奮えが止まらなくなり、背筋には冷たいものが走る。
カワの行動を止めたいが、まだ体が麻痺しており身体が思う様に動いてくれないのだ。
その時、左のポケットからメロディーが流れた。有名な焼肉のタレのコマーシャルソング。夕食の後、愛子と携帯番号を交換した時に強制的に設定させられた曲である。
キツネの目付きが変わる。
周りの動物達も顔を上げ聡の方を向いている。
聡が携帯に手をかけようと右手を動かそうとするも、身体に怠さがあり中々上手く掴むことが出来ない。
しかし何度も試みる内に、何とかスマホを掴むことが出来た。
「良かった、繋がった」
愛子の声からは、心配と、電話が繋がった安堵が伝わってくる。
「タスケ を、カワ も いる」
何とか声にするも、状況を上手く伝えることが出来ない。しかし、そんな言葉にも愛子は冷静だった。
「今、何処?危険はないの?」
「ちょっ と キケン か も。ドコカははわからない」
「近くに何かない?」
「ミ、ミズがワキでていて、オガワに… あっ 、カコマレた」
その時キツネが携帯を目掛けて、飛びついて来た。
「あっ!」
手を引っ掻かれ携帯を落とす。右手の甲にキツネの爪痕が残り赤く滲む。
「もしもし、どうしたの、もしもし…」
携帯から愛子の声が響き渡る。
キツネはその声を煩そうに、器用にも前足で電源を切る。
聡はただでさえ自由が利かないのに、周りを蛇やテン、キツネ等の獣にに囲まれてしまったのである。
「やば、襲って来るのか?」聡はそう思いながら、自由の利かない体で身構える。しかし、獣たちは、なかなか襲って来ない。どうやら敵意がある訳ではなさそうである。
小康状態が続く。
そこへ、テンがピンク色の花を加えてやって来た。
また、あの時の芳しい香りが鼻をくすぐり、戻りつつある感覚を再び麻痺しようとする。
「そうか、この香りのせいなのか…」そう思いながら、聡は極力浅く息をしながら考える。
「そうか!」聡は左のポケットにそっと手を入れ親指と、人差し指に力を込め静かに瓶の蓋を開ける。
瓶の蓋を取り中指を入れると、ぬるっという感触がした。
夕食の時の使い残りをポケットにずっと入れたままであったのだ。
「きっとこの匂いで、俺はめざめたんだ」
聡はそう思い、すぐ横に居るキツネに隠れてポケットから左手を抜くとその手を鼻に当てる。すると、麻痺していた体が和らいで来る感じがする。
「愛子さん、あれだけでこの場所を分かってくれるだろうか…」
聡はそう思いながら、身体の痺れが取れるまでの時間をやり過ごすことにした。
◆愛子は、直ぐに昼間に沼に行った時に見た小さな水の流れを思い出した。勿論それ意外に水の流れを知らないせいもある。
「三奈美。沼に行くところに小さい川があるよね。その先に涌き水はある?」
「えぇ〜確かそんな話しを聞いたことがあるわ。そう、動物達が集まるって」
「多分、二人ともそこに居るわ。間違っててもいいから、直ぐにそこに行くように電話して」
「わかった」三奈美が急いで、先程来ていた警察に連絡を取る。地元から出ていた捜索隊にも連絡をした。
◆ヘビがいつまで経っても花の香りに酔わない事を不思議に思ってなのか、聡に近付いて来る。
「少し酔ったふりをして、走れる様になるまでもう少し時間を稼ごうか」そうも思うが、幻覚を見えているふりは出来ない。キツネはキツネのままだ。人間の女性には見えないし、雑草も美味しそうには見えない。
聡にはどんな演技をすれば良いか見当もつかない。
(服でも脱げばいいのか)
テンは再び強引に聡に花を近づけようとして来た。
ヘビが両足に絡みつかんばかりに寄って来る。
冷汗がでる。
「もう、逃られるだろうか?まだ無理そうな気もする」そう思ったところへ大声が耳を貫いた。
「だれかいるのか」
反射的に考えもなしに咄嗟に声が出てしまった。
「ここだー!助けてくれ!」
叫んだ後に「しまった!!」と思ったが以外にも獣達が襲ってくることは無かった。
聡は、その様子を見逃さなかった。それに声が出せる程に回復もしている。
「こっちだ!」さらに声を振り絞って出来る限りの声を出した。
まもなく地元の捜索隊が現れた。
「大丈夫か?」
「えぇ、ありがとうございます。」
「しかし。これはどう言うことだ。」
捜索隊は驚きの眼差しで状況を見つめる。獣達は既に素早く立ち去った後である。
「実は・・・」
「・・・・・・」
◆カワは、雑草の食べ過ぎと、水の飲み過ぎでお腹を壊した程度で済んだ。むしろ、心配をしきった三奈美の方が、疲労していた。他の行方不明の3人も衰弱はしていたが、それ以外に問題はなかった。
そして、
「ありがとう。これのおかげだ」
と言い、聡はポケットから焼肉のタレを出し愛子に礼を言う。
愛子は焼肉のタレで汚れた聡の鼻の下をつまみ、「こいつが長いせいだ!短くなれ〜」と突っ込む。
聡には、愛子の目が潤んでいるように見える。
翌日から、徹底的に猟師による山狩りが行われたが、獣たちが見付かることは無かった。
そして、見つけられたピンクの花は全て刈り取られた。
この事件は、一切の報道にならなかった。警察もただの家出として扱った。
◆そして1年後。
「は〜い聡、そっち向いちゃダメ〜。あれは多分キツネです」
「はい目を瞑って」
「愛子〜、そんなに見ちゃいけない場所があると歩けないよ」
「奇麗な人を見ると直ぐついて行くから、気をつけないとね」
あれから、聡が愛子と一緒に歩いて奇麗な人が通ると、いつもこんな調子である。
「そ〜か、じゃあいつも愛子の後ついて行ってるってことは、愛子が一番奇麗ってことになるのか」
愛子が頬微かに染め、一瞬無口になる。が、
「と・う・ぜ・ん」と、胸を張って先を歩いて行く。
聡は、当然の様にその後をついて行く。
それは、多分これから先もずっと続くことになる…
***南中の月の下、湧き水のほとりにて***
一切の音を立てなずに円陣を組む獣たちが居る。
「去年、人間と遊んだのは楽しかったなぁ」
ヘビが無言でそう言う。
「そう、捨てた飼い主の口づけが忘れられないって言うネコの気持ちが私も解かったわ」
それにテンが無言で応える。
「今年はどんな人間にするの」
タヌキがキツネにそう尋ねる。
「私は三十路のサラリーマンタイプがいいわ」
そうキツネが応えると、カワウソがヤッパリねと言わんばかりに無表情に笑う。
そこにテンが現れ、咥えている3本のピンクの花を円陣の中に置き、
「ほれ、花は咲いたぞ。今年もそろそろ始めようじゃないか。しかし、咲いたのはこれで全部じゃ。効力があるのは知っての通り7日じゃ。よいかの。みんな」
そう無言で伝える。
< 終 わ り >