狂気の死霊魔術師
狂犬病という感染症がある。
傷口から侵入したウイルスにより発症する、極めて致死率の高い病気だ。
この病気に対する恐怖をイメージソースに使用して、妖精たちを融合させた邪霊が屍呪之王である。
人狼、ワーウルフ、ライカンスロープなども、おそらくは狂犬病がもとになって作られた怪物のイメージだろう。
メルの前世にも、山ほどクリーチャーのイメージは存在した。
異世界が前世と異なるのは、イメージだけで済まされない処だった。
『屍呪之王は恐ろしい怪物ですが、実際に人々を震え上がらせたのは狂屍鬼の群です』
『屍食鬼が集まって狂屍鬼になると、集落や村を探して彷徨い始める。これを撃退する側は、鬼に変わり果てた知り合いや身内を惨殺しなければならん。言葉にすれば簡単じゃが、実際には非常に恐ろしい…。身近な者たちを殺すには、それ相応の狂気が必要となるからのぉ…』
『狂屍鬼の集団は、暴徒の恐ろしさを何倍にもしたものです』
『いいやぁー。それより遥かに怖いよ』
『ふーん』
自分の目で暴動なんて見たコトもないメルは、ただクリスタたちの説明から想像してみるしかなかった。
いきなり襲い掛かってくる、アビーやタリサたち…。
スコップを手にして迎え撃つ自分。
『あかぁーん!』
考えるのも嫌だった。
ビィービィーと、泣いてしまいそうだ。
屍呪之王が手当たり次第に人を襲って、屍食鬼を大量発生させる。
数の増えた屍食鬼たちは、狂屍鬼へと姿を変えて人々が暮らす集落になだれ込む。
集団を形成して村に襲い掛かる狂屍鬼は、飢えた野犬の群を連想させた。
そして屍呪之王は、病に苦しむ巨大な魔犬である。
痛くて苦しくて狂っているから、見境なしに人々を噛む。
相手が獣であろうと、構わずに噛む。
噛まれたものは例外なく、狂気の呪いを引き継ぐ。
屍呪之王は人が生みだした災厄であり、哺乳類全てを脅かす邪霊だ。
封印するために生贄を用いたのは、妥当である。
他の手段がなかったのだから仕方ない。
クリスタとアーロンは、そう考えて自らを慰めたかった。
だが実際に多くの人々を生贄とするとき、そんな慰めが何の役に立とう…?
確かに、屍呪之王を創造したのは人間だ。
その責任は、人間が負うべきであろう。
贄を払って封印しなければ、世界が滅亡してしまうのだから…。
しかし生贄として捧げられるのは、人とエルフの戦争が続いた暗黒時代を知らない、まったく関係のない人々なのだ。
その場面に立ち会えば、どうしようもなく足がすくむ。
痛いほどに息は詰まり、心が軋む。
己の手で生みだした魔法兵器に、全てを滅ぼされようとしている皮肉。
気の利いたブラックジョークだと笑えるのは、心を病み腐らせた狂人だけだろう。
そんな奴は居ない。
居る筈が無いじゃないか!
メルは、そう考えた。
考えながら、立ち入り禁止区域のおくへと進んでいった。
「ゲヒィヒヒヒヒッ…!」
「ウシャシャシャシャシャ…!」
地下通路に、下品な笑い声が木霊した。
「なんぞ…?わろぉーとヨ!」
メルの眉間に、深い縦ジワが刻まれた。
この先にクレージーな奴らが潜んでいる。
「魔法博士です」
アーロンが嫌悪の表情を浮かべた。
「ニキアスとドミトリだね。屍呪之王を創造した魔法博士が、死霊魔術師となって縛られているのさ。とんでもない自縛霊だよ!」
「まじか…?」
クリスタは地縛霊と言わず、自縛霊と呼んだ。
石室に立てこもるニキアスとドミトリは、自発的に邪霊の護衛を務めていた。
魔法術式によって封印された石室から、隙あらば屍呪之王を解き放つつもりである。
「あいつらは、世界の破滅が見たいのさ…」
「唾棄すべき連中ですが、幾ら打ち倒しても蘇るのです」
「まったく…。死んでも自尊心の塊りみたいな、救いようのない愚か者たちだよ!」
宙を漂う二体の死霊魔術師は、始末に負えない狂気のエリートだった。
呪われた墓所に君臨する、忌まわしい怨霊だった。
メルは開けた石室に足を踏み入れると、頭上に漂う二体の死霊魔術師を睨み据えた。
侵入者を嘲るように高みから見下ろす死霊魔術師たちは、手にした魔法書を開いてメルたちを攻撃しようとした。
だが、死霊魔術師たちの魔法書は、いきなり焔を上げて燃え始めた。
火の妖精が襲い掛かったのだ。
妖精打撃群はメルの意図を受け、死霊魔術師たちを敵とみなした。
エアバーストの連打を浴びて粉々に砕けた死霊魔術師の残骸が、床に散らばった。
しかし流石は死霊である。
砕け散った残骸が集まって、元の姿へと戻っていく。
「キヒィヒィヒィヒィー!」
そして嘲笑するかのように笑う。
「くっ…。ドミトリめ。相変わらず忌々しいヤツだ!」
アーロンが怒り狂って紅蓮の炎を呼びだした。
「相手は骨だよ。これ以上は、燃やしても意味がなかろう!」
クリスタはニキアスに風の斬撃を加えながら、アーロンを詰った。
クリスタが指摘した通りで、アーロンの攻撃はドミトリの衣装を燃やしただけだった。
そのボロボロだった長衣さえ、燃え尽きたと思ったら再生されていく。
実にイラッとする敵だ。
「メル…。アイツに噛まれたり、引っ掛かれたりしたら…。屍食鬼になっちまうからね!そばまで、近づけるんじゃないよ…!」
「うほぉー!」
ススーッと飛来してきたドミトリがメルを襲おうとした瞬間、横合いからミケ王子が割って入った。
「フギャァーッ!」
風の妖精に力を借りた猫パンチがドミトリの髑髏を切り裂き、メルに対する攻撃を空振りさせた。
ついで床の石畳が粉々に砕け散り、メルの眼前に即席の壁を形成した。
地の妖精が作りだした防壁に弾かれて、ドミトリの身体は吹き飛ばされた。
砕けたあばら骨と小さな骨の欠片が、メルの足もとに散らばった。
「アリアトォー。ミケおうじ」
「ミャア…!」
「チのヨセェーさんも、さんくす!」
メルは感謝の言葉を口にした。
「ワォォォォォオオォォーン!」
石室の中央に拘束された屍呪之王が、苛立たし気な遠吠えを上げた。
なんともやるせない、悲しそうな声だった。
「わかっとぉーヨ。すぐ助けてやうで、もうちっと待とォーな!」
メルが叫んだ。
屍呪之王はノソリと身を起こして、重そうな鎖を引っ張った。
封印魔法が施された特別製の鎖は、屍呪之王に自由な行動を許さない。
天井近くまで高度を上げたニキアスが、砕かれた頭部の再生を待っていた。
その少し下方をドミトリがフワフワと漂っている。
どれだけ攻撃しても、キリがなかった。
クリスタとアーロンは急激に攻撃魔法を連射したので、心もち息が上がっていた。
このままでは、疲れを知らない死霊たちが有利だ。
「メルさん…。アイツらは砕いても燃やしても、一切のダメージを負いません。力任せで、物理的に足止めするしかないんです!」
「悪霊どもを縛る用意はしてきたよ…。あとは一か所に押し込めて、ちょっとの間だけ動きを封じればよい!」
思ったように効果の上がらない攻撃を加えながら、クリスタとアーロンが攻略法を説明した。
クリスタは拘束用のネットを手にして、メルに見せた。
「要らんわぁー!そんなもの…」
メルは既に切れかけていた。
幼児化のバッドステータスが無くても、樹生の沸点は低い。
前世では思い通りに行かないと、コントローラーを投げ捨てるタイプのゲーマーだった。
(こんなのクソゲーじゃ…!)
メルのこめかみには、クッキリと青筋が浮いていた。
「シビトは、ジメンに埋まっとけやァー!」
地の妖精が、メルの怒りに呼応した。
封印の石室は地下に存在する。
そこは地の妖精たちが支配する領域だった。
ヒャッハーな火の妖精や間断なく攻撃を仕掛ける風の妖精より、地中では地の妖精が力を発揮する。
水の妖精たちが、水中でこそ猛威を振るうのと変わらない。
妖精母艦の守りに徹していた地の妖精たちが、攻撃部隊の統括権を握った。
〈妖精女王の希望を実現する…。航空部隊は、ターゲットを頭上から攻撃せよ。連中の高度を可能な限り下げさせるのだ〉
〈了解した…!〉
〈ゴレムの葬送を用いる〉
妖精打撃群航空部隊が、一斉に死霊魔術師たちの頭上から圧をかけた。
途切れることのない連続攻撃を浴びせられた死霊魔術師たちは、少しずつ床へと追いやられて行った。
すると床の石畳を押しのけて生えた巨大な二つの腕が、ニキアスとドミトリをガッチリ捕獲した。
「なっ、デカイ手が…!」
「これは、メルの仕業かい?」
「ウーム。たぶん…」
メルたちが見守る中…。
泥で造られた巨人の腕は死霊たちを埋葬すべく、ズブズブと床に沈んでいく。
「ひぃー!」
「ゲゲゲゲッ…!」
どれだけ骸骨が足掻こうとも、ゴレムの剛腕は二人を放そうとしない。
魔法を使いたくても土塊で口を塞がれてしまい、悲鳴すら出せなくなった。
「こぇからは、ドロのなかでハンセェーせぇ…。おまぁーらのプアイドが、朽ち果てるまでなぁー!」
死霊魔術師たちを捉えたまま、二つの腕は地中深くへと消えていった。
ニキアスとドミトリが地上に戻れる日は、二度と訪れないだろう。
「精霊の子って、半端ないですね…」
「…………ッ!」
クリスタは驚嘆するアーロンに、返す言葉を思いつかなかった。