消えた晩餐会
帝都ウルリッヒに到着したメルは、街中に溢れる瘴気を目にして悲しくなった。
クリスタが施した魔法の偽装があるので分からないけれど、メルの尖がり耳はションボリと垂れ下がっていた。
もう、観光気分どころではない。
眉間が重たくてイラッとするから、早く清浄な場所へ逃げ込みたかった。
それは他のメンバーも同様で、とくにミケ王子がまいっていた。
いつもなら抱っこされるのでさえ嫌がるのに、メルの懐に鼻先を突っ込んで離れようとしない。
〈ごめんね、メル…〉
〈謝らなくても良いよ。鼻が敏感なのは、辛いよね〉
〈うん…。こんな酷いの、初めてだよ!〉
〈お城に着いたら…。婆さまの許可を貰って、浄化をぶっ放してみるよ〉
〈お願い…!〉
PM2.5の対策がされたマスクは、この世界で売られていなかった。
そもそもミケ王子が装着できるマスクなど、何処にも存在しない。
メルは前世で花粉症とか喘息とか、ひと通り気管支系疾患の辛さを味わってきたので、ミケ王子に同情した。
馬車の席に座るクリスタとアーロンも、口数が少ない。
先程からアーロンは、頻りとハンカチで鼻を押さえている。
アーロンもミケ王子と同様、鼻をやられている様子だった。
「あーろん。エウフのおっちゃん。こえ、かしたげゆ。くんくんせぇー」
「何ですかコレは…?」
アーロンはメルが差しだした精霊樹の枝を受け取り、その匂いを嗅いだ。
蕾のそばに鼻を寄せて、クンクンと香りを楽しんでいる。
「はぁー。心が洗われるようだ。鼻の痛みが、スッと引いて行きます。なんて、良い匂いなんだ…。ところで、これはなんですか?」
「それは精霊樹の枝です…。気分が良くなったなら、早くメルに返しなさい!」
クリスタがアーロンの質問に答えた。
「ぶほぉっ!おおぉっ…。メルさん、お返しします!」
「もう、ええんかぁー?もっと、スゥー、ハァーしても、かまわんヨ。エダ、へらんし…」
メルは気前良さげに、ニッコリと笑った。
精霊樹の枝をだした途端、馬車の空気が清々しいものに変わった。
メルが感じていた眉間の重ったるさも、消え失せた。
ありがたい枝である。
「メル…。その枝は、ひとに渡したらいけません。匂いを嗅がせるなど、もってのほかです…」
クリスタが真面目な顔で、メルに注意した。
「えーっ。なんでぇー?」
「精霊樹は、精霊の子にとって本体です」
「うん…」
「昔々、まだ精霊樹がたくさん生えていた頃の話です。今は既に忘れ去られてしまった精霊樹の作法ですが、しっかりと覚えておきなさい…。長寿のエルフであれば、アーロンのように記憶している者もいます」
「はい…。くぃすたセンセェー」
メルも真面目な顔で頷いた。
「コホン…。では、よぉーく聞くのですよ」
「うん。わらし、ちゃんと聞くヨ」
「これは精霊のお話です…。精霊の子が知っておかなければいけない、大切な作法です…。メルが精霊樹の枝を預ければ、相手からは『求婚』と解釈されます。またツボミの匂いを嗅がせるのは、自分の匂いを嗅がせるのとナニも変わりません。レディーとして、絶対にダメです!」
「ぶーっ!」
メルは淑女失格だった。
ミケ王子ならセーフだが、アーロンはダメだ。
メルの顔が、カァーッと羞恥で赤く染まった。
茹でたタコみたいになった。
「わらし…。おまぁーと、ケッコンせぇーへんヨ…」
恥ずかしそうにモジモジしながら、メルが言った。
「ややや…。とっ、当然じゃないですか…。分かっていますとも…!」
何故かアーロンも、幼女を相手に赤面していた。
「お互い、無かったことにしましょう」
「うん、ワスえゆ…♪」
アーロンはハンカチを鼻に当て、何とかして表情を隠そうとした。
非常に気まずかった。
四歳児の匂いを堪能してしまったことが、アーロンの心に深刻なダメージを残した。
そうこうするうちに、メルたちはエーベルヴァイン城へ到着した。
広い敷地内を走った馬車は、宮殿の裏手にある寂しい広場に停まった。
白い馬車から降りても、人影は見当たらない。
「だぁーれも、おらん…?」
「あーっ。出迎えやら、歓迎やらは、すべて無しにしてもらいました」
実のところ、精霊の子が生まれたコトは、皇帝陛下にも報告していない。
「あたしは権勢欲に塗れた貴族どもを信じていません。連中に精霊の子を披露したいとも思いません。ですからウィルヘルム皇帝陛下との謁見も、あたしだけで済ませます…。メルはできる限り人目につかないよう、部屋からでずに隠れていなさい」
「わかった…」
クリスタの指示に、メルはウンウンと頷いた。
メルだって偉い人に会うとか、面倒くさい行事はメッチャ苦手なのだ。
目的は屍呪之王を解呪するコトと、ラヴィニア姫の救助である。
ウィルヘルム皇帝陛下など、どうでも良かった。
ただ問題がひとつだけあった。
「めし…。わらしの、メシはぁー?」
「自分で作って食べなさい」
「まじかぁー?」
すっかり騙された気分だ。
宮廷での豪華な晩餐会が消えた。
夢見ていたゴージャスな料理たちが、水泡となって消えてしまった。
メルはアーロンに案内された部屋で、ひとり呆然と立ち尽くした。
いや、ミケ王子が一緒だった。
〈メル…。ボク、お腹が減ったよ。もうあきらめて、メザシを焼こうよ!〉
〈わたし、頭に来た。こうなったら自重するのは、止める!〉
〈えーっ。何をするつもりさ…?〉
〈サンマを焼いてやる!〉
メルは豪華な調度品が飾られた白い部屋で、レースやら刺繍やらの美しい部屋のなかで、肥え太ったサンマを焼くことにした。
モクモクと油煙を立ち昇らせて…。
自重を止めたチート転生者の、腹いせデアル。
こと食材に関して、花丸ショップは驚くほどに優秀だ。
旬でなくても秋刀魚には脂がのって、じつに美味しそうだった。
キラキラとしたまあるい瞳と白銀のボディーは、秋刀魚の新鮮さをダイレクトに伝えてくる。
口先は鮮やかな黄色みを帯び、尻尾をつかむと刀のようにピンと立つ。
新鮮な証拠だ。
「すばぁーしぃ!」
前世でのネット知識だが、秋刀魚の尻尾をつかんで立てた経験などない。
スーパーではパックに入っているし、近所の魚屋で商品を手づかみにしたら叱られる。
自分でビニール袋に入れるスーパーもあるのだが、樹生は知らなかった。
内臓や頭は取らず、塩を振ってマジカル七輪に載せる。
〈おっきいね…〉
〈サンマだからね〉
〈美味しいのかなぁー〉
〈ミケ王子も、今日はサンマだよ。おっきいから、一匹ね〉
〈足りないかもぉー〉
ミケ王子は大根おろしを作るメルを眺めながら、もっと欲しいと訴えた。
大根おろしは面倒だけれど、あるとないとでは大違いだ。
ちいさな手で持てるように細く切った大根を鬼おろしでガシガシ削る。
生姜も削る。
マジカル七輪に秋刀魚の脂が落ちて、白い煙が上がった。
今日も火の妖精は絶好調だ。
ジュージュー、パチパチと秋刀魚の焼ける音がして、芳ばしい匂いが部屋中に立ち込めた。
ソファーや絨毯、タペストリーにも、秋刀魚の匂いが染みついていく。
だが、知ったことではない。
やさぐれエルフは、秋刀魚を食べると決めたのだ。
〈うわぁー。良い匂いだぁー!〉
〈立派なサンマだから、絶対に美味しいよ〉
〈これ、丸ごとボクの…?〉
〈そそっ。頭から尻尾まで、ミケ王子のデス!〉
〈メル…。愛してるよ〉
〈わたしもミケ王子、大好きぃー!〉
メルとミケ王子は、二人で盛り上がって秋刀魚ゴハンを床に置いた。
お味噌汁は用意していないけれど、作り置きしてあったホウレン草のおひたしを添えた。
たくあんと高級丸大豆しょうゆも、お膳に載せてある。
ご飯は幼児用お茶椀に、大盛だ。
口をサッパリとさせる煎茶も、用意した。
ミケ王子は、大皿に秋刀魚オンリーだった。
「いたらきまぁーす」
「ミャァー♪」
「うぉーっ。カワ、パリパリらぁー」
「ふにゃぁー!」
「ナイゾォーが、うまにがぁー!」
幼児の口には、少しばかりハードルが高い秋刀魚の内臓である。
だけれど、メルは大根おろしと生姜を載せて、美味しそうにハフハフと味わった。
ホカホカご飯に、焼きたての秋刀魚。
サイコーだ。
西洋風宮殿の一室で、幼女と三毛ネコが日本の大衆食を満喫していた。