船上の焼きおにぎり
ヤニックの正式な身分は、ミッティア魔法王国軍に籍をおく情報将校である。
軍事顧問として他国へ派遣される任務が多かったけれど、ウスベルク帝国には身分を隠し、工作員として潜入した。
この十年と言うモノ、ヤニックは母国の地を踏んでいなかった。
高度な魔導技術を持つミッティア魔法王国が、ウスベルク帝国を併合できない理由は只ひとつ。
屍呪之王にあった。
太古の魔法大戦に於いて、世界を破滅寸前まで追いやった魔法兵器が三つあり、その一つが屍呪之王なのだ。
屍呪之王はウスベルク帝国の地下に封印されているが、滅ぼされた訳ではない。
封印の安全性も確認されていない。
それだけでなく…。
もし仮にウスベルク帝国が他国の侵攻に耐えかねて屍呪之王を解き放てば、世界は地獄と化す。
『下等な弱小国であるウスベルク帝国に、危険極まりない邪霊の管理を任せておいてよいのか…?』
ミッティア魔法王国の魔法研究院で頻繁に問題視されるのは、ウスベルク帝国が調査団の受け入れを拒絶するところにあった。
ミッティア魔法王国は再三にわたり、邪霊の封印状況を査察させるようウスベルク帝国に要請していた。
しかし、管理情報の共有化は当然の如く拒絶され、封印魔術式の強度さえ知らせて貰えない。
『甚だ遺憾である…!』
ミッティア魔法王国の魔法研究院が、ウスベルク帝国に送ったメッセージだ。
ミッティア魔法王国は、ウスベルク帝国に介入する口実を喉から手が出るほど欲しがっていた。
以上が、ヤニックの派遣された理由である。
(こんな辛気臭い場所に赴任させられて…。ニコニコしながら、愚物の相手をしなければいけない…。帝都ウルリッヒとモルゲンシュテルン侯爵領を行き来して、満足に美味いメシも食えない。毎日が平和で、刺激が少なすぎる…。俺は諜報活動に、向いていないんだよ…!)
愛想笑いを浮かべた仮面の下で、ヤニックは不満を噛み殺していた。
何年も辛抱してきたのに、バスティアンから封印術式の情報を引きだすコトは出来なかった。
バスティアンに危険なおもちゃを与えたのは、ヤニックの忍耐力が限界に差し掛かっていたからだ。
「そろそろ…。ウィルヘルム皇帝陛下と、直々に交渉がしたい」
「そう上手く行くでしょうか?」
「最新型の魔導甲冑を貸与すると提案されたなら、皇帝陛下と言えども交渉の席につかざるを得まい…?何しろモルゲンシュテルン侯爵家が、帝国に反旗を翻すのだぞ!」
「自分はイヤな予感しかしませんね。このような真似をして、『調停者』が黙っているでしょうか?」
「……っ!『調停者』だと…。『調停者』が見ているのなら、バスティアンの如き屑を野放しにはすまい。まっさきに、捻り潰すはずさ。だから『調停者』の介入は、あり得ない。俺は、そう信じるね」
ヤニックは魔法技術士を演じる部下に力説した。
何となれば、ヤニックもまた『調停者』の介入を恐れていたからだ。
◇◇◇◇
微風の乙女号は、タルブ川の流れに乗ってスイスイと進んでいく。
幸いにも天候に恵まれて、文句のつけようがない快適な船旅だった。
メルは妖精パワーによって、乗り物酔いを克服していた。
フレッドが予測していた船酔いは、メルを苦しめたりしなかった。
こうなると、船旅の問題点は退屈に絞られる。
ちいさな幼児には、狭い船の中ですることがないのだ。
マストに登ろうとして叱られ、狭い船内を探検しようとすれば邪魔だと怒鳴られる。
「わらし、おじゃま虫ヨ…!」
しょげ返ったメルはマジカル七輪を取りだし、甲板でメザシを焼いた。
不機嫌なミケ王子を宥めるためだ。
メルに拉致されたミケ王子は、船に乗せられてからずっと機嫌が悪い。
図々しくて無神経なミケ王子も気に障るけれど、朝から夜まで呪いごとを聞かされ続けては堪らない。
数匹のメザシで懐柔できるなら、安いモノだった。
〈メル…。ボクは、たくさん欲しいな…〉
〈沢山あっても、食べきれないでしょ。また焼いてあげるから、一度に四本までだよぉー〉
〈毎回、四本…?〉
〈そそっ…。四本〉
〈朝、昼、晩と、四本ずつ?〉
〈一日に四本です…!〉
〈ケチ…!〉
ケチと言われても、メザシの量を増やす気にはなれなかった。
ミケ王子が食べ過ぎてゲボすれば、掃除をするのはメルの仕事になる。
ここは船の上なので、メジエール村と勝手が違うのだ。
野外であればゲボしても放置できるけれど、船内では絶対に掃除しなければいけない。
退屈だったけれど、不愉快な仕事を増やしたくはなかった。
「いい匂いだねぇー」
ハンスがメザシの焼ける匂いにつられて、フラフラと近づいてきた。
森の魔女やフレッドと仲間たちも、じっとメルの方を見つめている。
船乗りたちも、チラチラとメルを盗み見ていた。
「ハラぁー、へったか?」
「ああっ。メルちゃんの、美味しいゴハンが食べたいな…」
退屈していたメルは、ハンスに強請られて自分の仕事を思いだした。
メルは旅行のために大量のおにぎりを作って、魔法のストレージに保存してあった。
なんとなく遠足気分で、せっせとご飯を握ったのだ。
塩を振らない具ナシのおにぎりだ。
なんで味付けをしなかったかと言えば、マジカル七輪があるからだ。
焼きおにぎり…。
そう、大人も子供も大好き。
焼きおにぎりを作るためである。
微風の乙女号はご機嫌な帆船だったけれど、コックさんの腕前が微妙だった。
だからと言って、船員でもないフレッドがしゃしゃり出たのでは、何かと角が立ってしまう。
不便かつ、制約の多い船旅だから…。
食事の不味さや粗末さは、我慢するしかないと、誰もが思っていた。
だがしかし…。
小さな子供がおやつを作るのに、目くじらを立てるようなコックは居ない。
『そんな奴がいるなら、タルブ川に沈めて魚のエサにしてやる!』と、皆は心のなかで思った。
「おしっ。わらし、うまぁーモン作るで…!」
メルはボールを取りだして作り置きの鰹ダシと三温糖を混ぜ、麺ツユに醤油が入らない状態より少し甘めに味を調整する。
さらに適量の味噌を加えてかき混ぜ、トロリとさせる。
この味噌ダレをおにぎりに塗って、こんがりと焼き上げるのだ。
森川家の母直伝…。
お味噌の焼きおにぎりである。
日曜日のお昼に出される手抜き料理だが、滅茶クチャ美味しかった。
メルにとっては、前世が懐かしくなるゴハンだ。
付け合わせは、浅漬けの胡瓜だけ。
丸ごと一本、片手に持った胡瓜を齧りながら、焼きおにぎりを頬張って貰いたい。
マジカル七輪の焼き網に並べられた焼きおにぎりから、味噌の焦げる香ばしい匂いが立ち昇る。
メルの口もとから、つつぅーっとヨダレが垂れた。
ヨダレが垂れるのは、美味しい証拠だった。
「えぇー感じに、焼けたど…。あちぃーから、気ぃーつけぇ!」
「うぉーっ。美味そうだぁー!」
メルは木の器に焼きおにぎりと胡瓜を載せて、ハンスに手渡した。
お手拭きは付きません。
汚れている手は、自分で洗浄して下さい。
〈ねぇ、メル…。なんか、列ができてるよ。魔女さまも並んでる…!〉
〈ぬぬぬっ。マジカル七輪は、小さいからねぇー。焼き上がるまで、待ってもらうしかありませんね〉
〈ボクのメザシは…?まだ二本しか貰ってないよ〉
〈残りは夜にすれば…?〉
〈えーっ。そんなの、ダメに決まってるじゃん。ボクのを先にしてよね。ボクが先だからね…!〉
ミケ王子の心は、ネコの額ほどに狭かった。