夢の中に棲む少女
ずっと夢を見ていた。
終わりのない、不安で情けなく、手ごたえのない夢。
ラヴィニアの意識は三百年の長きに亘り、夢の中に揺蕩っていた。
ときおり意識が覚醒に向かうのだが、これは恐ろしい苦痛でしかなかった。
ラヴィニアの身体は既に朽ちていた。
眼は乾いて陥没し、四肢は木乃伊と変わらない。
食事も水も喉を通らず、呼吸すらしていない。
辛うじて命があるのは、屍呪之王との繋がりによる賜物だった。
皮肉にもラヴィニアは、屍食鬼となることで死を免れているのだ。
狂屍鬼と違って屍食鬼は、只の生ある死骸に過ぎない。
屍食鬼が集まるコトで狂屍鬼に変化し、凶暴不滅の怪物となるのだ。
封印の巫女姫であるラヴィニアが、狂屍鬼に変わる危険性はなかった。
ラヴィニアの魂は鬼化変容せず、人のままである。
そのような状態で意識が戻れば、忽ちのうちに心が砕けてしまう。
だから夢を彷徨う。
木乃伊化したラヴィニアであっても、夢なら自由に動くことができた。
日差しの強さに眉を顰めることも出来れば、美味しい料理に舌鼓を打つことも出来る。
ただ…。
ラヴィニアの夢には過去しかない。
ラヴィニアの世界は記憶の断片を繋ぎ合わせた、脆弱なキメラでしかない。
夢の中の友だちには、顔が無かった。
お城の中庭や、赤い絨毯が敷かれた廊下を走る友だちは、いつだってラヴィニアを置き去りにして消えてしまう。
両親は夢に登場しても動かない。
家族で食卓を囲んでも、ラヴィニアの父と母は人形のように黙して語らず、食事のためにカトラリーを手にするコトもない。
何もかもが遠く、ラヴィニアの呼びかけに答えてくれない。
ラヴィニアに付き添ってくれるのは、毛のない小さな犬だけだった。
どこからともなく現れた小さな犬は、ラヴィニアの存在を支える心強いお供だった。
繰り返される夢は、それでも少しずつ変化していった。
だけど、その変化はラヴィニアを不安にさせるモノでしかなかった。
食卓から料理が減っていく。
昔は、もっと沢山のご馳走が並んでいたように思う。
それが今では、パンとミルクしかない。
遊んでいたお城も、酷く狭くなった。
壁にかけられていた絵画は、渦巻き模様に変わっていた。
庭に生えていた草花の種類が、判然としない。
名前と特徴を思いだせない。
友だちの衣装もぼやけてしまい、もう何を着ているのか分からなかった。
色が失われ、匂いも薄れていった。
記憶が擦り切れてしまい、意味をなさなくなっていた。
腕に抱いた小さな犬だけが鮮明だ。
「ハンテン…。お庭で遊ぼう」
「くぅーん」
ピンクの肌に黒い模様があるのでハンテンと名付けられた仔犬は、主人であるラヴィニアを心配そうに見つめた。
崩壊していく記憶の影響は、ラヴィニアにも表れていた。
表情を無くし、細部のディテールが欠けたラヴィニアは、古びて壊れた陶器の人形みたいだった。
見上げる空は、今日も灰色だ。
お城も、中庭も、池や花壇も、全てが墨の色。
そんな景色の中に、文字通り異彩を放つ子供が立っていた。
その子は色とりどりに輝く、蛍のようなモノたちに囲まれて、ひっそりと佇んでいた。
(あの子は、だぁーれ?)
ラヴィニアは声をかけたかった。
だけど声をかけたところで、きっと返事はもらえないだろう。
他の友だちと同じで、ラヴィニアから逃げて行くに決まっていた。
ところが、ピンクのワンピースを着た女の子は、ラヴィニアに気づくと近づいてきた。
(ワンピース。ピンク。リボン…。わぁー。思いだした。わたしも、女の子だ…!)
強い意志を感じさせる、金色の瞳が美しい。
ミミは尖っていて、エルフのようだった。
風が…。
夢の世界に蘇った風が、女の子の髪をなびかせた。
金色…?
それとも銀かしら…?
サラサラとして、キレイな髪だった。
「おまぁー。アヴィニアか…?」
「…………?!」
相手から、話しかけられた!
ラヴィニアはビックリして目を丸くした。
ラヴィニアの失われかけていた感情が、戻って来た。
「よぉー、しゃべれん…?」
「は、話せるよ」
「しゃんとせぇーヨ。ボーッとしとると、ケェーてまうど!」
「うっ、うん…」
「もうちっとの、シンボーじゃ。わらし…。おまぁーら、助くるでしょう…。気張って、待っとれよ!」
女の子がコブシを突き付けてきた。
「ヤクソォーク!」
「約束…?」
「そそっ。おまぁーも、ゲンコでゴッチンする!」
ラヴィニアは言われた通り、コブシとコブシをこつんとぶつけた。
「ヤクソクした…。わらし、イチド帰る。でも、かなぁーず。もどる。そのとき、おまぁーら、助くる。分かりましたか?」
「分かったよ」
ラヴィニアはウンウンと頷いた。
「犬ころの名は…?」
「ハンテンだよ」
「ハンテン…。おまぁーも、ヨイコで待っとれヨ!」
「わんわん!」
女の子が小さな手で、優しくハンテンの耳を弄った。
二人で話している間にも、空が青みを帯びていく。
地面の芝生は鮮やかな緑色を取り戻し、噴水の水音が聞こえてきた。
それでもお城は灰色のままだった。
「心許なし…。コレッ、やる!」
「何コレ…?」
「霊力の実。わらし…。信じて、食え」
ラヴィニアは手渡された瑞々しい果実をジッと見つめた。
ふと顔を上げると、女の子の姿は消えていた。
煙のように…。
「えっ…?なまえ…。わたしったら、あの子の名前を聞いてなかった…」
でもラヴィニアは、女の子に自分の名前を教えてもらった。
忘れてしまった自分の名を…。
「わたし、ラヴィニア…。ハンテン。わたし、ラヴィニアだよ!」
「わぉーん」
「あの子…。また来るねって…。わたしたちを助けてくれるんだって…」
ラヴィニアが、嬉しそうにクルクルと回った。
胸が苦しいよ。
助けるってナニ…?
あの子ったら、女の子なのに…。
わたしを助けに来るのは、王子さまでしょ。
ラヴィニアは青空を見上げた。
何故か涙が滲んできた。
◇◇◇◇
魔女の庵で水盤を見つめていたメルが、ビクンと顔を起こした。
「どうじゃった…?」
「ムリ…。ババさま。これむずかしゅーて、アカンよぉー。わらし、なぁーんも伝えられんかった」
「ふむっ…。それでも精霊樹の実は、置いてきたようじゃな」
「あるれぇー?のぉー、なっとる」
メルは手にしていたはずの果実を探して、身体を叩いたり立ち上がったりしたが、何処にも見当たらなかった。
「ババさま、食った?」
「かぁー。オマエさまじゃあるまいし…。一緒にせんで貰いたいっ!」
「ふわぁー。フシギよのォー。まうで、マホーみたい」
「高位魔法じゃ!オマエさまは、アホか…。間違いなく、魔法をつこうたわ…」
森の魔女は呆れかえり、ブツブツと文句を垂れた。
「して…。ラヴィニアの様子はどうじゃった?」
「ハンブン消えとる。そばに、犬コロがおった。アレは、あれだな。しじゅーのおぅ!」
「ほうっ。屍呪之王を見てきたか?」
「ちっけぇー仔犬。ザコいわ。わらし、負けんよ!」
メルは勝ち誇ったように、『ぐはは…っ!』と笑った。
「まあ…。オマエさまが見たのは、触角みたいなもんじゃな!」
「んーっ?」
「虫の触角じゃ。本体は、あたしの家よりデカイぞ…」
「ウソぉーん!」
「嘘など言わん。メルが見たのは、端っこの先っぽだけよ!」
「…………それっ、あかーん!」
メルの顔が忽ち青ざめた。