アーロン、帝都に戻る
とっぷりと日が暮れてから魔女の庵に戻って来た黒い犬は、宙を舞う赤いオーブに注意を引き寄せられた。
自分の留守中に何が行われたのか知らないけれど、庵の庭先で舞い踊る妖精たちは、例外なく精霊の子から祝福を授けられていた。
「ハァハァハァ…?」
訳が分からない。
黒い犬は夜闇を乱れ飛ぶ赤い光が、羨ましくて仕方なかった。
「あおおぅぉぉぉぅぅぅーっ!」
妖精犬のバーゲストは、切なそうに鳴いた。
恵みの森で遊んでいた自分だけが、祝福を与えられなかった。
格下のチビたちが、得意そうにバーゲストの鼻づらを掠めて飛び去る。
屈辱だった。
「あおぉぉぉぉーん!」
青白い月に向かって、バーゲストが遠吠えした。
◇◇◇◇
調停者との情報交換を終えて帝都ウルリッヒに戻ったアーロンは、ウィルヘルム皇帝陛下のもとへ参上した。
ウィルヘルムはアーロンを謁見の間に招くと、家来や従者に部屋から出るよう命じた。
アーロンとは二人だけで会うのが、決まり事だった。
「ウィルヘルム皇帝陛下。調停者さまに、親書をお届けして参りました」
「うむっ。ご苦労であった…」
アーロンの報告に、ウィルヘルムは軽く頷いて見せた。
ウスベルク帝国の括りで見れば、相談役であるアーロンの地位は非常に低い。
アーロンには爵位がないので、貴族のように国政を語る資格も持たない。
「して、調停者さまはなんと…?」
「春先には帝都を訪れると、仰せになられました」
「フムッ…。封印の書き換えについては、何か説明されなかったか?」
「封印は書き換えないとのコトでした」
「それでは…。あの死にかけを…。乾涸びたミイラ女を未だこき使うと言うのか?」
ウィルヘルムが、呆れたような口調になった。
「コホン…。ああっ、済まなかった」
ウィルヘルムはアーロンの冷たい視線を浴びて、直ぐさま言葉を改めた。
「封印の巫女であらせられるラヴィニア姫の状態については、おまえの口からも伝えたのか…?」
「はい。もう持ちこたえられぬ状況であると、報告いたしました」
「それでも…。封印の書き換えをせぬと、申されたのだな?」
「はい」
相談役とは調停者とウスベルク帝国を結び付ける、連絡係であった。
言わば、密書の配達人に過ぎない。
ただしアーロンはウィルヘルム皇帝陛下と直接に言葉を交わすし、フーベルト宰相にも無理な要求を突きつける。
形式上の地位はないけれど、実際の影響力は巨大だった。
「それでは…。調停者さまは、新しい魔法術式でも使用されるのか…?」
「いいえ」
「ならば、ウスベルク帝国に滅びよと申すのか!」
「ご心配には及びませぬ。新たな封印の巫女を必要とせず、魔法術式も書き換えずに、解決なさるおつもりのようでした」
「だとすれば…。帝国が邪霊封印のために管理下に置くスラムから、不当な利益を得ているクズ共に、本来の役目を果たさせるコトは出来ぬのか…?」
封印の巫女を交代させるためには、多くの人柱を必要とする。
誰であろうと自分が生き埋めにされるとなれば、必死になって抗おうとする。
これを抑えるためにスラム管理者は、特権が与えられていた。
隷属の魔法術式を使用する権限だ。
モルゲンシュテルン侯爵家は、この特権を利用して私腹を肥やしていた。
密かにミッティア魔法王国と通じて奴隷貿易を行い、コッソリと冒険者ギルドを利用して私兵を組織し、今ではウィルヘルムの帝国支配を脅かすまでに力を拡大していたのだ。
(ラヴィニア姫を新しい封印の巫女と交代させる際に、あの忌々しいモルゲンシュテルン侯爵家が貯め込んだ私財を吐きださせようと計画しておったのに…。これでは、ワシの首が危ない…。いいや、帝国の未来が危うい…。なんとかならぬものか?)
ウィルヘルムは額に手を当て、力なく俯いた。
皇帝でありながら、ウィルヘルムには成す術がなかった。
これはウスベルク帝国の特殊な成り立ちに起因する、歪さである。
ウスベルク帝国は調停者の許しを得て、邪霊の封印を守るべく��国された。
従って古の盟約により、ウスベルク帝国の皇帝陛下は調停者の決定に逆らうことが許されない。
(ウスベルク帝国の皇帝を名乗りながら、ワシの手足は縛られておる。しかもワシは、調停者が恐ろしくて不満さえ口に出来ぬ…)
ウィルヘルムは己を情けなく思い、口惜しくて奥歯を軋らせた。
しかし…。
どれほど悔しかろうと、ウィルヘルムが勝手にスラムを潰すコトは出来ない。
モルゲンシュテルン侯爵家の特権を召し上げるにしても、調停者の許可が必要だった。
「報告は其れだけか…?」
「あとは調停者さまからの依頼がございます」
「申せ…。申してみよ」
ウィルヘルムにしてみれば、相談役のアーロンは調停者より遣わされたメッセンジャーなのだ。
お目付け役と言っても、過言ではない。
たとえ皇帝陛下であろうと、調停者の命に逆らうことは許されなかった。
「予てより、ウィルヘルム皇帝陛下が懸念なさっておいでの、貧民窟についてですが…。調停者さまはモルゲンシュテルン侯爵家の特権と共に、無かったことにせよと御命じになられました」
「………なっ、なんと?」
「目に余るので、調停者さま直々に兵を差し向けるとの仰せです。つきましては、陛下の許可を得まして、フーベルト宰相に幾つかの書類を用意して頂きたいのですが…」
「よい…!幾らでもフーベルトに、許可証を作成させよ。帝都の騎士団を使いたくば、それも自由にするがよい。皇帝ウィルヘルムの名のもとに、全て許可する。徹底的に、蛆虫どもを駆除して頂きたい…」
忽ちウィルヘルムの顔に、血色が戻った。
「アーロンよ、よくぞワシの望みを叶えてくれた。さあ、さがって…。ゆっくりと身体を休めるが良い」
「ありがたき幸せ…」
アーロンは優雅に退去の礼を取ると、ウィルヘルム皇帝陛下の御前を辞した。
「ようやく…。ようやく調停者さまの、許しを得たか…」
ウスベルク帝国に於いて許可を与えるのはウィルヘルムだが、実際には調停者よりモルゲンシュテルン侯爵家の討伐を許された形となる。
これを喜ばずに居られようか…。
ウィルヘルムは鍛え上げられた体躯に覇気を漲らせ、玉座から立ち上がった。
「だれか…。誰か有る!」
「ははぁ、皇帝陛下…」
「今すぐに、フーベルト宰相を呼べ…!」
◇◇◇◇
ウィルヘルム皇帝陛下に報告を終えたアーロンは、その足で封印の塔を目指した。
屍呪之王に贄として差し出された、ラヴィニア姫が眠る塔である。
ラヴィニア姫は三百年前に、アーロンが魔法術式で封印の楔とした巫女姫だ。
三百年の長きに渡り、ラヴィニア姫の苦しみは続いている。
今もなお…。
アーロンの胸は罪悪感で、はち切れそうだった。
(まだモノの道理も分からぬ少女を世のため人のためと、舌先三寸で誑かした。それが、わたしの背負った罪だ…)
いつ如何なる時もアーロンは、ラヴィニア姫の存在を忘れたことがない。
帝国中の誰もがラヴィニア姫を厭わしく思って避けるようになるほど、アーロンの態度は頑なになった。
皆が封印の巫女姫に、感謝の気持ちを抱かなくなった。
醜悪な苦痛の表情を浮かべて眠るラヴィニア姫に、負い目があるコトを認めたがらなくなった。
誰もラヴィニア姫の苦痛を想像せず、身勝手な欲望に興じて己の生を謳歌している。
ラヴィニア姫の犠牲は、既に無かったものとして扱われている。
(酷い…。コレハ、あんまりじゃないか…!)
いつか必ず、ラヴィニア姫を呪われた運命から解放する。
それがアーロンの叶わぬ夢だった。
そしてメジエール村を訪れたアーロンは、夢をひとつ追加した。
「わたしはラヴィニア姫に、カリーウロンをご馳走したい。いや、絶対に食べて頂くのだ…!」
自然とアーロンの口もとに、笑みが浮かんだ。
カレーうどんを食べようと四苦八苦して箸を使うラヴィニア姫が、愛おしく思えたのだ。
そのラヴィニア姫は、ミイラのような姿で封印の塔に眠っている。
「ヒメ…。アーロンが戻りましたよ」
アーロンは親しげな口調で囁くと、封印の塔を目指した。