アーロンの喜び
大きな樹木の家に招き入れられたアーロンは、ちょっとした違和感に囚われて周囲を見回した。
しかし、その不思議な感じは、するりとアーロンの意識から滑り落ちてしまい、『何かが違う!』という疑問だけが記憶に書き留められた。
「さあ…。ボケッとしていないで、あんたの席に着きな。そしてウィルヘルムから預かったという、手紙を見しとくれ…」
「はい。こちらがウィルヘルム皇帝陛下の親書です」
アーロンは親書を懐から取りだすと、恭しい態度で森の魔女に差しだした。
森の魔女は赤い封蝋をナイフで外し、厳めしい装飾が施された封筒から数葉の紙片を取りだした。
「かぁーっ。あやつの直筆かい?相変わらず癖のある文字を書きおって、読みづらいったらないね!」
「何分にも、秘密厳守でして…。代筆を通すコトは出来ませんから…」
「ちっ…。誰か皇帝陛下に、文字を練習させてくれないかね?」
「そのような不遜な真似は、致しかねます…」
森の魔女はメガネを取りだすと、お茶の支度をしながら親書を読みだした。
とんでもなく失礼な真似だが、ここは魔女の庵である。
更にいえば…。
調停者である森の魔女は、ウィルヘルム皇帝陛下よりズンと位が上だった。
「時候の挨拶が長いんだよ!こんなもん、今さら要らないだろ…」
「いえ…。それは一般的な形式ですから…」
しかも森の魔女は、王侯貴族の上辺を取り繕う礼儀作法より、直截的であることを好んだ。
「フンッ…。挨拶なんざ、ぱっぱと読み飛ばすよ!」
「どうぞ、ご自由に…」
アーロンは帝都の城で慣れ親しんだ作法が、横に退けられるのを黙って受け入れるしかなかった。
森の魔女がメジエール村の人々やメルに丁寧で優しいのは皆を好きだからであり、ウスベルク帝国の宰相などに調停者の人となりを語らせるなら、無慈悲で恐ろしい鬼女について並べ立てることだろう。
実際、森の魔女が古の法に逸脱した貴族どもを断罪するときには、行き過ぎなほど残酷なところがあった。
言い渡された刑を執行するウィルヘルム皇帝陛下と家臣たちにすれば、震え上がるような刑罰だけれど、アーロンは仕方がないと思っていた。
愚劣な連中には、ときおり恐怖を刷り込まないといけない。
さもなければ、法と秩序が蔑ろにされてしまう。
禁忌には理由があるのだ。
むしろ悲しむべきは、未だに刑罰が無ければ法に従わないバカが居ることだった。
いや…。
昔より馬鹿どもが、増えている事実だ。
それでもウスベルク帝国は、まだまだマシな方である。
(ミッティア魔法王国の馬鹿エルフ共ときたら、思い起こしただけで腸が煮えくり返る…)
『エルフこそが精霊の子孫である!』と威張りくさった、鼻持ちならない連中を思いだして、アーロンの口角がヒクリと痙攣した。
生理的に受け付けない。
許しがたい…!
アーロンもまた、自尊心が山ほど高く、独善的で狭量なエルフだ。
アーロンが長命種として気の遠くなるような歳月を生きて来られたのは、ひとえに己では足元にも及ばぬような尊い存在を知覚したからである。
アーロンは無智に怯え、反省するエルフだった。
エルフにとって『反省』は、獲得不能な高位スキルと言えた。
大抵のエルフは、『反省』を学ぶまえに死ぬ。
傲慢だから仕方がない。
「冒険者ギルドの背後に、ミッティア魔法王国の影があるか…。魔鉱石を口実に、メジエール村への侵略を企んでおるとな…。はんっ。まことに以て、不細工な話じゃないかね。ウスベルク帝国の建国が許されたとき、あらゆる外敵から聖地を守ると約したのは何だったのか…?」
「仰る通りでございます」
「御大層に帝国を名乗りおってからに、隣国の暗躍も止められんとはのぉー。三代目のゲルハルト皇帝が大帝国を名乗ろうとしくさったとき、恥ずかしいから止めておけと蹴とばしたのは正解じゃった」
「小さいですからね。ウスベルク帝国…」
ウスベルク帝国は小国だ。
それが何故に大きな顔をしていられるかと言えば、帝都の地下に『忌み地』を抱えているからだった。
そこには古代魔法兵器が眠っている。
あらゆる存在を狂屍鬼に変える呪われた魔法兵器で、屍呪之王と名付けられた魔法術式が封印されている。
暗黒時代に造られた疑似精霊のなかでも、三本指に数え上げられる凶悪な邪霊だった。
ウスベルク帝国を滅ぼせば、屍呪之王が復活して世界を滅ぼす。
そう信じられていた。
ウスベルク帝国の存在意義は、忌み地の封印と聖地であるメジエール村の守護にあった。
「まあ…。これまでよく頑張ったと、褒めた方が良いのか…。ヒトの手には、荷が勝ち過ぎたのじゃろう。自業自得とは言え、封印の巫女姫たちも辛い思いをしてきたからのぉ…」
「しかし…。邪霊を創造してしまった以上は、その責任を逃れられません」
「かと言って、世界が狂屍鬼だらけになるのを座して待つのもアホじゃ。できる手当は、せねばなるまいて…」
「あの邪精霊を相手に、何ができるのですか…?」
アーロンは真智を授かった調停者に、導いて貰いたかった。
その一方では、自分が無理な願い事を押し付けに来た自覚もあった。
もし解決方法があるのなら、とうの昔に調停者は適切な対処をした筈だ。
出来ないからこそ、封印の巫女姫が苦しんでいるのだ。
(もう、ラヴィニアさまは長くないだろう…。だが、わたしは諦めたくないのだ。何ひとつ罪のないラヴィニア姫さまが、封印の巫女である印のせいで、愚かな先人どもの代わりに苦しみ続けるなんて…。忌まわしい穢れに憑りつかれ、瘴気に満ちた部屋で孤独に朽ち果てるなんて…。間違っている!)
そう考えながらアーロンは森の魔女を見やり、招き入れられた直後に感じた『違い』の正体に気づいた。
森の魔女は巫女姫ラヴィニアの苦境が書かれた手紙をテーブルに置き、穏やかな表情でティーカップを口に運んだ。
そこには、己の無力さを嘆く様子が微塵もなかった。
(それに…。庵の空気が清浄だ…。まるで、聖なる森の中に居るようじゃないか…)
ここには瘴気がない。
いつもであれば穢れから発生する瘴気が、匂いを感じさせるほど色濃く立ち込めていたのに…。
あの頭痛を生じさせる不快感が、キレイさっぱりと消え去っていた。
(そういえば、あの呪われた武具たちは何処へ片づけられたのか…?)
以前、訪問したときには、ところ狭しと積み上げられていた魔法武具が、ひとつも見当たらない。
「森の魔女さま…。妖精たちが封じられた忌まわしい武器は、何処へ…?」
「んっ…。ようやく気付いたかい。あれらは解決したので、クズ鉄として鍛冶屋に売り払ったよ…」
「か・い・け・つ…?」
「メジエール村は、精霊樹を得たのさ。精霊さまの赦しを得たんだよ」
「それは、本当ですか…?」
森の魔女は温かな笑みを浮かべ、頷いて見せた。
アーロンは森の魔女から、メジエール村の中央広場に一晩で生えた大樹の話を聞かされた。
精霊の子を授かったことも…。
アーロンの目が大きく見開かれ、動揺して手がカタカタと震えた。
感情表現が平板だと言われるエルフにしては、分かりやすい驚きようだった。
(恵みの森に残されていた精霊樹が枯れてから、どれほどの歳月が過ぎ去っただろうか…?)
もう精霊との和解はないと、そう考えていたのだ。
「我々に、赦しが与えられた…?」
それは純粋な感動だった。
アーロンの目に涙があふれた。