穏やかなエルフ
アビーは寂しかった。
寒い季節がやって来たのに、湯たんぽのメルはトンキーと一緒に寝ている。
アビーのベッドに戻って来ない。
『仔ブタに負けた…?』
かなりダメージの深いフレーズが、繰り返しアビーの頭に浮かんでくる。
肯定する気はないけれど、否定もしきれない。
『仔ブタに負けた…?』
許しがたいフレーズだった。
クルト少年を泊める部屋に水差しや魔法ランプなどを用意してから、アビーは食堂へ引き返そうとした。
途中でメルの寝室に視線を向けると、ミケが切なそうにしていた。
暗くて寒い廊下にポツンと蹲り、ジッと扉を見つめている。
普段は生意気で憎たらしい猫だけれど、このときアビーは少しだけミケに同情した。
「あらあら…。おまえ、締め出されちゃったのね…」
「ミャァ~ッ」
「可哀想に、こっちへおいで…」
「にゃん…」
おとなしくミケは、アビーの懐に抱かれた。
「おやぁー?ずいぶんと素直ね。アンタ、逃げないんだ…?」
「うにゃ…」
「言い訳しなくても良いよ。寒いもんね…。今夜はぁー。わたしのベッドで一緒に寝よう」
こうしてアビーは、小さな湯たんぽをゲットした。
「おとなしく抱かれていると、ミケもカワイイねェー」
アビーの指が、やさしくミケの額を撫でた。
ミケをメルの寝室に入れてやるという選択肢は、アビーの頭になかった。
フレッドと一緒のベッドで寝るという選択肢も、アビーの頭になかった。
眠るときにベッドで抱っこしたいのは、小さくて愛らしいモノだけだ。
「癒されるぅー♪」
アビーにしてみれば…。
ホッコリとした気持ちになれる事が、大切なのだ。
◇◇◇◇
雪中の移動は、アーロンにとっても煩わしい物だった。
時間と体力を著しく消耗させられる。
だが、逆に言えば一般の人々と違って、煩わしいだけである。
アーロンには妖精たちの加護があり、古くから生きるエルフの知恵も備わっていた。
満足は行かなくとも獲物を狩ることができたし、寒さに凍えて動けなくなるような心配も要らなかった。
しかも今回は、メジエール村の住民による友好的な助力があった。
だから橇に乗せられたアーロンは、くつろいだ様子で雪景色を眺めていた。
寒風吹きすさぶなか、馬橇は恵みの森へと向かっていた。
「質問しても良いかな…?」
御者席で馬を操るクルト少年が、大声でアーロンに訊ねた。
マフラーと外套で口元を覆っているために、ハッキリと喋らなければ声が通らない。
そのせいで、どうしても叫ぶような口調になってしまうのだ。
勢い、言葉遣いも乱暴になる。
「勿論です…。なんでも聞いて下さい。喜んで、お答えしますよ。わたしに答えられる事柄でしたら…」
そんなクルト少年に比べて、アーロンの受け答えはおっとりとしたモノだった。
静かに話しても耳元まで声が届くのは、エルフ特有の魔法なのだろうか…?
できるなら、その技を教わりたいものである。
クルト少年は、アーロンの技量を高く評価していた。
「ああっ…。別に詮索したい訳じゃないんだ。答えられる内容だけで、構わないよ…。ちょっと不思議に思ったからさ…。アーロンさんは、なんでこんな季節にメジエール村を訪れようと思ったんだい?」
当然の疑問だった。
普通の旅人であれば、この地域を訪れるのに冬は選ばない。
危険なだけで、得るものがないからだ。
「そうですね。わたしは目立ちたくなかったので、人目に触れない季節を選びました。それ以前に…。このお役目を請け負ったのが、つい最近だってところが大きいです」
「誰にもバレずに、親書を運ぶためかい…?」
「人目を欺く方法は様々ですから、むしろ急ぎの用件であることが原因ですね」
「偉い人に仕えるのも、大変なんだなぁー」
クルト少年が呆れたような顔になった。
「何も、ウィルヘルム皇帝陛下が、無理を言った訳ではありません。わたしが自分にできる事を引き受けただけです…。森の魔女さまにも、久しぶりにご挨拶をさせて頂けます…。要するに、わたしにも都合が良かったんです」
「へぇー。アーロンさんは変わってるなぁー」
「そのせいで…。ヨルグさんとクルト君には、苦労を掛けてしまいましたね」
「気にすることはない。おいらにだって、ご褒美があるんだ。伝令係の、役得ってやつ…?桟橋の見張り小屋は退屈だし、食事がアレだからな…」
クルト少年がニカリと笑った。
ヨルグの優れた格闘術を学びたくて、伝令係を買って出たのはクルト少年だ。
それでも麦粥と川魚ばかりの食事には、辟易としていた。
だから、こうしてメジエール村に立ち寄れる口実ができるのは、クルト少年にとってもありがたい事だった。
『酔いどれ亭』で出される料理は、格別に美味い。
まだ噂のスペシャルメニューは食べたことがないけれど、フレッドとアビーが作ってくれる料理で充分に満足していた。
泊めてもらった日には、風呂まで使わせて貰った。
傭兵隊でよく話題に上るメルと親しくなれなかったのは残念だけれど、柱の陰から覗く可愛らしい姿を見ることができた。
精霊祭の間も桟橋の見張り小屋から離れられなかったクルト少年にすれば、メルを見るだけでも一苦労なのだ。
まるで探していた珍しい小動物と出会えたようなドキドキが、クルト少年の胸を満たしていた。
(あの子、可愛かったな…)
妖精女王という存在は、クルト少年の目に何とも言えず好ましく映った。
クルト少年は、アーロンが訪れてからの数日を心から楽しんでいた。
雪中の移動は辛いけれど、ちょっとした変化に興奮を感じる。
エルフの青年は、良い客に思えた。
◇◇◇◇
アーロンは豚飼いのエミリオに部屋を借りて一泊した後に、森の魔女の庵を目指した。
案内役は、使い魔のロルフだった。
妖精犬のロルフは戸惑いひとつ見せずに魔女の結界を突破して、アーロンを魔女の庵まで導いた。
「アーロンよ、懐かしいのォー。久しぶりじゃないかい」
「はい。ながらく、ご無沙汰しておりました。調停者さま」
「よさないか、その呼び名は…。あたしゃ、此処じゃ森の魔女だヨ」
「その方がよろしければ、魔女さまとお呼びさせて頂きます」
アーロンは畏まって答えた。
「なんでも、ウィルヘルムから親書を預かって来たそうじゃないか」
「急ぎの知らせと、お願いがございまして…」
「皇帝陛下が、お願いネェ…。知らせより、そっちの方が本命じゃな!」
「ご明察、恐れ入ります」
「はん、白々しい…。続きは茶でも飲みながら、ゆっくりと話そうじゃないか…。あたしの方も、伝えておきたいことが二、三あるのさ。さあ遠慮せずに、上がっておくれよ…」
森の魔女はアーロンを促して、庵へと歩きだした。
魔女の庭は冬だというのに色とりどりの花が咲き乱れ、妖精たちが楽しそうに飛びまわっていた。
この地は恵みの森に在りながら、文字通りの別世界であった。