過去とのお別れ
独りきりは嫌いだ。
余計なことを考えてしまうから…。
退屈な時間は苦手だ。
不愉快な記憶に囚われてしまうから…。
牛車に揺られるメルの表情は、どんよりと暗かった。
メルは精霊祭の一日目で、既に疲労困憊していた。
二日目になると、豆の植えられた広大な耕作地を進む牛車が、緑の湖面に浮かぶ小舟のように思えてきた。
三日目を迎えると、日常的な感覚が失われて、何もかもがフワフワと漂っているような酩酊感に襲われ始めた。
メルは煌びやかに飾られた山車の上で指をしゃぶりながら、意識が解けていくのを感じていた。
まるで、あの日のように…。
楽隊の演奏が遠ざかり、陽気に踊る村人たちから日常の意味が切り離されていく。
それは磨りガラスに映った影のようで、焦点が合わない色の断片だ。
手で触れることができず、厚みを持たない。
呼吸が途切れる。
メルの霊魂が肉体から剥がれた。
(ああ…。空へ堕ちていく…)
高く、青い空へ、吸い込まれていく。
眼下には、色鮮やかな箱庭が広がっていた。
(メジエール村が、ミニチュアみたいだ…)
祭りの行列が、のんびりと恵みの森へ向かっていく。
精霊の石塔を目指しているのだ。
そこが一行の終着点だった。
(まだ…。僕はあそこへ行けない)
メルの内から溢れだす霊力は、散漫で指向性を持たない。
それは心に、迷いがあるからだった。
(未練…。いや、これは後悔だな…!)
メルは…。
森川樹生は苦しい闘病生活の中で、幾度となく家族を傷つけてきた。
本心では感謝をしていたのに、家族に気持ちを伝えることなく死んでしまった。
それが心残りとなり、メルを前世に縛りつけていた。
薄暗い心の滓だ。
生を肯定的に捉えられない、捻くれたエゴだった。
(メルを僕から、解放して上げなければいけない…!)
樹生は死んだ。
今世はメルに託すべきだ。
だが、どうやって…?
どうしたら僕は消えられるのか…?
悩むことで重さを得たメルの霊魂が、恵みの森へと降下していった。
そして気が付けば、緑が生い茂る大樹に招かれて、魔女の庵へと回収された。
〈よう来た。精霊の子よ…〉
居間の腰かけに座ったまま、メルに視線を向けるコトもなく森の魔女が言った。
だが、その声は優しく、メルを包み込むような温かさがあった。
〈ここは…?〉
〈想念界じゃ。言わば、物質の理でなく、想いの理で造られた世界…〉
〈精霊さまの世界…?〉
〈それはまた違う。ここは来世へと繋がる場所さ。魂の待機場所じゃ…。オマエさまの元いた世界とも、繋がっておる〉
〈僕は帰れるのかな…?そのォー。前世に…〉
メルは森の魔女に訊ねた。
〈だれも、元いた世界へは戻れぬ。先へ進むのみ!〉
〈…うん〉
〈それに…。オマエさまは、また同じことを繰り返すつもりかい?フレッドやアビーの気持ちは、どうでも良いのかね…?友だちは…?〉
〈それは…〉
メルは言い淀んだ。
森の魔女が言う通りだった。
前世に執着して今世を否定したら、それこそ本末転倒である。
〈何も責めている訳ではない。心のしこりは、何としても解かねばなるまい。オマエさまが、死に別れた家族と会うことは叶わぬ。だが、残してきた家族に、思いを伝えるコトは出来よう…〉
〈本当ですか?〉
〈そのために、あたしは此処で待っておった。オマエさまに、過去と向き合う覚悟ができるのをね…!〉
そう言うなり、森の魔女は数葉の紙片をメルに手渡した。
〈精霊樹の樹皮より拵えた、魔法の紙じゃ。オマエさまの気持ちを家族への手紙にするがよい…。強く願えば、思いは相手に届くはずじゃ!〉
メルは白い紙片を手にして、涙ぐんだ。
〈僕…。手紙を書くよ!〉
〈そうするがよい〉
森の魔女が微笑んだ。
メルは森の魔女から借りた羽根ペンを使い、丁寧に三通の手紙を認めた。
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父さんへ…。
生きている間は、我儘ばかり言って困らせてしまい、ゴメンナサイ。
『どうせ死んじゃうんだから、ほっといて…!』と怒鳴ったのは、間違いでした。
とても後悔しています。
できれば、僕を許してください。
どれだけ僕が挑発しても、父さんは父親で居続けてくれましたね。
最後まで、『お前など要らない!』と口にしませんでした。
いま僕は、父さんを尊敬しています。
新たな生を得て、長閑な村で元気に暮らしています。
トモダチも出来ました。
僕のコトは心配いりません。
本当は僕が感謝していたことを知ってもらいたくて、この手紙を書きました。
これが最後の我儘です。
できれば、僕のことを嫌な思い出にしないで欲しいのです。
それでは病気などせずに、長生きしてください。
貴方の息子、樹生より。
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母さんへ…。
母さんが作ってくれたゴハンを今でも覚えています。
先日、カレーライスを自分で作ってみました。
涙が出るほど美味しかったよ。
僕は死んで生まれ変わったけれど、貴女の子供であった事実を忘れていません。
生きている間は、謝罪しきれぬほどの迷惑をお掛けしました。
とくに…。
悪態を吐きまくったことを思いだしては、頭を柱に打ち付けています。
後悔で胸が痛いです。
ゴメンナサイ…。
『臭いんだよ、ブス…!』と罵ったのは、嘘です。
母さんを泣かせてしまい、まことに申し訳ありませんでした。
直接会って土下座したいのですが、それは叶いません。
この手紙も特別です。
ホントなら、僕の気持ちでさえ伝えられないそうです。
死んじゃうって、やり直せない事なんですね。
僕は特別なチャンスを貰ったので、この手紙に気持ちを託します。
母さん…。
ありがとうございました。
僕は元気で、新しい生活を楽しんでいます。
母さんも、充実した日々を送ってください。
貴女の息子、樹生より。
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和樹兄さんへ…。
父さんと母さんにも手紙を書いたけれど、詳細については伝えていません。
たぶん、本当のことを書いても信じてもらえないと思うので…。
兄さんにだけは、僕の新生活について隠さずに報告しましょう。
まず、僕が転生したのは異世界なのだ。
ここには妖精が棲んでいるし、魔法だってあるんだよ。
ちょっと、ビックリだよね。
そんな感じなので、僕は毎日を楽しく過ごしています。
もう病弱な弟じゃないので、どうか要らぬ心配をしないでください。
『もう二度と顔を見せるな!』って罵った後、兄さんは見舞いに来てくれなくなりましたね。
あのときは、とんでもなく冷たいヤツだと恨みました。
でも、仕方のない事だったと、思います。
兄さんの顔を見たら、また癇癪を起していたでしょうから…。
嫉妬ですね。
だけどね…。
僕は兄さんが好きでした。
兄さんとキャッチボールをしてみたかったな。
いまでも、兄さんから貰ったタブレットPCを使っているんだよ。
異世界なのに…。
父さんと母さんのことをよろしくお願いします。
それと…。
彼女ができないのを弟のせいにするのは、やめてください。
それじゃアニキ、元気でね…。
兄貴の弟だった樹生より。
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メルは手紙を書き終えた。
〈できたぁー!〉
〈それじゃ、手紙を送るとするかい…〉
〈うん…〉
森の魔女はメルから受け取った手紙を一通ずつ、庭の井戸に投じた。
〈この井戸が、あちらの世界へ繋がっておる…〉
〈ちゃんと、届くかなぁー?〉
〈大丈夫…。心配しなくともよい…。それより、オマエさまは祭りに戻らねばならんぞ…。キッチリと妖精女王の役目を果たしておいで…〉
〈わかった!〉
森の魔女に頷いて見せたメルは、何事もなかったかのように妖精女王の座で意識を取り戻した。
音楽隊の演奏が、メルの耳に鳴り響いた。
山車のまえで踊る村人たちに、立体感が戻って来た。
メルと現実を隔てる磨りガラスは、消え失せていた。
憂いは晴らされた。
メルの瞳に霊気が漲った。
指しゃぶりは終了だ。
「精霊の塔が見えましたぞ」
「皆の衆、もうひと頑張りじゃ!」
「おぉーっ!」
恵みの森を背景に、幾つもの篝火が焚かれていた。
精霊の石塔は、もう目と鼻の先に迫っていた。
夕暮れどきを間近に控えて、精霊祭は山場を迎えた。