ガジガジ蟲が巣食う城
「ちっ。またか……」
ヴランゲル城の城壁内にある迎賓館で、クロイツァー子爵が舌打ちをした。
壁に貼られた邪霊除けの護符が、へろりと剥がれ落ちたのだ。
帝都ウルリッヒで買い求めた霊験あらたかなお札が、見る影もないゴミ屑と化していた。
「高い金を払って買ったのに、この役立たずが!!」
アイスナー侯爵の手足となって汚れ仕事を引き受けてきたクロイツァー子爵には、とかく敵が多い。
そしてクロイツァー子爵を恨む敵は、生きている者だけに限られなかった。
邪霊除けの護符は、自分を呪って死んでいった怨霊たちへの備えだ。
その備えが、モルゲンシュテルン侯爵領では役に立たない。
帝国金貨を積み上げて購入した護符が、壁や窓、扉などに貼り付けた端から朽ちて行く。
糊で貼られた護符が風もないのに剥がれ落ちるのを見るのは、ぞっとするほど怖い。
拾い上げようとすると、黄色く朽ちた護符が粉々に崩れる。
「畜生め。オレを恨むのは筋違いだぞ。オマエらは、単に負けたから死んだのだ。いつまでも粘着せず、己の弱さを認めろ!」
去勢を張って怒鳴り散らしても、恐怖は消えない。
そもそもの発端は、寄親のアイスナー侯爵が悪名高いモルゲンシュテルン侯爵家と手を結んだことにある。
寄子のクロイツァー子爵は、ただ命じられるままに役目を果たしただけだ。
政権争いに負けて命を落としたのだから、親皇帝派の連中には潔く消えてもらいたい。
死霊と化して勝者を脅かすなど、不細工極まる未練ではないか。
「まったく……。何と女々しく、嘆かわしい連中であろうか……」
おまいうである。
何なら、雄々しさというものを見せてもらいたい。
帝国騎士団を恐れて逃げ出した男が、贅肉でたるんだ腹を揺らしながら怒鳴り散らす姿は、むしろ滑稽に見えた。
メルが傍に居たら、お腹を抱えて笑い転げたことだろう。
もっともヴラシア平原におけるモルゲンシュテルン侯爵軍の敗退は、クロイツァー子爵に領地を捨て去るだけの衝撃を与えたとも言える。
最新鋭の魔装化部隊が壊滅したと聞かされたなら、虎の威を借る狐が逃げたくなるのは当然だった。
クロイツァー子爵の身勝手な自己正当化は、揺るがない。
都合の悪いことには目を向けず、他人の失態をあげつらう。
アイスナー侯爵でさえ、一戦も交えずに逃亡したのだ。
巨人を引き連れた卑劣な帝国騎士団や、呆気なく敗れたモルゲンシュテルン侯爵の魔装化部隊に思うところがあっても、自分の判断が間違っていたとは考えない。
ただ、猛烈に腹が立った。
領地を追いやられたことが悔しく、平静さを装えなくなるほど恥ずかしかった。
モルゲンシュテルン侯爵が反撃に出ないのも、気に喰わない。
早くウスベルク帝国騎士団を蹴散らし、この事態に決着をつけてもらいたかった。
「ふんっ……。この館は豪奢だが、居心地が悪い」
城下町の大通りには無残に切り刻まれた死体が転がり、昼夜を問わず悲鳴が上がる。
暖を取るために広場で焚火をしているのかと訊ねてみれば、増えすぎた死体を積み上げての焼却処分だった。
高価な邪霊除けの護符が役に立たないのも、むべなるかな。
ここは死者の怨念が渦巻く、穢れに染まった都市なのだ。
ジワジワと心を苛む瘴気に曝されて、クロイツァー子爵の脆弱な精神は削られていった。
「お館さま」
家来のファリオが弱々しい声で、入室の許可を求めた。
「なんだ、入れ」
「失礼します」
血色が悪く、視線は落ち着きなくあちらこちらを彷徨う。
見えない何かを探しているのだろうか。
その有様を咎めたところで、意味などなかった。
モルゲンシュテルン侯爵領に足を踏み入れたときから、連れてきた家族や部下は挙動不審だ。
強力なアミュレットを身に着けたクロイツァー子爵だけが、かろうじて正気を保っている状態だった。
そのクロイツァー子爵でさえ、このところ異音に悩まされていた。
何もないところで、カサカサと音がするのだ。
枯葉が擦れるような……。
そう羊皮紙の上を大きな昆虫が這うような、乾いた音だ。
耳障りでならない。
「バスティアンさまの遣いとして、ユルゲン騎士隊長がお見えです」
「わかった。失礼が無きよう、応接室に通せ」
「はっ、畏まりました」
ユルゲン騎士隊長と言えば、モルゲンシュテルン侯爵の右腕と目される男だ。
遊民からの成り上がり者だからと言って、無下にはできない。
だが伝えたいことは、はっきりと口にせねばなるまい。
一刻も早く、この状況を何とかして欲しい。
なぜ魔導甲冑を総動員して、ウスベルク帝国騎士団を打ち滅ぼさないのか……!?
「勝利してもらわねば、困るのだ」
うまい汁を吸えると考えたから、大喜びで悪事の片棒を担いだのに、実に自分勝手な言い草である。
「大変、お待たせした」
「いいえ。こちらこそ主が不義理を致しまして、申し訳のないことです」
騎士隊の青い制服を纏ったユルゲン騎士隊長は、床に跪き、首を垂れた。
「失礼ながら、この後の手はずを伺っておきたい」
「只今、バスティアンさまは、アイスナー侯爵さまとご歓談中でございます。そろそろ結論が出たころではないでしょうか」
「それはウスベルク帝国騎士団を殲滅するための、相談ですかな……?」
「はい……」
ユルゲン騎士隊長が姿勢を正すと、陣羽織の下から耳障りな異音が漏れた。
ギィィ、ギィィィィィィィィーッ。
カチャカチャカチャ……。
金属音とは違う、硬質な素材を擦り合わせたような音だ。
「……ん?」
クロイツァー子爵は部屋の様子に異変を感じて、周囲を見回した。
「いきなり暗くなった」
視界の明度が落ちた。
壁紙が裂け、所どころ捲れていた。
何とも名状しがたい異臭が、鼻をつく。
「なんだこれは……」
ユルゲン騎士隊長の足元に落ちた影が、不自然なほど濃い。
その真っ黒な影が蠢き、蟲が溢れた。
ガジガジ蟲だった。
「なっ!?」
クロイツァー子爵が視線を上げると、そこにはユルゲン騎士隊長の皮を被った蟲が立っていた。
大きな蟲の化物だった。
「うぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーっ!!」
応接室の壁がバラバラと崩れ、天井から数え切れないほどの蟲が降ってくる。
「腰抜ケニ用ハナイト、我ガ主ハ仰セダ」
人のように直立した蟲は、抑揚に欠けた平坦な口調でクロイツァー子爵に告げた。
「セメテ、蟲タチノ餌トナレ……」
その一部始終をコッソリと盗撮しているものがいた。
羽虫である。
前回、領都ルッカに潜入したとき、殆ど役に立たなかったカメラマンの精霊は、メルの手でピカピカにリニューアルされた。
大がかりな改造を経たカメラマンの精霊初号機は、邪妖精含有率が八十八パーセントに到達し、どれだけ瘴気が濃い忌み地であろうとスイスイ動ける。
「ぬぬっ。これは一大事。妖精女王陛下に報告しなければなりませんね!」
ヴランゲル城で待ち構える真の敵は、メルが大嫌いな蟲だった。
ガジガジ蟲に比べたら、魔導甲冑など問題ではなかった。
まさに由々しき事態である。
カメラマンの精霊が入手した情報は、即座にユグドラシル王国国防総省へと転送された。
◇◇◇◇
ライトニング・ベアでミジエールの歓楽街に到着したメルとジュディットが、閑散とした目抜き通りを走り抜ける。
「はぁはぁ……。あーたがボーッとしとるから、みんな先に行ってしもうたわ」
「あぅー」
「急げ急げ」
「うん」
遠足の集合時間に遅刻したようなものである。
サハギンやセイレーンなど、ジュディットの仲間たちは、既に祠の異界ゲートを潜ってヴェルマン海峡だ。
今ごろは斎王ドルレアックの指揮下に入り、復讐の予習をしているところだろう。
「ひゃぁー。いつもなら賑やかな通りなのに、だぁーれもおらん」
「あたし、置いていかれちゃった」
「まあ、まだ慌てる時間とちゃうで。祭りの開催は、もうちっと先じゃ!」
「なぁーんだ。それなら、余裕で間に合うね」
「ボケェー。あーたが遅刻なのは、変わらんどぉー。ライトニング・ベアを飛ばして来なければ、祠の締め切りに間に合わんところデス。まじで、ギリギリですよ」
「ごめんなさぁーい」
祠に到着したところで、メルが持ち物検査をする。
「ハンカチ持った?チリ紙は……?」
「あたし、手ぶらだよ」
待ち合わせ時間に遅れたジュディットは、メルから貰ったポシェットさえ身に着けていなかった。
遅刻と忘れ物のダブルパンチだ。
「バカですね」
「そんなぁー。何を持って行くかなんて、知らされてないもん」
「これからカチコミかけるのに、道具も持たんと、アホかいな!?」
「石じゃダメ?」
ジュディットが宝物の石を手に持って見せた。
海で暮らしていたときに、貝を割るために使っていたアレだ。
「ムムッ。幼児のドタマをカチ割るには、丁度よさそうやけど……。悪党どもが相手だと、ちと貧弱かのぉー」
「…………ダメ?」
「しゃぁーない。わらしの道具を貸そう」
そう言ってメルが、愛用の中華お玉を差し出した。
一般的なレードルと違い、力任せに叩きつけても柄が曲がらない頑丈な道具だ。
丈夫で長持ち、花丸キッチン推奨の合金製レードルである。
「わお。これで憎らしい連中の船に、海水を注いでやるのね」
「………………。ジュディーがそうしたければ、そうしたらエエよ」
どうやらジュディットは、イグルーで開催した百物語のひとつを思い出したようだ。
漁師から脅し取った柄杓で舟を沈める、舟幽霊の話だ。
柄杓の底を抜いてから幽霊に渡さないと船を沈められてしまう、とても微妙な怪談である。
「これじゃ船を沈められない?」
「まあ、多分」
中華お玉で魔動船が沈められるものなら、是非ともやって見せてもらいたい。
「えーっと、海水を汲むのは違うのね。だったら、どうやって使うのかしら……?」
「うん。普通に殴ればいいと思うよ。海面に浮いてきた頭を」
ボッチ人魚は面白いけれど、弟のディートヘルムにバカが伝染ったら嫌だなと思う、メルだった。
◇◇◇◇
暫く出かけてきます。
そう言って斎王がギルベルト・ヴォルフの前から姿を消し、もう二十日目になる。
更に昨日、ミジエールで暮らす住人たちの殆どが、夢の館にある祠へと入って行った。
顔なじみに訊ねたら、遠い海で大切な祭祀が催されるのだと教えてくれた。
祠の向こうに海がある。
それは斎王が、異界ゲートを管理していると言う話だ。
祠の前には、角の生えた番人が立っていた。
通行料なのか、祠に入る者たちは帝国金貨を番人に渡してから祠の戸口を潜る。
そこでギルベルトも真似てみたのだが、異形の番人は首を横に振り、金貨を突き返して寄こした。
きっと、あの祠の向こうに斎王が居る。
とても会いたかった。
ぼんやりと祠を眺めていたら、ギルベルトにとって非常に印象深い少女がやってきた。
調停者クリスタから聞いて、名前は記憶していた。
確かメルである。
「メルちゃん」
「おっ。ぎるます」
「ここは子供が遊びにくる場所じゃないよ」
「アソビ、ちゃいます。ジュディーの案内デス!」
幼げな少女は、年かさの娘を連れて祠に向かった。
やはり番人に帝国金貨を渡している。
「行ってらぁー。心のわだかまりをスッキリさせて来るんやでぇー」
「うん。行ってくる」
娘は祠の扉を開けて、中に消えた。
「何でだ?どうして俺は、通してもらえない!?」
「おほぉー。ギルマスは、サイオーさまが恋しいのですね」
「どうして君がそれを……?」
ギルベルトは訳知り顔ですり寄って来たメルに、動揺した。
「いっつも、サイオーさまのノロケ話に、ギルマスの名が出てくるもん。それは幼児とて察しますわ」
「……っ!」
メルはニヨニヨしながら、ギルベルトの袖を引っ張った。
「なっ、なっ……。詳しい話は、甘味処でしよか。ギルマスの奢りな」
「詳しい話って」
「わらし、白玉ぜんざい」
「いや、そのくらい奢るけど」
「サイオーさまの話、聞きとぉーないんかい!?」
「聞きたいです!」
ギルベルトはメルに捕まり、甘味処猫屋に連れ込まれてしまった。
財布が空になるまで集られるとも知らずに……。








