決戦間近
囲壁に守られた領都ルッカの上空には、陽光を遮る不気味な暗雲が垂れこめていた。
だが、雨は降らない。
何であれ、流水は浄化だ。
吹き荒れる風や山野を焼き払う炎、一夜にして都を灰燼に帰す地震や噴火であろうと、恐るべき天災は浄化の側面を持つ。
日が射さず、雨も降らず、風さえ吹かない穢れた土地は、これ即ち忌み地である。
天変地異とは、人の思惑を超えて生じる天意だ。
しかしウスベルク帝国は、その建国以来、天災に悩まされたことが無かった。
何故に……。
何故にウスベルク帝国には、自浄作用としての災害が起こらないのか……?
それはウスベルク帝国が、そのように造られたからである。
屍呪之王を封印する場所に、天変地異は不味い。
ウスベルク帝国建国に際して、国造りに携わる者たちは天災から国土を守ることで生じるであろう、様々な危険性について論じた。
数ある意見の中には、安楽な暮らしに慣れてしまった人々の、精神的な堕落を危ぶむ声もあった。
だがそれは、考慮に値しない些末な問題として要検証の項目から省かれた。
堕落は絶望や苦しみに起因する人の悪癖であり、人類滅亡の恐怖さえ取り除かれたなら、民草も心の安寧を取り戻して善性を育むであろうと信じたかったからだ。
何もかもが根拠の薄い戯言に過ぎず、暗黒時代の殺伐とした空気に倦んだ知識人たちの願望だった。
誰もが、性悪説について論じたくなどなかったのだ。
愚かと断ずるなかれ。
それこそが、時代の空気と言うものだ。
その時代に生きる者が大勢に異議を唱えたとしても、ただ虚しいだけである。
当時の魔法博士たちは、『愚劣王ヨアヒムを贄の結節点に定めれば、帝国を守る魔法術式が綻びることはない!』と、決めつけた。
事程左様に人々は屍呪之王を怖れ、愚劣王ヨアヒムに憎悪の矛先を向けていたのだ。
ではあるものの、建国時点に於ける封印の魔法術式には重大な欠陥があり、結界自体の経年劣化や国家の発展による負荷増大など、経験しなければ分からない不具合を大量に含む技術だった。
正確に言い直すなら、屍呪之王を地下深くに封じる結界の構築が、ウスベルク帝国建国より先にあった。
ウスベルク帝国の建国は、これに便乗するものでしかない。
他に住む場所が無かったのだ。
安全は二の次だった。
付け加えておくと、この無謀な計画に許可を与えたのは調停者クリスタである。
暗黒時代の戦いに絶望し、疲れ切っていたクリスタは、かなり投げ遣りな態度で言い放った。
『勝手にやりな。但し、あたしに迷惑をかけたら滅ぼす!』
これはウスベルク帝国の建国秘話だ。
歴史書にも、調停者の発言は記載されていない。
塵も積もれば何とやらである。
些細な可能性はやがて無視できない現実となり、不心得者たちがウスベルク帝国を土台から食い荒らした。
怠惰になった人々は互いに協力する大切さを忘れ、身分の高い者ほど増上慢と我が物顔の振舞いを当然とするようになった。
メルなら得意げに、こう言うだろう。
『これでもう大丈夫!』は、お決まりのフラグでしょと……。
こうしてウスベルク帝国は、嘘つきな特権者たちが信用と信頼と綺麗ごとを大安売りする時代に突入した。
皇帝陛下の威信など、もはや紙切れ一枚ほどの価値もない。
鼻をかんだらサヨウナラだ。
その一方で、ジメジメとした陰気な沼沢地を抱えるルッカでは、愚劣王ヨアヒムの霊廟が建立されたときから千年の長きに亘り、戦乱に倒れた兵士たちの怨霊を集めてきた。
ルデック湾を臨む小高い丘にヴランゲル城が建築されるより遥か昔から、この地には呪われし王の首が祀られていたのだ。
そもそもの始めから人が住むに適さない土地にウスベルク帝国を建国したツケは、全て愚劣王ヨアヒムに押し付けられた。
ヨアヒムを忌むべき存在として封じようとする集団意識が、ウスベルク帝国の基礎にある。
今、ウスベルク帝国崩壊の危機を迎えて、皇帝ウィルヘルムが領都ルッカを訪れようとするのは必然であろう。
矮小なる人は、大きな運命の導きに逆らえなかった。
ウィルヘルム皇帝もまた、一つの因果律が終息へと向かう流れに身を任せるのみ。
それこそが、運命というものであろう。
「さて……。いよいよ剣呑な雰囲気になってきやがったぞ。小悪党どもが、血相を変えて走り回ってやがる」
隠れ家に戻ってきたヤニックが、茶を啜るなり、愉快そうに笑みを浮かべた。
「帝国騎士団が、領都ルッカにあと六日ほどの場所で目撃されたそうです」
ビンス老人はティーポットに沸騰した湯を注ぎながら、城下町で耳にした情報を伝えた。
「あと六日の位置か……。ところで爺さんの仕事は、終わったのかい?」
「…………っ。幾らなんでも、爺さんはないと思います。ゲルハルディ大司教さまに、何て気安い。失礼ですよ、ヨーゼフ・ヘイム大尉」
「おい、ジェナ!ジェナ・ハーヴェイさんよ。オマエの頭には、おが屑でも詰まっているのか……?只今オレたちは、敵地に潜入中だぞ。いつ如何なるときでも、演技は徹底しろ」
「と言ってもですね。だぁーれも見ていないし……。演技とは仰いますけど……。ご老人ならまだしも、爺さんは砕けすぎデショ!」
「いいんですよ、ジェナさん。わしもヤニックさんに爺さんと呼ばれると、何やら親しみを覚えます。ご老人なんて他人行儀な呼び方は、好ましく思えません。ここは身分や礼儀などより、命大事で参りましょう」
「そうですか……。わかりました、お爺ちゃん」
「おいおい。おまえビンス老人には、えらく素直だな」
ジェナ・ハーヴェイにとって、美味しい食事を用意してくれるビンス老人は聖者だった。
一方、ヤニックがくれる野戦糧食は激マズだ。
ヤニックは糞である。
扱いが違うのは当然だろう。
「ヤニックさんの質問にお答えします。完了と言えば完了。これより先は、力及ばずと言ったところです」
「そうか……。行動に移す勇気がある者は、一人残らず逃がしたってことだな」
「はい。住民の多くは恐怖に心を絡めとられて、決断できぬようです」
「さもありなん」
ヤニックは脱力し、椅子の背に身体を預けた。
やるせない気分を隠せない。
「善き精霊の加護が失われた地です。領都ルッカは厚い雲に閉ざされ、忌まわしい瘴気に包まれています。妖精たちも怯えてしまっている。住民たちが勇気を無くすのも、致し方のないことでありましょう」
斎王ドルレアックは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「どちらへ行かれるのですか?」
ビンス老人が、斎王ドルレアックの背に問いかけた。
「潜伏中にて自重して参りましたが、目に余るものがあり、少しばかり灸を据えようと思います」
「いやいや、それは不味いだろう。外は殺気立っている。瘴気が酷くて、オレたちは精霊魔法を使えない。魔剣使いに出くわしたら、無事では済まないぞ」
幾ら瘴気が濃くても、魔道具に封じられたピクスは働く。
怯えや恐怖など、隷属させられたピクスたちに意味をなさなかった。
だが、真っ当な妖精の力を借りて精霊魔法を使うヤニックたちは、己の身体能力を頼りに戦うしか術がない。
説明するまでもなく、圧倒的に不利な状況である。
しかし斎王ドルレアックは、邪精霊の憑代だ。
身に宿す妖精たちも、気合の入った邪妖精ばかりなのだ。
水蛇が住処にしていた沼地は、致死性の瘴気で景色が歪んで見える程だった。
「心配には及びません。ここよりわたくしは、皆さまと行動を別にさせて頂きます。妖精女王陛下のご命令です」
「ここには戻らないのですね」
「はい。眷属を招集して、ヴェルマン海峡を塞ぎます」
「ご武運を……」
銘々が椅子から立ち上がり、斎王ドルレアックに暫しの別れを告げた。
雅な祭服を翻し、手ぶらで立ち去る斎王の姿を見送りながら、ジェナ・ハーヴェイは思った。
(大尉は演技演技と仰いますけど、斎王さまの役どころって何なのかしら……?)
斎王ドルレアックは、全く普段と変わらず斎王だった。
ただし聖地グラナックにおわす筈の斎王が、領都ルッカを訪れるとは誰も思わない。
なので炊き出しに訪れた貧しい人々は、位の高そうな巫女装束を身に着けた美少女だと、外見通りに受け取った。
祭服を纏った美少女。
それは即ち、特定の精霊宮に属さず各地を転々と旅してまわり、庄屋の屋敷にて一夜の宿を借りては、精霊降ろしの舞を披露する昔ながらの巫女だった。
現在では、露骨に遊女と見做されている。
つまり斎王ドルレアックは、人々からビンス老人の愛人だと解釈されたのだ。
巫女装束の美少女がビンス老人の用心棒を務めていると見抜くものは、一人として存在しなかった。
この結果は、ザスキアの能力を得た斎王ドルレアックが、見えざる手で悪党どもを排除していたので、妥当と言えよう。
勿論、斎王ドルレアックやビンス老人に、愛人関係を演じようなどと言う破廉恥な発想はなかった。
それどころか、幼少の頃から巫女を演じ続けてきたドルレアックは、既に何が演技なのか分からなくなっていた。
詰まるところヤニックは、この浮世離れした美少女に演じるべき役どころを振れなかったのだ。
ジェナが何度も訊ねたのに、『あれは、あれでよいのだ』としか応じないヤニック。
もうすぐ四十路のエルフ娘は、怪しげな返事しかしない上司を尊敬できない。
エルフの四十才は、まだまだ反抗期だった。








