エルフさんの温泉宿
紛争予定地域で暮らす農民の避難誘導を完了させたメルたちは、意気揚々とドラゴンズ・ヘブンへ帰投した。
風竜は島の上空でホバリングし、垂直に高度を下げていく。
まるでトンボのようだ。
揺れもなければブレもない、精霊魔法による安定した飛行だった。
グングンと地表が近づいて来る。
「フーッ。何とか無事に終わったな、アーロン!」
フレッドがアーロンに、握りこぶしを突きだした。
「お疲れさまです。フレッドさん」
アーロンがフレッドのこぶしに、自分のこぶしをぶつけた。
何しろ、子供を引率しての任務だ。
雇われ戦闘員のバルガスたちと違って、フレッドとアーロンの気負いは半端なかった。
非戦闘員である子供らにケガをさせたとあっては、自分を許せない。
当初はメルが、異界ゲートの操作を担当するはずだった。
ダヴィ坊やは兎も角として、急遽チルとルイーザの参加を決めて、避難誘導計画のハードルを上げたのはメルだ。
その狙いは、間近に控えた戦いに備え、花丸ポイントを温存するところにあった。
更に付け加えるなら、魔法王や精霊教師の勧めもあって、チルとルイーザの実地訓練を兼ねた遠征だった。
この貴重な経験は、魔法学校の生徒たちと共有される。
「メルのやつ…。我が娘ながら、相変わらず考えていることが分からねぇ。父親として情けない限りだけれど、幾ら説明されても理解できん」
「まぁまぁ。相手は妖精女王陛下ですし、理解の及ばぬ点があったとしても不思議はありません。何事もなかったのですから、良しとしましょう」
作戦遂行中、落ち込んだフレッドを宥めるのは、アーロンの役目となっていた。
「まあ、その通りだ」
「ヤレヤレですね」
全員が無傷での生還だ。
取り敢えずは、大成功と言えるだろう。
「うぉぉぉぉぉぉーっ。なんだこれは!?」
ゼピュロスより先に、モモンガースーツで地表へと降り立ったダヴィ坊やが、叫んだ。
「ら、ラビーさんに、やられたわ…」
ダヴィ坊やの横に着地したメルは、出発前とすっかり変わってしまった景色に目を奪われた。
モモンガースーツのフードを外した二人は、釣り上げられたイワシみたいな顔をしていた。
目は丸く、口をぽっかりと開いている。
「がぁーっ。オレが建てた小屋、どこへ消えてしまった?」
「小屋どころか、空き地の面影が残っとらん。精霊樹を除いて、なんもかんも消えたわ」
「あの、デッカイ建物は…!?」
ダヴィ坊やが、大きな木造建築物を指さして喚いた。
「あれはのぉー。わらしがイメージしとった、温泉旅館じゃ。デブにも、設計図を見せたデショ」
「えっ。それじゃ、オレたちが建てた小屋は…?」
「うん…。言うならば、本番前の練習デス…?」
「ウガァーッ!そんな話、ぜんぜん納得できんヨ!!」
ダヴィ坊やには、メルの描いた設計図が理解できなかった。
なので指図されるままに材木を切り揃え、只々メルの言うなりに組み立て、傾いた小屋を完成させたのだ。
「夢は大きゅうないと、アカーン」
最初から完成形を教えられていたなら、こんな無謀なプロジェクトには参加しない。
「グヌヌヌヌッ!」
ダヴィ坊やは、メルの頭をゴチンと殴った。
「痛いわぁー。デブ…」
メルが涙目になった。
「メル姉は、馬鹿か!あんなもん。子供に作れるわけないでしょ!」
「こうやって実際に見ると、わらしもそんな気がしてきた」
「それくらい、最初から分かれヨ!」
ダヴィ坊やの罵りが虚しい。
温泉旅館の前には、島の中央から引かれた水路があった。
情緒を感じさせる水堀だ。
その水堀に朱塗の太鼓橋が架かり、温泉旅館の玄関口へと道は続く。
広々とした玄関口には、【エルフさんの温泉宿】と金文字で大書された扁額が掲げられていた。
「入口に何か居るぞ」
「うむ。仲居さんやね」
ダヴィ坊やの台詞にメルが応じた。
温泉旅館なので仲居さんだ。
「なかい…?」
「お客さんの世話を焼いてくれる人デス」
「そうか…?」
古風な旅館の前には、和服姿の女性がずらりと並んでいた。
殆どはミジエールの歓楽街で見かけた顔だ。
セイレーンたちである。
女将は白瑪瑙だった。
「ようこそ、おいでやした」
どうやら準備万端である。
「なんね…。わらしが留守しとる間に、もう営業を始めとるやん」
「メジエール村のご老人たちが、療養にいらしてます」
「ラビー、おるん?」
メルは不機嫌そうに訊ねた。
「いいえ…。でもタリサさまから、皆さまがご到着なさったら連絡するようにと、承っております」
白瑪瑙が困ったように微笑んだ。
「ふーん。そう…」
メルがスンと鼻を鳴らした。
メルとダヴィ坊やの背後に、ゼピュロスから降りた大人たちが集まって来る。
「おい、メル。何だこれは…?」
フレッドが、我慢しきれぬ様子で訊ねた。
「ぱぁぱ。ここは、おっきなお風呂デス」
「風呂ぉー!?」
「客室と宴会場つきの、お風呂屋さんじゃ」
「いや、そういう話じゃなく。出かけるときはなかったよな、こんな建物…?」
フレッドは呆れ顔で、三階建ての温泉旅館を見上げた。
「所謂、公衆浴場でしょうか…?それにしても大きい。魔法学校の寄宿舎と、然して変わらぬ敷地面積ですね」
アーロンも、驚きを隠せなかった。
しかしアーロンとフレッドでは、そもそも驚くポイントからして違う。
アーロンは、その大きな建物が風呂屋だと聞いて驚いたのだ。
「…………」
この間、ダヴィ坊やは黙して語らず。
温泉旅館が如何なる代物か分からないので、会話に参加できない。
何しろダヴィ坊やが汗水たらして建てた小屋には、風呂なんてついていなかったのだ。
風呂と言えば、小さな露天風呂があるだけ…。
何なら、水たまりみたいなものだ。
「ふふっ、アーロン。中身は、魔法学校の寄宿舎とぜんぜん違いますえ。それはもう…。ビックリするほど、お風呂が広いのデス」
「おいおいおい…。バカじゃねぇの…。トロールじゃあるまいし。チビの癖して、そんなデカイ風呂が必要かよ?おめぇーにゃ、木のタライで充分だろ」
バルガスが、メルとアーロンの会話に割って入った。
「ウガァーッ。文句を垂れるなら、バルガスはとっとと帰れ!」
メルはバルガスの尻を蹴とばした。
「イテェ。何しやがる、この悪魔チビ!」
「このリゾートはなぁー。おまぁーのために、考えたんとちゃうわ!!」
「そうだ、そうだ…!」
ダヴィ坊やも喚き散らす。
そしてパンチ。
「ぐぇっ…。なっ、なんだ、おめぇーら。今日は、やけにキレッキレじゃねぇか!!」
今のメルとダヴィ坊やに、寛容の心は期待できなかった。
◇◇◇◇
夕暮れ時を迎えた温泉旅館は、建物のあちらこちらに用意されていた提灯やランプの灯りで、煌々と照らされる。
大宴会場では大人たちが集まって、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎだ。
メジエール村の老人たちも、慰労会に参加している。
「どいた、どいたぁー」
「道を開けるニャ」
「こちとら急ぎだニャ!」
三匹のケット・シーが、ニャーニャーと騒ぎ立てながら廊下を突進してくる。
「こら、廊下を走ってはなりませぬ!」
白瑪瑙が、配膳役のケットシーたちを叱りつけた。
「煩いニャー」
「もたもたしてたら、お料理が冷めてしまうニャ」
「そんでもって、うちらは板長にどやされちゃうニャ!」
「それでも、あなたたちは周囲に気を配って歩きなさい!!」
忙しそうに料理を運ぶのは、揃いの青い半被を着たケット・シーたちだ。
裾に白波、背中には赤く染め抜かれた大漁の文字。
「ニャニャ!?」
ケット・シーたちは何段も積み重ねたお膳を抱えているので、足元が見えない。
非常に危険である。
「あーっ。危にゃい!」
バランスを崩して転んだ。
「クロが、こけたニャ」
「大惨事だニャ!」
ガチャーンと音を立て、お膳や食器がぶちまけられた。
「それ、言わぬことではない」
白瑪瑙は倒れたクロを助け起こし、集まってきた仲居たちに廊下を片付けさせた。
「大丈夫ですか。ケガはしていませんか…?」
「うん、大丈夫ニャ。ごめんニャ」
エルフさんの温泉宿は、つい昨日から営業を開始したばかりだ。
従業員による小さなトラブルは、後を絶たない。
だけど、確かな手ごたえがあった。
「おもてなしの見返りが、大きいのよね」
メルが作ろうとしたリゾートは、癒しに特化した妖精郷だ。
温泉旅館の従業員たちは、宿泊客が感謝してくれるなら労賃などなくても頑張れる。
今はまだ、ヘルプに入る妖精たちも何をすべきか戸惑っている状態だが、押さえるべきポイントが分かれば事故も消えるはず。
既にドラゴンズ・ヘブンは、異界ゲートのネットワークと繋がれている。
やがては各所の開拓村や帝都ウルリッヒからも、大勢の宿泊客が訪れることだろう。
宿泊客で賑わう温泉旅館の未来を想像して、糸のように目を細める白瑪瑙だった。
感謝の気持ちは何よりも大切だけれど、お金を貰うのだって悪くない。
白蛇の双子。白瑪瑙と真珠は、お金を貯めるのが大好きだった。
「温泉とは、良いものですね」
エルフの湯は、癒しの湯だった。
とっぷりと日が暮れた露天風呂を提灯の灯りが仄かに照らす。
温かな湯気が風に流れ、提灯の灯りは水面に揺れる。
泉質、硫酸塩泉。
高温泉。
湯本が離れているので、湯温に問題はない。
お湯は綺麗な透明で、ちょっと苦い。
「ふぃー」
ピンクに茹った白エルフが、露天風呂を漂っていた。
小さな男の子が、それを追いかける。
「わぁーい。ネェネ、おんせん楽ちぃー!」
ディートヘルムである。
バシャバシャと湯を跳ね散らかし、メルの周囲をまわる。
「ペッペッ…。にがっ、苦いわ。ディー、お湯をかけるの止めんかい」
「ウヘヘヘ。楽ちぃー!」
ディートヘルムはヤンチャ盛りなので、叱られても興奮するばかりだ。
メルが捕まえようと手を伸ばせば、楽しそうに身を躱す。
「はぁー。ラビーさんは、ずっこいわ」
メルが湯に浸かったラヴィニア姫をチラ見する。
いつもと変わらぬ、魅惑の幼児体系である。
でっぱりも、へっこみもない、メルと同じような裸身だ。
精霊樹の呪いか、二人の胸はペッタンコのままだった。
「でもでも…。ディーちゃんとお風呂に入れるのは、今だけだよ」
「そうなんですよねぇー。デブも、男風呂へ行っちゃったし」
メルは詰まらなそうに呟いた。
「十歳になったら、さすがにねぇー」
ラヴィニア姫が、乙女のような恥じらいの表情を浮かべた。
三百年を生きても、男性のコトは艶本でしか知らない。
あそこの知識は、美麗な挿絵だけが頼りだった。
「あいつ、毛ぇー生えとるんかのぉー?」
「メルちゃんは、ツルツルだね」
「そういうラビーさんは…?」
「さりげなく、調べようとしないで…」
ラヴィニア姫は、すすっとメルから距離を取った。
「けちん坊」
「恥ずかしいの…」
「わらし、隠さんと見せてるやん!」
「やめなさい!」
ダヴィ坊やは、オ〇ンチンが気になるお年頃だ。
裸の付き合いが難しくなった。
「ぐほぉっ!」
「ディー、捕まえたぁー!」
油断していたディートヘルムに、メルが飛びついた。
「キャァーッ!捕まったぁー」
「さあ、身体を洗うよ」
メルはディートヘルムを小脇に抱えて、洗い場に移動した。
「メルちゃん、わたしのこと怒ってる?そのぉー。勝手に、温泉旅館を建てちゃったから…」
「ふっ…。こんなん怒れんデショ。むしろ花丸ポイントを使わせてしまい、ホンマに申し訳ないです」
「ぜんぜん…。タリサちゃんやティナちゃんも、大喜びだったし…。メジエール村の、お爺ちゃんお婆ちゃんも感謝してくれたよ。わたしも、温泉が大好き」
「わらしは、ラビーさんが大好きデス」
メルがラヴィニア姫のほっぺにチューをした。
「ネェネ、ボクは…。ボクのコトは好き!?」
「はいはい…」
メルはディートヘルムを石鹸でアワアワにしてから、ピッタリと抱きついた。
密着した互いの肌が、石鹸の泡でツルツルと滑る。
「キャァーッ。ニュルニュルだよ。ネェネ、くすぐったい」
「ウヒャヒャヒャヒャ…。さっきの仕返しです。逃がさへんヨォー。うりうり…」
「イヤァー!」
「どうだ、参ったかぁー!?」
洗い場で、弟と悪ふざけに興じる、バカ姉だった。