怨嗟の連鎖
バスティアン・モルゲンシュテルン侯爵は、ヴランゲル城の望楼からルデック湾を眺めていた。
「父の時代には、ありきたりな漁港だった」
誰にともなく、しゃがれた声で呟く。
先代のマンフレートが領地を収めていたときには、立派な倉庫群もなかった。
ミッティア魔法王国との交易は行われず、貿易港と呼ぶのもおこがましいような寂しい港だった。
「ふっ…。それが今では、ウスベルク帝国一の軍港だ!」
「…………っ」
バスティアンの台詞を聞き取れなかった小姓は、幼さが残る顔を硬直させた。
訊ね返すことなど許されていない。
自分が仕えるべき主人の性格は、知っていた。
癇癪持ちで残忍だ。
「リヒャルト、酒を寄こせ」
「はっ、はい」
小姓のリヒャルトは、銀のゴブレットに酒を注ぎ入れた。
ボトルを持つ手が、カタカタと震える。
「なんてことはない…。己の立場や後先を考えなければ、こうした偉業をなすのも容易い」
売国である。
どう言い換えようが、バスティアンはウスベルク帝国を裏切り、ミッティア魔法王国の軍勢を引き入れたのだ。
小姓のリヒャルトも、バスティアンの裏切り行為は承知していた。
それだけに、主人との会話は返答が厄介になる。
主人を諫めるなど以ての外だけれど、褒めるのも何やら不味いような気がする。
バスティアンの傍にいると、どこに罠があるか分からない地下迷宮を彷徨っているような気分にさせられる。
小姓のリヒャルトにはウスベルク帝国への忠誠心など欠片もなかったが、平気で国を裏切る主人は恐ろしい。
しかも受け答えに不備があれば、どのような罰を与えられるか分かったものではない。
「貴族に課せられた義務かぁー。そんなもの糞くらえだ」
バスティアンは眉間にシワを寄せて、不味そうに強い酒を飲み下す。
呪われたモルゲンシュテルン侯爵家に生まれて、祖先の悪業を引き受けるには、尋常ならざる覚悟が必要だった。
少なくとも義務を果たすために死なねばならぬのなら、それなりに納得できる理由が欲しい。
たとえ、いつ捨てようと惜しくない命であっても…。
「特に帝国貴族どもだ。あいつらのために我が身を犠牲にするなど、あり得ん。あってはならん。むしろ、一人残らず滅ぼしてやりたい」
バスティアンの瞳に狂気の色が滲む。
屍呪之王を封じる結界が解れかけたタイミングでモルゲンシュテルン侯爵の地位に付けば、誰であろうと心を蝕まれる。
正気を保つのでさえ難しい。
呪いに存在を侵食されたバスティアンは、歪な捩れと化した。
それは現象界に生じた、看過すべきでない穴だ。
小さいけれど重大な欠陥である。
まだ余裕があるうちに、故マンフレートがモルゲンシュテルン侯爵家の責務を果たすべきだった。
「フゥーッ。何かに夢中にならなければ、己を失ってしまいそうだ…」
バスティアンはゴブレットに口をつけ、酒を呷った。
ウスベルク帝国への反逆は、バスティアンが理性を保つための手段に過ぎない。
煮えたぎる憎悪と敵意を宥めすかし、ともすれば叫び出しそうになる自分を無理やり押さえつける。
「理不尽だ。わたしに用意された運命は、余りにも理不尽だ。わたしの心が慰めを欲している。他人の苦痛が…。もっと悲鳴を聞かせて欲しい」
愚鈍な帝国貴族や何も知らないバカな帝国民を守るために、自分の命を捧げるのはイヤだ。
それはバスティアンにとって許しがたい運命だった。
とうてい受け入れることなどできない。
幼い頃から擦り込まれた自己犠牲の精神は、守るべき者たちの尊さが失われた時点で機能しなくなっていた。
義務を果たせない罪悪感は、それを要求するものたちへの憎悪に姿を変えた。
「新たな結界を用意するには、まず最初にモルゲンシュテルン侯爵家の当主が死なねばならん。贄の核となるために…。はっ…。なんと馬鹿げたことだろう」
古の契約に基づき、モルゲンシュテルン侯爵家の当主を贄とすることで、ニキアスとドミトリが新たな魔法結界の構築に取り掛かる。
帝都ウルリッヒの遊民保護区に集められた人々は、バスティアンが死なない限り生贄の候補でしかなかった。
バスティアンの自己犠牲が無ければ、幾ら殺しても屍呪之王を封じる役には立たない。
つまり封印結界を再構築しようとするなら、バスティアンの犠牲は確定していた。
しかし、屍呪之王が野に放たれても構わないのであれば、自己犠牲の必要はなくなる。
この世が狂屍鬼で溢れても構わぬというのなら、狂気の導くままに破滅へと突き進めばよい。
「そう…。わたしの死は、わたしだけのものだ。わたしが死ぬことで誰かを利することなど、あってはならん」
モルゲンシュテルン侯爵家の家名は、忌まわしい呪い。
誇りに思ったことなど、一度としてなかった。
母親に愛された記憶はない。
友人も居なければ、信用のおける知人も居ない。
父親である故マンフレート侯爵は、己の責務をバスティアンに圧しつけて発狂した。
己の命を賭してまで守るべきものなど、バスティアンには無かった。
「どうせ心を病んで死ぬなら、父上が贄になれば良かったのだ!」
理想を言えば、先々代のシュテファンがモルゲンシュテルン侯爵であったときに封印結界の限界を迎えていれば、事の成り行きも変わっていただろう。
バスティアンの祖父に当たるシュテファンは、家名を重んじる豪胆な人物だった。
だが、四の姫が頑張りすぎた。
屍呪之王との相性が、良かったとも言える。
その影響は、バスティアンによる売国という不幸な結果を招き寄せた。
「本来であれば、父上が当主であった時代に封印を再構築すべきだった。それをギリギリまで待つとか…。そのうえ精神に異常をきたすとは、意味が分からん」
責任逃れではないか…。
もとから臆病な気質を持つ故マンフレート侯爵が、決定的に事態を拗らせた。
家名を守るべく、素直に運命を受け入れて、粛々と生贄としての務めを果たせばよかったのだ。
「父上は侯爵家の地位に胡坐をかき、勝手気ままな人生を楽しんだはず…」
バスティアンは手にしていたゴブレットを床に叩きつけた。
「ひぃ!」
バスティアンに侍っていた小姓のリヒャルトが、恐怖に肩をすくめた。
「どうしたリヒャルト…?わたしが怖いのか?」
「いえ…。ちょっと驚いただけです」
バスティアンの顔は土気色をしていた。
屍人の顔だ。
まともではない。
視線を合わせるのが怖い。
「帝国や先祖は、わたしに義務を果たせと喧しい。しかし、わたしとて、自らの意思でモルゲンシュテルン侯爵家に生まれたわけではない」
「………………」
「あの忌まわしい屍呪之王を世に生み出したのは、わたしか…?」
「………………」
「いいや。違うだろう…。その責任を何故わたしが取らねばならん。オマエは、どう思う?」
「あのぉー。わっ、わかりません」
「物心がついたときから、贄として死ぬ務めばかりを聞かされ続ける苦痛が分かるか?」
「………………」
「オマエには、分からぬであろうな」
「申し訳ありません」
「なに…。謝ることなどないさ。この帝国に暮らす者どもは、オマエと変わらん。だぁーれも、何も分かっていない。明日の破滅を知ろうともしない、呑気なアホばかりさ」
バスティアンは怯える小姓を優しく抱き寄せた。
そして窓辺に足を進め、遠くを指さす。
「見よ。我が領地を…。わたしの才覚で栄えた領地を見るがいい。堅牢なヴランゲル城を…。魔法技術の粋を集めて築かれた、巨大な軍港を…」
「素晴らしいです」
「すべて…。すべて、ミッティアの馬鹿どもに貢がせた。屍呪之王をエサにしてな…。連中は、自分たちの魔法技術に奢っている。屍呪之王が簡単に管理できると信じ込んでいるのだ」
「………………」
「愚かだ。滑稽だよ…。先見の明がなかった祖先や魔法博士どもと、まったく同じ轍を踏もうとしておる。わたしは、わたしを贄にして平穏に生きようとする者たちが許せない。わたしが存在しない世界など、滅びてしまえばよいのだ。わたしを手玉に取ったとほくそ笑んでいるミッティア魔法王国の連中も、道づれよ。皆…。みな死んでしまえ!」
「えっ…!?」
バスティアンが小姓を抱え上げ、望楼の窓から投げ落とした。
「キャァァァァァーッ!」
「リヒャルトよ。先に行って、待っておるがよい」
バスティアン・モルゲンシュテルン侯爵の左目がぐるりと回転し、昆虫の複眼に変わった。
「ジキニ、ワタシモ逝ク…」
もう手遅れだった。
◇◇◇◇
「ここが帝都ウルリッヒですか…。何とも、鄙びた都ですね」
奇妙な左腕を持つ女が帝都ウルリッヒの城壁を眺めながら、ポツリと呟いた。
暗黒時代に調停者クリスタと闘い、左腕を失ったマルグリットだ。
身体に受けた呪いと執念が、マルグリットをクリスタのもとへと導いていた。
漠然とした予感でしかないものに身を任せ、ヴェルマン海峡を越えて旅してきた。
常識人からすれば狂気の沙汰であるが、マルグリットは気にしない。
なにしろマルグリットの二つ名は、【鮮血の狂女】だ。
狂気は日常に過ぎない。
「クソ女の臭いがしますわ」
通用門へと向かう行列に並び、鼻をヒクヒクとさせる。
マルグリットがクソ女と呼んでいるのは、もちろんクリスタのことである。
「どうやら、かなり近づいた様子。そうなると、まずはクソ女に会うまえに身なりを整えたいところですね」
マルグリットもまた、クリスタと変わらぬ美しいエルフだった。
緩くウェーブのかかった見事な金髪はクリスタの黒髪と好対照をなし、マルグリットに陽気な雰囲気を与えている。
「ふむふむ…。ルイーゼ・クラインバーガー。二十四才と…。マルティン商会の使用人か…。ここには、商用とあるが…?」
通用門の受付けで、衛兵がマルグリットに訊ねた。
「はい。宝飾品の運搬です」
「アナタのような若い女性が、お一人で…」
見惚れるような美女なので、衛兵の態度も露骨なほど丁寧になる。
「わたくし冒険者ですの…。こう見えても、腕は確かです。何でしたら、ギルドカードをご覧になりますか?」
「では、拝見させてください」
偽造旅券と隠蔽魔法で、帝都ウルリッヒの城門をあっさりと通過。
そしてタンブレア大通りを進むこと暫し、マルグリットは運命の出会いを果たした。
「うっ。耳から毛が生えたエルフ…!?」
「ウゲッ。キショイ腕が生えたオンナ…!?」
目が合った途端。
互いに、互いの隠蔽魔法を一発で看破。
「何者ですか、このおチビ!?」
「おばさん。どっかで呪われたんとちゃうか…?瘴気が臭うどぉー。くっしゃいわぁー!」
「臭いですって…。ブタ耳を生やしたおチビが、失礼千万ですわ!」
「ぶっ、ブタ耳ですとぉー。アータ、言うてはならんことを…」
メルが両手で抱えていた食材の袋を地べたに落とした。
丸い果物が、コロコロと路面を転がった。
「ブスブス、ブゥース、ブタ娘!」
【鮮血の狂女】は、アジリティーも高かった。
先手とばかりに、ブスを連呼する。
「グヌヌヌヌッ…。わらし、ブスでないよ。カワイイです」
「もう泣きっ面。失礼ですけど、笑っちゃいますね。ブタの耳、よわぁー」
「くのぉー。汚物の臭いをまき散らす、エンガチョ女め…。わらしが浄化しちゃる!」
「ふんっ。ブタの癖して、随分と生意気デスネ。おチビとて、容赦はしませんよ。まじ泣かす」
「なんやねん…。めんちゃいするんわ、おどれの方じゃ!?」
睨み合う二人の間で、バチバチと火花が散った。
帝都ウルリッヒの大通りで、真昼の決闘が始まろうとしていた。
仕事場で入院する人がいて、人手不足に陥りました。
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