あの子の家に続く道
「これは…?!」
微風の乙女号からメジエール村の船着き場に降り立った前冒険者ギルド統括のグレゴール・シュタインベルクは、ミジエールの歓楽街を目にして言葉を失った。
以前、メジエール村を訪れてから、三十年ほどの歳月が過ぎ経っていた。
三十年もあれば村の趣も変わろうと言うものだが、この規模の歓楽街はあまりにも不自然だ。
「僻地に歓楽街…。こんな寂れた場所に、遊里を訪れる客が居るのか…?」
船着き場から街の入口へと道なりに歩けば、扉のない朱塗の門が出迎えてくれる。
精緻な飾り彫りが施された横木は二本の太い柱に支えられ、立派な扁額を掲げていた。
黒く艶のある見事な扁額に、『楽園』の金文字がキラキラと躍る。
実に美しい。
緑深い森を背景にして、街の中央に建つ朱塗の楼閣。
タルブ川から水を引いて張り巡らされた水路には、鮮やかな睡蓮の花が咲く。
楽しげで心が浮き立つような街だ。
門を見上げるグレゴールは、心地よい風を肌に感じた。
若葉の匂いが濃い。
「ふむ…。帝都とは違って、何とも言えない風情がある」
異国風の建物は、どれもこれも工夫が凝らされていて興味を引く。
通りは掃き清められ、道行く娘たちも朗らかだ。
(娘たちが着ているのは、キモノと呼ばれる東洋の衣装だろうか…?)
ミジエールの歓楽街に暮らす娘たちの多くは、セイレーンやサハギンなど水棲モンスターの類である。
質の悪い麻薬で身体を壊した不幸な娼婦たちと相互扶助の契約を取り結んだ邪精霊や、偽装の魔法を用いて人に化けた邪精霊もいる。
『楽園』は水郷の遊里に偽装されたユグドラシル王国の重要拠点であり、実験的に作られた妖精郷だった。
水蛇ザスキアの結界内であることも作用して、そうそう容易く妖の偽装が暴かれることはない。
もっともケット・シーたちが平然と土産物屋を経営している時点で、『楽園』の怪しさを隠す気さえないのだろうと思えた。
「ははは…。猫が、饅頭を売っている」
キジ猫が饅頭を売る屋台を見て、グレゴールは笑みを浮かべた。
そうだ、すっかり忘れていた。
メジエール村とは、妖精が住まう不思議な場所だった。
調停者クリスタは精霊樹を再生させるために、聖別された特別な村を必要としていた。
「けっきょく…。精霊樹は、生えたのだろうか…?」
疲れが滲んだグレゴールの表情に、生気が戻ってきた。
「怪異が、何もかも悪いモノばかりとは限らん!」
大切なことを忘れていた自分に呆れ、グレゴールは頭を振った。
調停者クリスタと知己であるグレゴールにしてみれば、メジエール村に多少の怪異があっても許容範囲のうちだ。
若いころにはアーロンと連れ立って、帝都ウルリッヒの地下を見学したこともあった。
単なる下水道ではなく、『忌み地』と呼ばれる封鎖領域の話だ。
今でも時々、暗闇に囚われた無数の怨霊たちを思いだす。
悪夢にうなされて、夜中に飛び起きることもある。
輪廻転生のシステムから落ちこぼれてしまった、惨めな亡者たち。
あの怨嗟に満ちた、恐ろしげな目つき。
それに比べたら妖精猫など無害で、可愛らしい妖怪だ。
二本足でひょこひょこと歩き、陽気に喋るネコ…?
大歓迎である。
調停者クリスタに招かれて、帝都ウルリッヒから旅をしてきた。
船旅の間、グレゴールの脳裏を離れなかったのは、調停者クリスタの手紙を届けてくれた子供の顔だ。
(ヤケクソになって不摂生な生活をして来たから、いざという場面で動けなかった!)
あの日あの時、愚かな冒険者どもを止められなかった悔しさは、グレゴールを酷く打ちのめした。
鈍器で頭を殴られた子供の遺体は近くの路地裏で発見され、警邏隊により収容されたと言う。
情けないことに、犯行現場へ駆け付けたときには全てが終わっていた。
クリスタが頑是ない子供を手紙の配達人に選んだのは、何故なのか。
グレゴールには想像もつかなかった。
だけど冒険者ギルド統括として、凶行を見過ごしにした責任からは逃れられない。
「はぁー。なんと調停者さまに報告したものか…?」
あまりの情けなさに、死にたくなる。
あれから酒を断ち、頭がハッキリとしてくるにつれて、後悔の念は深まるばかりだった。
「もし…。貴方さまは、グレゴール・シュタインベルクさまではございませんか…?」
色鮮やかな衣装を纏った妖艶な美女が、グレゴールに声をかけてきた。
契約により水蛇ザスキアの尸童となった、斎王ドルレアックである。
その身に蛟の女王を宿した男の娘は、以前にも増して中性的な魅力を漂わせていた。
癖のない艶やかな黒髪に、東洋風の宮廷衣装がよく映える。
紅で染めた唇が、ポッテリと色っぽい。
「……はっ?」
ついつい斎王ドルレアックに見とれてしまったグレゴールは、ばつが悪そうに短く刈った頭を掻いた。
帝都ウルリッヒでも見たことがないような、美しいエルフの娘に声をかけられたのだ。
未だ枯れていない中年男が動揺するのは、仕方のないコトである。
「ああっ、はい。俺はグレゴール・シュタインベルクです」
「調停者クリスタさまの命で、貴方さまをお迎えに上がりました。私は『楽園』を統べる楼主で、皆からは斎王と呼ばれております。以後、どうぞお見知りおきを…」
「さいおう…?斎王さま…。それでは、もしかして…。貴女さまは、ユグドラシル聖樹教会の斎王さまでしょうか?」
「その斎王です」
「ええーっ?!」
グレゴールが身体を仰け反らせ、目を丸くした。
アスケロフ山脈の東部に聳えるグラナックの霊峰で、精霊たちに祈りを捧げているはずの斎王と、メジエール村で出会った。
しかも調停者クリスタの指示で、自分を案内するために待っていたらしい。
これはグレゴールにとって、ドラゴンの目撃報告より信じがたいことだった。
「そんなに驚かれなくても…」
「いや、大変失礼いたしました。申し訳ありません」
斎王ドルレアックは手にした扇で口元を隠し、クスクスと笑った。
「グレゴールさまは、おかしな方ですね」
「はっ。不調法で申し訳ございません」
斎王ドルレアックが自ら名乗るのは、斎王の座について以来なかったことである。
もちろんクリスタのオツカイに関しては、敢えて語るまでもない。
「あら。謝るようなことではございませんわ。戯言です」
「はぁ…」
「グレゴールさまは長旅でお疲れのご様子ですから、先ずは宿にておくつろぎくださいませ。さあ、お手を…。ご案内いたしましょう」
「……っ。手を。手を繋ぐのですか?俺が、斎王さまと?!」
「はい」
斎王ドルレアックは、グレゴールの手をそっと引き寄せた。
細い指を絡ませ、グレゴールが慌てる様子をじっくりと楽しむ。
常に斎王らしくあろうと肩ひじを張って生きてきたドルレアックは、幼児ーズの後ろをついて歩くうちに、己の愚かしさを思い知らされた。
日々を心から楽しまなければ、ダラダラと生き続けても意味などなかった。
長生きを自慢するエルフには、決まって不愉快な連中が多かった。
無意味に長生きすれば心を退屈に蝕まれてしまい、小言が多い不機嫌な老人となる。
妖精女王陛下という重責を担ったメルが、素っ裸になって淵へ飛び込む。
幼児ーズともつれ合い、水しぶきを上げて笑う。
愛らしい動物の着ぐるみを身に纏い、樹から樹へと飛びまわる。
一時たりとも、おとなしくしているコトがない。
人助けを厭わず、他人の喜びを自分のモノみたいに喜ぶ。
得意の料理をしながら、『おもてなしの心』とか真摯な口調で捲し立てる。
本気で笑い、本気で怒り、本気で泣く。
いつ見ても、メルは一生懸命で楽しそうだった。
そして、活力と魅力に満ち溢れていた。
斎王ドルレアックに、メルや幼児ーズと同じことはできない。
だけど、一生懸命に人生を楽しむことならできそうだ。
取り敢えずエルフ族を豊かな森に移住させた斎王ドルレアックは、肩の荷を下ろした。
そこで改めて、聖地グラナックで過ごした歳月を振り返り、『何と不似合いなコトをして来たのか…』と呆れ果てた。
反省すべきである。
これからは見栄を張らず、自分らしく生きよう。
だったら貫いてみようか、男の娘。
斎王ドルレアックの倒錯趣味は、ガチだった。
「ふふっ。これでグレゴールさまは、私の想い人ですわ」
「おっ、想い人…」
「あらっ、ここは遊里ですから…。殿方が一人でいては、忽ちカワイイ娘たちに狩られてしまいますよ」
「狩られるって…?!」
「ここの娘たちは、殿方を骨までしゃぶりつくすケダモノですから…。油断はなりません」
斎王ドルレアックは、ついっとグレゴールから距離を取り、上目遣いで忠告した。
軽く握った手は放さない。
実に可愛らしい。
斎王ドルレアックと水蛇ザスキアは、これ以上ないほどのマッチングで完成されたペアと言えよう。
双方ともに美を尊び、他人を魅了したがり、己を飾り立てるコトが大好きだ。
他人から賛美されるコトが、三度のゴハンより大切なのだ。
だが男を捨てきれない斎王ドルレアックと強大な力を持つ水蛇ザスキアに、可愛らしさを演じるコトなど出来なかった。
どうしても照れがあり、強い抵抗を感じてしまうからだ。
これまでは、やることなすこと中途半端だった。
それも相手づけにすれば問題ない。
斎王ドルレアックが、そうしたがっている。
水蛇ザスキアが、それを望んでいる。
そのように考えたら、恥じらいなど容易に乗り越えることが可能になった。
更に付け加えるならば、斎王ドルレアックと水蛇ザスキアの趣味は同じだった。
『男と言えば、哀愁を漂わせたオヤジに限ります!』
ここまでカードが揃えば、もう躊躇いなどない。
グイグイと攻めるのみ。
男の娘、本領発揮である。
◇◇◇◇
メジエール村に招聘されたドワーフたちが最初にした仕事は、タルブ川の畔に魔鉱石の製錬所を建設することだった。
つぎに族長のドゥーゲルが命じたのは、主要な道路の敷設工事である。
鉱山でトロッコを使用していたドワーフ族にとって、メジエール村の道は貧弱過ぎた。
穀物は脆弱な泥道でも運べるが、重量のある鉱物資源となると車輪が埋まる。
頑丈に作った荷車でも、道が平坦でないと簡単に壊れてしまう。
「車輪があってもヨォー。道がグズグズじゃ、お話にならねぇ!」
「うむ。わらしも、そぉー思ってました」
「だったら、メル坊が何とかしろよ」
「幼児に、ムチャ言うなや!」
「仕方ネェー。土木は専門じゃねぇけど、おらたちが引き受けよう。なぁーに、鉱山で培った知識と経験があれば、どうって事ねぇ!」
道路の敷設は、とても大変な事業だ。
だけど幸いなことに、メジエール村には労働力が余っていた。
タルブ川を遡上し、定期的に運ばれてくる大勢の避難民たち。
ウスベルク帝国の内戦で住んでいた土地を追われ、寄る辺なき遊民と化した人々が、ドワーフ族の下に組み込まれた。
ここにユグドラシル王国工兵隊の前身が、誕生した。
ドワーフ族の卓越した技術力と遊民たちの勤勉さに、妖精パワーが加わった。
橋梁などの難所では、メルに召喚された土建屋の精霊が手を貸した。
メジエール村の道が、驚くほどの速さで舗装されていった。
主要な道が完成するころになって、ユグドラシルの異界研究所は新しい魔動機関をリリースした。
樹生の兄、和樹から送られてきた動画を基にして、内燃機関やモーターに代わる魔道具を開発したのだ。
お子さま用三輪バギーが、花丸ショップのウインドーに並んだ。
ゴムっぽい何かで作られた黒くて太いタイヤも、ちゃんと装備している。
メルの前世記憶が疼いた。
「うおぉーっ!カッケェー!!」
これはもう、買うしかなかった。
ドーンと花丸ポイントを突っ込む。
ゴーグル付きのコルクヘルメットも、躊躇なく購入する。
新しいもの好きな妖精たちが、何事かとメルの周りに集まった。
キーを差し込んで、セルモーターを回す。
キャルルルルゥーッ!
「エンジンスタート!」
音がしない。
排気ガスもでない。
エンジンの振りをしているが、それは魔動機関だった。
振動だけがブルブルと、ハンドルに伝わってくる。
「むっ。コレジャナイ感が、甚だしいデス」
ふとアクセルの横を見れば、エンジン音の表示がされた赤いスイッチ。
「おぉっ?!」
スイッチを入れたら、ドッドッドッ…!と腹に響く重低音が。
「何コレ。なんぞ、バカにされとぉー気がすゆ…」
アクセルを開くと音が大きくなるけれど、絶対にエンジン音ではなかった。
「こっ、子ろものオモチャについとるヤツみたいやん」
嬉しいのだが、素直に喜んでよいものやら。
(いや…。せっかく妖精さんたちが造ってくれたんだ。ここは馬鹿になって、思いっきり楽しむべきだろう!)
ドッドッドッ、ドルルルルゥーン!!
「なに?何の音なの、メル?!」
アビーの叫び声が、酔いどれ亭から聞こえてきた。
異変が起きたらメルのせい。
メジエール村の中央広場では、常識だった。
「やば…。こんなものを買ったとバレたら、まぁまに取り上げられるわ!」
メルが肩をすくめた。
樹生の母親である由紀恵とメルの母親であるアビーでは、まったく性格が異なる。
だけど両者に明白な違いがあっても、予想される結果は同じだった。
由紀恵は病弱な息子を心配して危ないコトを禁止したが、アビーは自分が乗ってみたくてメルから三輪バギーを取り上げるだろう。
「こらぁー、メル。それは、何なの?!」
「何でもないですヨォー」
メルは三輪バギーを走らせて、メジエール村の中央広場から逃げ出した。