ミッティア魔法王国の女王
ここに記すのは、既に公式記録が失われてしまった、先史時代についての話である。
メルや調停者クリスタが、おぼろげに覚えている遠い過去の出来事だ。
故に全てが真実であるとは、約束できない。
もっとも絶対の真実など、何処にも存在しない絵空事であろう。
かつてエルフ王国が栄えていた時代、聖地グラナックには世界樹が祀られていた。
エルフ王国で暮らすエルフ族と妖精たちは、たどたどしいながらも互いに意思を通わせ、手を取り合って明るい未来を築こうとしていた。
人族は人族で、キラキラと光る妖精たちの姿を視認できなくとも、自分たちを助けてくれる摩訶不思議な存在に気づき、感謝の祈りを欠かさなかった。
世界は平和そのもので、いつまでも喜びに満ちた日々が続くかに思えた。
最初に道を踏み外したのは、誰なのか…?
それはもう調べようもなく、今さら責任を問うたところで意味などなかった。
ある日を境にして…。
初源の精霊樹である世界樹に不調が生じ、同時に世界各地で他の精霊樹も枯れだした。
異変の原因を探るべくエルフたちは尽力したが、何も分からなかった。
屡々メルが悪夢で見るように、世界樹は貪欲な蟲(ガジガジ虫)に象徴される、無礼で容赦ない貪食鬼たちの暴力に曝されていた。
世界樹に限らず、全ての精霊樹が内部から幹を喰い荒らされ、ズタズタに根を噛み千切られ、惨めに枯れていった。
エルフ族は魔法によって齎される万能感に酔いしれ、自分たちでも知らぬうちに一つの不具合を生みだしてしまった。
独善性が強く、完璧を求めるエルフ族ゆえの、不幸な出来事であった。
エルフ族が世に誕生させたのは、『絶対者』だった。
全ての存在を己に隷属させ、無慈悲に君臨する創造神との同化を夢見た結果と言えよう。
理念としてはともかく、現実に存在するならば世界を滅ぼしかねない不条理である。
一神教は異質な存在を許容しない。
エルフ族の驕りから生まれ落ちた『絶対者(蟲の女王)』は、己が統治する壮大な死者の都に全世界を併吞しようとしていた。
そこには悪意など欠片もなかった。
新たなる世界の創造は、善悪の彼岸にあった。
永遠に変わることのない光に満ちた美麗な国家を建造すべく、『絶対者』の侵略と破壊活動が始まった。
『絶対者』は全ての精霊樹を取り込むことで、現象界と概念界に通じる扉を得ようとした。
民の個性を許さず、『絶対者』に恭順することだけを生きる意味とし、何もかもを均質化させる。
『絶対者』の強力な統治により、平和で争いのない完璧な静寂の世界を造りだす。
行きつく先は、変化のないトキが停止した世界である。
蟲の女王に隷属する奴霊たちは、均質で単一の世界を構築すべく働き始めた。
その第一歩が、現象界と概念界の通路を確保する事だった。
だけど現象界で生きるエルフたちは、精霊樹を蝕む巨悪(害虫)の正体に気づかなかった。
モノを言わぬ精霊樹たちは侵略に抗えず、静かに取り込まれるしかなかった。
現象界から精霊樹は消え失せ、聖地グラナックに祀られていた世界樹も朽ちた。
概念界と現象界を繋いでいた異界ゲートは狭まり、エルフ族や人族を助ける妖精たちの力も衰えていった。
精霊樹を失った世界に生きるエルフ族と人族は、巨大な魔法の力を失って窮乏した。
このような窮地に追いやられたエルフ族や人族の心は、解決策を見いだせずに荒んでいった。
弱体化した妖精たちを支配し、魔法を独占しようと目論む心無い者たちによって、暗黒時代の幕が切って落とされた。
蟲の女王が望んだ混沌と殺戮を世界に呼び込んだのは、魂を蟲に侵された犠牲者たちである。
そして不運にも、当時エルフ王国の女王であったクリスタの娘サンドリーヌ姫こそが、『絶対者』を身の内に宿す依代だった。
クリスタが『調停者』を名乗り、エルフ王国を滅ぼすに至ったのは、サンドリーヌ姫の野望を打ち砕かんがためであった。
母と娘の血に塗れた悲惨な殺し合いも、戦乱を求める『絶対者』の計略に含まれていたのだろう。
エゴと疑心暗鬼が、世界を地獄に変えた。
このような時代背景の中で、聖地グラナックから朽ちた世界樹を盗みだした一団がいた。
ミッティア魔法王国を建国した女エルフと、その支持者たちであった。
前斎王であるグウェンドリーヌは、人族との棲み分けを望むユグドラシル聖樹教会の主流派から外れていた。
優秀なエルフが人族の社会を管理支配しなければ、正しい世界秩序など望むべくもないと信じるグウェンドリーヌ一派であった。
暗黒時代の戦乱に乗じて、グウェンドリーヌの国造りは堅実に進められた。
グウェンドリーヌもまた、蟲の女王に魂を毒されたエルフだった。
そして時は巡り、現代に至る。
「誰かある!」
ミッティア魔法王国の女王グウェンドリーヌは、苛々とした様子で声を上げた。
「グウェンドリーヌ女王陛下…。サラデウスめが、ここに…」
控えの部屋から、七人委員会の長老サラデウスが姿を現した。
ミッティア魔法王国の魔法研究所に隣接する『叡智の塔』は、女王グウェンドリーヌの居城である。
『女王の間』と魔法研究所にあるサラデウスの執務室は、転移門によって繋がれていた。
転移門とは異界ゲートと原理が異なる、短距離用の移動魔法だった。
「サラデウスよ、ヨーゼフ・ヘイム大尉の消息はつかめましたか?」
女王グウェンドリーヌが、サラデウスに問いかけた。
女王グウェンドリーヌも、斎王ドルレアックと同じように世界樹の実を授かっていた。
故に齢千年を超すエルフの長老でありながら、今もなおエルフ女性の瑞々しい美しさを誇る。
世界樹の実によって、女王グウェンドリーヌとサラデウスの間に、劇的な肉体年齢の逆転が生じていた。
「マルティン商会の会長、エドヴィン・マルティンを問い質しましたところ、ヨーゼフ・ヘイム大尉は部下を連れて『恵みの森』に向かい、消息を絶ったそうです」
「その話は、以前に報告書で読みました。探索をさせている最中だとか…。いつまで待たせるつもりですか…?わたしは、新しい情報を求めているのです。『調停者クリスタ』の生存は、確認されましたか…?」
「いえっ…。それに関する情報は、ヨーゼフ・ヘイム大尉が残したメモのみでございます。魔法軍諜報部からは、何も報告が上がっておりません」
サラデウスは、申し訳なさそうに項垂れた。
「地下迷宮に大きな変化があったと報告された件について、続報はないのですか…?エーベルヴァイン城に、精霊樹かも知れぬ怪しい樹が生えたとの報告は、どうなりましたか…?」
「その情報は訂正されました。間違いであったと…」
「間違い…?」
女王グウェンドリーヌが、吐き捨てるように言った。
「ふんっ。可笑しいとは思いませんか!」
「はっ?」
「ウスベルク帝国が、内乱で待ちに入っています。そんな余裕など、少しも無いはずなのに…。わたしの計算によれば、屍呪之王を封じた魔法結界は、とうに限界を迎えています。このタイミングでモルゲンシュテルン侯爵家が、独立宣言をしたのですよ…。ウスベルク帝国にとって、これは命取りになるでしょう」
「まさに…。グウェンドリーヌ女王陛下の仰る通りでございます!」
「であらば、何故…。ウィルヘルム皇帝は、我らに命乞いをしない…?無様に足掻くなら、それもまた良しとしよう。だが、待ちに入るのは解せません。尻に火が付いた人間は、何であろうと暴れるものです。じっとして待つなど、考えられません」
女王グウェンドリーヌは頭痛を堪えるようにして、指先を眉間に当てた。
辛そうに目を閉じ、世界樹から切りだした女王の座に、ゆっくりと背中を預ける。
「我らには隠された、何かがあるのです…」
慧眼の能力者は、予言に近い異能を示すことがあるけれど、その反動もまた大きい。
女王グウェンドリーヌの片頭痛は、慧眼の能力を酷使したことで齎される。
「魔法軍の諜報部を当てにするのは、止めましょう。『知らせが無いのは良い知らせ!』とか、巷では言うようですが…。我らにとっては、真逆です。これほど待っても七人委員会に情報が上がらないのは、異常事態と申せましょう…。わたしは何者かの、意図的な介入を感じます」
「プロホノフ卿や特殊部隊の隊員たちが、虚偽の報告をしていると仰られるのですか…?」
「彼らに限ったことではありません。エドヴィン・マルティンを含め、誰も信じられないと思いなさい。『調停者クリスタ』が生存しているとなれば、屍呪之王を管理下に置く計画も破棄すべきでしょう」
「さっそく、彼らを取り調べましょう!」
サラデウスが、強い口調で進言した。
「おやめなさい。調べたところで、何も分かりはしないでしょう。むしろ、見えない敵に情報を与えるだけです」
「それでは、泳がせて尾行を付けます」
「無駄だと思いますけれど…。クリスタが背後に居るのなら、ミッティア魔法王国の諜報部員に調べられたくらいで、尻尾を攫ませるとは思えません」
女王グウェンドリーヌの表情は昏い。
「グウェンドリーヌ女王陛下ともあろうお方が、弱気ですな…。我ら七人委員会では…。もし仮にクリスタさまを発見した折には、言葉を尽くして我が陣営に迎え入れたいと考えております。『調停者クリスタ』と言えども、七人委員会が本気で掛かれば必ずや捕縛できましょう」
サラデウスが自信ありげに胸を張った。
「フッ…。サラデウスは『調停者クリスタ』を知らぬ、若い世代ですね。説得ですか…?あの頑固で、凶暴なオンナを…」
女王グウェンドリーヌは、不愉快そうに顔を顰めた。