囚われの妖精さん
翌日の朝。
恵みの森の魔女がエミリオの家を訪った。
「おはよう、メル」
「はじめまちて、ババさん」
メルは黒いローブ姿の老婆を前にして、『おぉー、ファンタジー!』と感動した。
絵に描いたような魔法使いのお婆さんだった。
それも、よい人っぽい。
「どうも、身体の調子が良くてね。ロルフに迎えを頼むつもりじゃったが、あたしも一緒に来ちまったよ」
森の魔女が、黒い犬の頭を撫でながら言った。
その手はシワが多く、指も痩せ細っていたけれど、爪は短く切り揃えられていた。
頭に載せた帽子や身体に纏ったローブも、メルのワンピースと比較したら、ずっと清潔そうだった。
殊更に醜悪さを誇張された物語の魔女と違って、森の魔女は不思議を扱う女賢者のような外見を持っていた。
折れ曲がった大きな鼻をしていないし、鼻の上に醜いイボも無かった。
身だしなみに乱れはなく、老化ゆえのだらしなさも感じさせない。
メルはひと目で森の魔女が気に入った。
何ならフレンド登録をお願いしたいところだ。
「エミリオや。手数をかけたね…。アビー、ちょっとの間メルを借りるよ」
「はい。魔女さま…。言うことを聞かないときは、頬っぺたを抓ってやってください。ウチでは、いつもそうしてるんで…」
「むーっ。わらし、いい子でしょー?」
メルがアビーを睨んだ。
「よしよし…。あたしゃ、叱ったりしないよ。オマエさまに、頼みごとをしたいだけじゃ」
「わらし、いい子にすゆ!」
「分かっておるとも」
森の魔女が、さも愉快そうに笑った。
優し気なブルーの眼差しには、澄みきった知性の光が宿っていた。
「ババさん、きれー」
「嬉しいねェー、ありがとよ。精霊の子に褒められちゃ、飴でもやらにゃいかんかな」
「あめー、いらん。わらし、ゲソしゃぶぅー!」
メルはスルメの足を咥えていた。
「ババさんに、あげうー」
「んっ?アタシにくれるのかい?ありがとな…」
森の魔女はメルに手渡されたスルメの足を訝しげに眺め、クンクンと匂いを嗅いで顔をしかめ、あきらめた様子で口に咥えた。
「おっ。しょっぱいのか。ふむふむ。なんだい、美味しいじゃないか…!あたしゃ、てっきり魔物の触手かと思ったよ」
「まもの、ちゃう。すうめヨ…!かまんれ、しゃぶうー」
メルが得意そうに胸を張った。
自慢のオヤツだ。
「それじゃ、ロルフに乗せてやろう。こっちへおいで」
「あぃ」
メルは魔女に抱き上げられて、ロルフの背に乗った。
ロルフに跨ったので、メルのお尻が丸見えになった。
ワンピースがペロンと捲くれ上がったのだ。
勿論、ブタに跨るときも捲くれている。
「あらあら…」
「メルちゃん、お尻ぃ…」
可愛らしいカボチャパンツを指さして、アビーとローザがケラケラ笑った。
「「……っ!」」
エミリオとティッキーは見ない振りをして、そっぽを向いた。
豚飼いの二人は、女児の下着に恥じ入る本物の紳士であった。
因みにローザは、エミリオより七歳ほど若い。
しかも、エミリオとローザは幼馴染だ。
ティッキーは十歳でメルが四歳。
いや…。
どうでも良い話である。
「さあ、婆の家に行こうか」
「おーっ!」
こうしてメルと森の魔女は、スルメの足をしゃぶりながら恵みの森へと入っていった。
森の魔女は恵みの森に棲んでいた。
とは言っても、只人であればたどり着けない場所だ。
そこは妖精たちがわんさかと暮らす、この世と霊界の狭間であった。
「最後の結界を抜けたよ。もう此処は、あたしの庭みたいなもんだね」
「ちかぁー」
「そうさな…。遠いと歩くのが、しんどいからのぉ」
四半刻も歩かず、メルと森の魔女は隠された庵に到着した。
只人がたどり着けないからと言って、とても遠い訳ではなかった。
「そらっ。あの樹が、あたしの棲み処だよ」
「……木?」
それは大きな樹だった。
木造の家ではなく、樹が家屋になっていた。
窓や玄関のドアも存在するが、住居はまるっと幹の中。
だけど緑の葉が生い茂る樹は、生命力に満ちていた。
こんな家はファンタジーゲームの中でしか、目にした覚えがない。
「ずっごぉー。おウチが、木だぁー」
メルはあんぐりと口を開けて、魔女の庵を見上げた。
「ほぉ…。驚いたのかい。この歳になって、精霊の子を驚かせちまったよ。こりゃ、愉快さね…」
「うん…。おったまげたぁー」
「あはは…。メルさまや。わが家へ、ようこそおいで下さった」
「わらし、えらくないで…。『さま』いうん、はずかちぃ」
ロルフの背からズリ降りたメルが、プルプルと恥じらって俯いた。
「こりゃまた、キュートじゃな。ティッキーもライバルを蹴落とすのに、苦労しそうじゃ」
森の魔女が、茶化すような顔つきで独り言ちた。
玄関のドアを押し開けて大樹の幹に入ると、居心地の良さそうな空間が広がっていた。
部屋の中央には囲炉裏があり、魔女の大鍋がクツクツと煮立っていた。
湯気や煙は真上に昇り、天井の穴から抜けていく。
天井の穴…?
「あなー!」
「雨は漏らんぞ。あたしは魔女だからね。雨漏りを防ぐ魔法が、使えるのさ」
腰に片手を当てた森の魔女が、得意そうに魔法の杖を構えて見せた。
「だけどね…。あたしにも、出来ないことがあるんだよ」
「おぅ…」
「そこで、オマエさまに力を借して頂きたい。その霊力で、是非とも可哀想な妖精たちを助けて欲しいのじゃ」
「わらし、やるぅー!」
メルは小さなコブシで、トンと胸を叩いた。
妖精さんは、メルの友だちだった。
友だちが困っているとなれば、助けねばなるまい。
メルはどんよりと不機嫌そうな気配を放つ、たくさんの武具を前にしていた。
森の魔女が剣を鞘から引き抜くなり、根元の模様を指さした。
「この魔紋がな、妖精たちを武器に封じておる」
「ふぇー!」
「ずっと、ずぅーと長い間、妖精たちは封じられたまんまじゃ」
「かっ、かわいそう…」
メルは涙目になって、武具の山を見回した。
「高位エルフの血を魔紋に使用した、強制的でインチキな契約じゃ。して、この魔紋に使用されたエルフの血より、精霊さまの霊力が濃い血を用いなければ、契約を無効に出来ぬのじゃ」
「ちぃ…?」
「そう…。血じゃ。ハイエルフである精霊の子なれば、何処ぞの高位エルフなんぞより遥かに強い霊力を持つ。純血のエルフどもより、メルの血は遥かに濃い。精霊さまの霊力をしっかりと引き継いでおる」
「ちぃー?」
「そうじゃ…。針で指先を突き、オマエさまの霊力に満ちた血を用いて、そこな忌まわしき魔紋を消し去ってくれんか?」
森の魔女が、キラリと光る針をメルに手渡した。
「はり…!」
メルは怖気づいて、じっと森の魔女を見つめた。
森の魔女は、真剣な目つきでメルを見つめ返していた。
「わらし、ちぃーキライかな?」
「精霊の子ヨ。咎なく苦しめられている妖精たちを…。どうか、お救いくだされ!」
森の魔女が、剣に印された魔紋をメルにグイッと近づけた。
「うっ…」
「この通り、お頼み申します!」
森の魔女は両手を組み合わせ、メルを拝んでいた。
どうやら妖精たちを全て解放するまで、帰らせて貰えそうになかった。
「うん…」
メルの顔から表情が抜け落ちた。