舌が足らない
メルが手習い所に通い始めて、三日ほど経過した。
その日も、手習い所の教室では、ブラバン先生がメルに特別授業をしていた。
教室に居る生徒たちは、各人が与えられた課題に取り組んでいたけれど、それは上っ面のコトでしかなかった。
「ダメだ。そろそろ我慢の限界だ」
「くっ…。あれでも当人は一生懸命なんだから、笑うなよ」
「そんなこと言うけど、オマエだって笑いそうじゃないか…。あいつ。やばいって…。おもしろすぎ」
そう…。
ここ数日の間に、メルは手習い所で人気者の地位を獲得していた。
メルにすれば望みもしない不名誉な人気であったが、こうした評判は当人と関係なく盛り上がるものだ。
「あきらめてはなりませんよ。メルさん…!」
「うん。分かっとぉーヨ」
「何事であれ、『岩にかじりついても為そう!』と言う、心構えが大事なのです」
「あい…」
メルを教え導こうとするブラバン先生の態度は、やる気に満ちていた。
ブラバン先生は根っからの熱血教師なので、気合いと根性を何よりも大切にした。
その結果として負けず嫌いな幼児が、虚ろな瞳になるまで教科書の音読を繰り返させた。
迷惑をこうむったのは、真面目に授業を受ける他の生徒たちだった。
メルの音読が余りにも面白すぎて、自分の課題に集中できない。
メルを裏庭へ連れだしたイジワルな女子たちでさえ、たどたどしい音読に心を奪われて吹きだしてしまうのだ。
それは悪意を伴う嘲笑と違って、稚さや拙さに向けられる生温かい笑いだった。
女子生徒たちの半数は、もうメルに敵意を感じなくなっていた。
しかし、メルにすれば馬鹿にされている点で何も違いはなく、笑われるのは腹立たしい事であった。
だから教室に居る生徒たちは、メルを傷つけないようにジッと我慢していた。
笑いを堪えて…。
「さあ、メルさん。先生の口元をちゃんと見て下さい。そして、先生と同じように発音しましょうね」
「あい…」
ブラバン先生の授業は教科書の音読から始まり、メルが抱えている問題点をひとつひとつ丁寧に確認しながら、とうとう発音練習にまで行きついてしまった。
「るーっ。『るーっ』ですよ。はい。メルさん。先生に続いて発音しましょう。るーっ」
「ゆぅー」
メルは緊張の面持ちで、間違った音を発した。
ブラバン先生を真似ようとして、突きだされた唇がカワイイ。
キョドった目つきが怯えている小動物のようで、生徒たちは目を離せなくなる。
「メルさん。『ゆ』ではなくて、『る』です。いいですかぁー。舌で前歯をはじくような感じで…。るーっ」
「ゆぅー」
「違いますね」
「ゆーっ。ゆぅーっ。うむっ。ちぃーと、違っとぉーかの?」
メルが上目遣いで、ブラバン先生の反応を窺った。
ブラバン先生は絶望的な面持ちで、首を横に振った。
「るーっ」
「そそっ、それやん。正しくは、ゆぅーデス」
「いいえっ、全然違います!」
ここで耐え切れなくなった数人の生徒が、プッと吹きだした。
しかし大きな声を出すわけにも行かないので、無音のまま腹を抱えて机に突っ伏した。
「ヤメロ…。おまえ、笑うな(小声)」
「ムリ。無理だって(小声)」
「フザケナイデ…。あたしまで笑っちゃうでしょ!(小声)」
しんと静まり返った教室に、笑いの発作が伝染していく。
笑ってはいけないコトほど笑いたくなるのは、人の生理的な反応なので仕方がなかった。
〈笑うな…!〉
メルの顏が恥ずかしさで赤く染まる。
朝からずっと、メルはブラバン先生に指導されて、『る』の練習をしていた。
それなのに、ちっとも発音が改善される様子はなかった。
誰もがメルに『分からせたい!』と思い、長時間に渡って苛々ジレジレしていた。
だがしかし、この小さな生徒は絶対に『る』と発音しない。
「るっ。『る』ですよメルさん。落ち着いて、発音してみましょう」
「うん…。うーっ」
「…………!」
「あっ。いま、ちょっと言えてへんかった?」
「メルさん。アナタは、先生をバカにしていませんか…?」
ブラバン先生が、とうとう口にしてはいけない事を口にした。
悪意からではなく、ついうっかり口を滑らせたのだ。
「……はぁ。なんですとぉー?」
メルはブラバン先生の台詞に、カチンとなった。
メルだって、相当に苛々していたのだ。
『る』の練習は、少しも楽しくない。
「いや。申し訳ありません。先生の失言でした」
「うきぃーっ!わらし、まじめにしとぉーモン。センセ、ムカつくわ!」
癇癪を起したメルが、勉強机の天板にヘッドバットを喰らわせた。
ガツーン!と、もの凄い音が教室に響いた。
驚いた生徒たちが身じろぎして、ガタガタと勉強机や椅子が鳴った。
「うはっ!めっ、メルさん。あたま、大丈夫ですか…?」
「知らんわ、ボケェー!」
「絶対、コブになってますよ。急いで、治療しなければ…」
「ええい。わらしに触ゆな!」
手当てをしようとしたブラバン先生は、メルに振り払われた。
タリサやティナが指摘したように、切れたときのメルは殆どサルだった。
行儀や常識なんて期待すべくもない。
「うがぁーっ!」
メルは椅子の上に登って、野獣のように吠えた。
「ゆぅー言えんが、なんで悪いとや!」
手習い所の教室が、騒然とした雰囲気に包まれた。
「ひぃっ!」
「ウヒャァー!」
「やべっ。やばいってよ。だれか、押さえつけろ」
吠えるメルを幼児ーズが取り押さえた。
妖精パワーで強化されていないメルなら、そこらの幼児よりとろい。
クヌギの樹にとまるカブト虫を捕まえるより、簡単な作業だった。
「はぁー。メルさん…。アナタは、どうしようもない子ですね。お昼休みまで、壁際に立って反省しなさい」
「えーっ!なんでやぁー?」
メルはオデコに湿布を貼られて、教室の後ろに立たされた。
『わたしは悪い子です!』と書かれた薄い板が、首から下げられていた。
叱られたのに、何故か胸を張って偉そうだった。
そんなメルの姿を盗み見てカワイイと思う生徒は、思いのほか多かった。
彼らは教室に迷い込んだ小動物に興奮する子供と変わらなかった。
もちろん、迷子の小動物とはメルのことである。
メルは大きな耳に和毛を生やした、ケモ耳幼児だった。
注目されても仕方ない。
お昼休みになると、手習い所の生徒たちは仲良しグループで集まり、好きな場所に移動してゴハンを食べる。
天気が良ければ、庭に設置された木のテーブルを利用できる。
お弁当がなければ、ちょっとした料理を食堂で購入することも可能だ。
食堂には魔法具の給湯器があって、誰でも温かな飲み物を貰うことが出来た。
メルと幼児ーズは木陰にピクニックシートを広げて、お弁当を並べた。
タリサ、ティナ、ダヴィ坊やは、ジャムを塗ったパンとデザートに果物がひとつ。
仕事で忙しいお母さんが、眠い目を擦りながら作ったお弁当である。
メルが背嚢から取りだした重箱に、みんなの視線が集まった。
三段重だ。
お重の蓋を開ければ、ギッシリ詰め込まれた豪華なオカズとオムスビが顔を覗かせる。
オムスビの他に、カツサンドやハムチーズサンドも用意してあった。
「スゲェー!」
「今日も、ご馳走だね」
「メルちゃんは、ずーっと手習い所に通うべきです」
「わらし、もぉー来とぉーないわ」
メルは疲れた顔でボヤいた。
「あたしは親がヤイヤイ煩いから、手習い所に通ってるけどさぁー。メルの料理が食べれなくなっちゃって、すっごい悔しかった」
「うんうん…。わたしも手習い所に通わないと、オコヅカイを減らすって脅されました。タリサと一緒にお勉強をするのは、楽しいけれどぉー。そうなると『酔いどれ亭』まで遊びに行く時間が、なくなっちゃうんです…。ダヴィが羨ましくて、毎晩寝るまえに『禿げろ!』って呪ってました」
「止めろよ、ティナ。オレを呪うなよ!」
「いや、別に…。おまぁーらが来んでも、ラビーおゆけぇー。ちぃーとも、寂しぃないわ。むしろ、邪魔デス」
強がりや軽口でトモダチを貶したって、何も問題はなかった。
攫み合って喧嘩して、悪口雑言をぶつけ合っても、仲直りのチューと熱いハグで元通り。
それが幼児ーズの仲良しだった。
メルがタリサに『サル』と言われて泣いたのは、弟のディートヘルムを意識したからだ。
自分がサルっぽくて弟に嫌われるのは、とても悲しかった。
メルの部屋にも鏡がある。
毎日、毎朝、ちらりと覗く鏡に映った自分の姿は、ちょっとばかりヤバかった。
〈耳がね…。猿って言われたら、猿に見えるかも知れないよね!〉
弟の件さえなければ、タリサにサル呼ばわりされたところで何とも思わなかった。
タリサたちだって、メルに何を言われようと気にしない。
現にメルの台詞なんて、ガン無視である。
「チューリップ揚げ、うまぁーっ!」
「あっ、タリサ。オレにも残しておけよ。なんで、両手にチューリップ持ってるのさ…?」
「カツサンドのお肉が、柔らかくて素晴らしいです。ソースとマスタードの塩梅が、よきかな」
「ティナ。とんかつは、オレのだぞ。先に喰うなよなぁー」
「知りません」
「あーっ。メッチャ減ってるし…!」
まったく、聞いていなかった。
◇◇◇◇
メルが手習い所へ通っているとき、ラヴィニア姫はせっせと精霊樹の苗を世話していた。
庭に植えた苗は、お日さまを浴びてニョキニョキと育つ。
「お庭の手入れをするのも、すごく楽しい。緑の葉っぱが、たぁーくさん…。ウレシイ♪」
樹木霊とのハーフとも言えるラヴィニア姫は、精霊樹の守り役である。
植物を育てるのは、お手の物だ。
それだけでなく…。
精霊樹の苗は、すっかりメジエール村に棲みついてしまった吉祥鼠に見守られていた。
吉祥鼠のチビは、株分けされた精霊樹が元気よく育つように運気を注いでいた。
クリスタやアーロンの協力を得て、メルと封印の巫女姫たちは開拓村の周囲に精霊樹を植えていた。
ユグドラシルの平和と繁栄を祈りながら、各地に精霊樹を根付かせていった。
開拓民への説明は、クリスタとアーロンの役割だった。
既に、十本近い精霊樹が大地に根付いていた。
タルブ川に沿った地域は、妖精たちの守護する領域となった。
いまラヴィニア姫が育てている苗は、ウスベルク帝国をカバーするように植えられる予定だ。
ユグドラシル王国の全面的な助勢がなければ、ウスベルク帝国はバスティアン・モルゲンシュテルン侯爵との闘いに敗れるだろう。
ましてやミッティア魔法王国になど、太刀打ちできる筈も無かった。
こうした情勢を踏まえての足場固めである。
目に見えぬところで、ユグドラシル王国はウスベルク帝国を併合しようとしていた。
「わんわんわんわん、わん!」
ハンテンは精霊樹の苗が植えられた畑の周囲を走り回った。
「煩いなぁー、ハンテン。そこでオシッコしたら、罰が当たりますよ。ゲンコツだからね」
「わぉーん!」
ハンテンも精霊樹が増えていく様子を見て、興奮を抑えられないようだった。
◇◇◇◇
密かに進められている妖精郷復活作戦を覚られないよう、アーロンに指示されたウィルヘルム皇帝陛下はモルゲンシュテルン侯爵領に無意味な攻撃を加えていた。
ウスベルク帝国の威信をかけた全面衝突ではなく、目的が不明瞭で陰湿な破壊工作の繰り返しだった。
とにかく手の下しようがない状況を装えと、ウスベルク帝国騎士団は言い含められていた。
局地戦、小競り合い、無意味な焼き討ち、物資搬送の妨害と、どれ一つとして戦局を変えるほどの作戦はなかった。
モルゲンシュテルン侯爵家の独立は認めずに、魔導甲冑との戦闘で大損害を受けた騎士団の立て直しに努める、極めて消極的な対応策だ。
一方のモルゲンシュテルン侯爵には、事態が拗れて行くさまを楽しむ悪趣味なところがあり、ミッティア魔法王国からの使者に軍事物資を運び込むよう、しつこいくらいに協力を要請した。
明白な外患誘致である。
勢いルデック湾は、軍港と化していった。
ウスベルク帝国の街道沿いに建てられた小規模な砦は、堅牢な要塞へと造りなおされた。
モルゲンシュテルン侯爵は、屍呪之王が解呪された事実を知らない。
であるからウスベルク帝国は封印の儀式に際して、モルゲンシュテルン侯爵家の魔法技術に頼るしかないと、未だに信じていた。
結界が限界まで弱まり、屍呪之王を新しい石室に封印するときが訪れたなら、ウィルヘルム皇帝陛下はモルゲンシュテルン侯爵の足元に跪かねばならないのだ。
「其のときは、皇室の面々をまず生贄にしてくれよう。ウィルヘルムが見ている前でな…!」
モルゲンシュテルン侯爵の獲物を弄るような余裕は、真実を知る機会が無かったところから生じていた。
このような情勢下にあって、マルティン商会の会長であるエドヴィン・マルティンは、ヨーゼフ・ヘイム大尉より入手した魔鉱石の鉱脈を調査すると共に、モルゲンシュテルン侯爵とミッティア魔法王国の繋ぎを取らねばならず、仕事に追いまくられて睡眠も満足に取れなかった。
もう無理ができる歳ではない。
魔法薬に頼ったところで、その場しのぎだ。
忙しさの限度を超えてしまえば、上手の手から水が漏る。
アーロンにとって、マルティン商会は目の上の瘤だった。
とくにエドヴィン・マルティンが指揮を執るようになってからは、邪魔で邪魔で仕方がない。
「天寿を全うされるまでは、そっとしておこうと思っていましたが…。そろそろ御老人には、舞台からの退場を願いましょうか…!」
アーロンはメルの姿を思い浮かべて、珍しく愉快そうに笑った。
(あのクソ爺こそ、メルさんに手ひどく折檻されるべきでしょう!)
犯罪者どもに活動資金をばら撒き、遊民たちを貧困のどん底に突き落とした、業突く張りのエドヴィン爺さん。
ミッティア魔法王国から派遣された工作員とはいえ、余りにも手口が悪辣すぎた。
ぶちのめして、泣きっ面にできるのなら、これほど胸がすく相手も無かろう。
(メルさんに睨まれたら、そりゃもう大変ですよ…)
アーロンの脳裏に描かれたメルは、小鬼の顔をしていた。
悪い子の顏だ。