見えざる一手
ウィルヘルム皇帝陛下はウスベルク帝国とミッティア魔法王国の間で交わされた『平和条約』に則り、帝都ウルリッヒの地下迷宮に侵入して捕縛された怪しげな工作員たちを一人残らず本国へと送還することに決めた。
それと同時にクリストファー・リーデル子爵を領地から呼びつけて、ミッティア魔法王国に宛てた正式な抗議文書を託した。
ミッティア魔法王国がバスティアン・モルゲンシュテルン侯爵の謀反に加担するのは、『平和条約』に反すると言う内容の抗議文書だ。
『平和条約』を強調するために、エーベルヴァイン城の地下牢に収監されていたミッティア魔法王国の工作員たちを送り返すことにしたのだ。
モルゲンシュテルン侯爵が使用した魔導甲冑の件に関しては、既にフーベルト宰相がプロホノフ大使を召喚し、問い質していた。
その結果は、全くもって思わしくなかった。
プロホノフ大使は憎むべき密輸犯罪者や人身売買組織の存在を持ちだして、『これを撲滅するために、ミッティア魔法王国はウスベルク帝国に魔法軍を派遣する準備がある!』と言いだしたのだ。
両国間に於ける、協力体制の強化が必要であると…。
屍呪之王の封印に関して、魔法技術を提供したいと騒いでいたときと何も変わらない。
ミッティア魔法王国の魔法軍を駐留させて、ウスベルク帝国を属国へ落そうと言う意図が透けて見えた。
話にならなかった。
それでもウィルヘルム皇帝陛下としては、キッチリと抗議しておかなければいけない。
正式に条約違反を責めるなら、行方を眩ませてしまった前任者に代わる新しい大使を送りだす必要があった。
他国に送りだした大使の失踪なんて、別に珍しくもなかった。
事件として相手国を追及しても、無駄である。
実際に追及したのだが、『大使のプライベートまで、把握しかねる!』と、強硬な態度で突っぱねられた。
正直なところ、一皮むけば緊迫感溢れる敵対国なのだから、何が起ころうと仕方ない。
対処方法として考えられる手は、ミッティア魔法王国駐在大使に消されても構わないようなボンクラを据えるくらいであった。
(足が痒い…。くっそぉー。落ち着いて考えることができぬ!)
ウィルヘルム皇帝陛下には、のらりくらりと持久戦を仕掛ける余裕などなかった。
それなのに攻め手として有効なコマもなければ、実現可能と思える素晴らしい計画もなかった。
(『皇帝陛下なら、必ずや成し遂げるでしょう!』などと、アーロンの奴は気楽に申すが…。正直に言えば、どうしたら良いのか全く分からん!)
妖精女王陛下に与えられた時間は、たったの十年…。
何としても十年で、ミッティア魔法王国を従わせなければならない。
そして忌まわしい貴族病(水虫)は、ウスベルク帝国全土へと広がる気配を見せていた。
「リーデル子爵よ、其方にミッティア魔法王国駐在大使の任を与える。ミッティア魔法王国に赴き、我がウスベルク帝国の意思をしかと伝えよ!」
「ははっ!畏まりました」
リーデル子爵には、何も旨みのない拝命である。
ミッティア魔法王国はウィルヘルム皇帝陛下からの抗議文書など、歯牙にもかけないだろう。
ウスベルク帝国とミッティア魔法王国の国力には、それ程の格差があるとリーデル子爵は考えていた。
であるから、ウスベルク帝国大使なんて粗略に扱われるだろうし、公式の場でも道化のように嘲笑される覚悟が必要だった。
いや…。
下手をすれば抗議文書を理由に戦時体制へと突入し、そのまま監獄に囚われて戻れなくなる可能性さえあった。
(数年前から音信不通となった前任者は、いったい何処にいるのか…?)
誰かに訊ねたいけれど、その勇気がなかった。
頼みの綱は、ミッティア魔法王国に本社を置くデュクレール商会だけであった。
もっとも、リーデル子爵からの接触は固く禁じられていた。
(デュクレール商会は帝国の諜報機関であるから、やむを得ないのだが…)
それにしても、頼りない命綱だった。
◇◇◇◇
ウィルヘルム皇帝陛下からクリストファー・リーデル子爵が大使として任命されたころ、フレンセン隊長が率いる特殊部隊もまたミッティア魔法王国へ帰還するようにプロホノフ大使から命じられた。
本国への帰還命令は、ミッション失敗が正式に確定したことを意味する。
(思えば…。任務にしくじって逃げ帰るのは、初めての経験だな)
フレンセン隊長は力なく肩を落とし、敗北の苦さに顔を顰めた。
ミッティア魔法王国から派遣された特殊部隊は、フレンセン隊長と隊員たちの間に修復不可能な亀裂を生じさせていた。
メルに状況をひっくり返されて、地下迷宮での作戦に失敗した事実は途轍もなく重かった。
特殊部隊のメンバーである誇りや自信は、粉々に砕け散ってしまった。
あれ以来、特殊部隊の隊員たちは言葉も満足に交わせない、情緒不安定で目つきの悪い男たちへと変貌してしまった。
個々に塞ぎ込み、固く扉を閉ざした部屋の隅っこで蹲り、居もしない悪鬼の気配に怯えている。
もはや彼らが元の勇猛果敢さを取り戻す日は、やって来ないだろう。
幼児の笑い声で慌てふためくようでは、戦場での働きなど端から期待できない。
彼らは終わってしまった兵士だった。
敗残兵を代表するフレンセン隊長は、どっしりと安定した魔法船の甲板に立ち、ミッティア魔法王国がある方角へと視線を向けた。
「本国に戻れるのは嬉しいが…。俺を待っているのは、おそらく軍による問責だろう…。そして何を答えようが、取調官には信じてもらえまい!」
それは幼児拳に敗れた兵士を待つ、宿命であった。
「そう言う俺が、そもそも地下迷宮の調査を舐めてかかっていたのだから、どうしようもない。だが伝説級の邪霊とされる悪魔王子までは、いつものように闘えていたのだ。大したものじゃないか…。なあ、ヘイム副長。オマエだって、そう思うよな」
フレンセン隊長の問いに、答えはなかった。
「まさか…。あのような怪物が、存在するとは想像もしていなかった。ウスベルク帝国は魔法後進国だが、凶悪な邪霊どもを棲みつかせている。我らが真に警戒すべき相手は、地下迷宮で遭遇した小鬼のようなクソガキだ。いや…。クソガキみたいな小鬼か…?」
忌まわしい記憶をなぞるフレンセン隊長は、ひとりで船首に向かい、ゆっくりと足を進めた。
「うーむ。どちらだと思うかね。ヘイム副長…」
近くにヘイム副長の姿はなかった。
メルの幼児拳で叩きのめされ、地の妖精たちによって土中へ呑み込まれた結果、特殊部隊の隊員たちは多かれ少なかれ精神に異常をきたしていた。
ミッティア魔法王国の船員たちは、可哀想なフレンセン隊長や特殊部隊の隊員たちを遠くから見守っていた。
◇◇◇◇
ウスベルク帝国大使のリーデル子爵は、ミッティア魔法王国の特殊部隊メンバーや釈放された工作員と共に、帆柱がない魔法船で海上を運ばれていた。
潮流が激しいヴェルマン海峡を越えるには、頑丈な船体と安定した船速が要求される。
ウスベルク帝国の帆船では厳しい条件を満たせず、航海の安全が保障されない。
だからウスベルク帝国では、ミッティア魔法王国から魔法船の使用許可を購入していた。
情けない話ではあるが、船員までミッティア魔法王国の人間を雇わなければならない。
(魔法後進国は、何処までも肩身が狭い…!)
豪華な貴賓室を割り振られたリーデル子爵は、見せつけられた技術力の差に打ちのめされて、のんびりと寛ぐ余裕などなかった。
「ちくしょぉー。私もミッティア魔法王国に生まれたかった。そうすれば、こんな惨めな思いをしないで済んだのに…」
ベッドに転がって嘆くリーデル子爵の横で、小さな羽虫がホバリングしていた。
コバエに似ているからとメルが、ベルゼブブの名を取ってブブちゃんと命名したマイクロ・ドローンだった。
その正体は、カメラマンの精霊が生みだした孫機である。
ウスベルク帝国を情報管理下に置いたカメラマンの精霊は、勢いに乗ってミッティア魔法王国までも監視しようと目論んでいた。
この野望にユグドラシル王国国防総省が便乗したのは、遠大な計画を視野に入れての事であった。
時々刻々と集められたデーターは、リアルタイムでユグドラシル王国国防総省の危機管理局に転送される。
そこで妖精たちが諸々の可能性を吟味して、『問題あり!』と判断されたなら直ちに妖精女王陛下のもとへ報告が届く。
ミッティア魔法王国の魔法船には、三機の探索機が潜入していた。
精霊樹が存在しない土地では、カメラマンの精霊も活動に縛りを受けるから、お試し部隊である。
既に九十機のブブちゃんたちが船内に放たれて、魔法船の操作方法から構造まで調べ尽くしていた。
〈ステップワン終了…。これよりステップツーに移行する。強制念話の実験許可を求む!〉
探索機八号が、危機管理局のオペレーターに念話を送った。
〈こちら、危機管理局です。『天の声』を実験する許可は下りています。ステップツーを開始してください〉
〈了解した。『天の声』を始動する〉
探索機八号と通信を共有しているブブちゃんが、リーデル子爵の頭に接触した。
そして、強制念話によるコミュニケーションを開始した。
〈クリストファー・リーデルよ。ワタシの声が聞こえるか…?〉
ブブちゃんが念話で語りかけると、リーデル子爵は勢いよくベッドから跳ね起きた。
「だっ、誰だ…?」
だが周囲を見回しても、それらしき人影はなかった。
別室に従者を待機させていたので、そもそも部屋に居るのはリーデル子爵だけである。
〈クリストファー・リーデルよ。ワタシを探しても無駄だ。オマエにワタシを見ることは、叶わぬ。何故なら、ワタシは神だからである。分かったなら、床にひれ伏すがよい!〉
リーデル子爵は狼狽えた。
両手で耳を塞いでも、頭の中に荘厳な声が響く。
〈ワタシに従わぬなら、オマエの未来には破滅しか用意されていない〉
「ひぃー。やめろ。私の頭から出て行け!」
リーデル子爵が頭を掻きむしるとブブちゃんは空中に退避し、やめた途端に元の位置へと戻る。
〈無駄なことを…。抗ったところで、意味などないと言うのに…〉
リーデル子爵に逃げ場はなかった。
何をしても神の声は止まらない。
「はわわ…っ。どうして、私を苦しめるんだ…。なぜ、私なんだ…?」
リーデル子爵は、いつの間にか見えない相手に問いかけていた。
〈ワタシは、オマエに使命を与えようと考えている。それは救いでもある〉
頭に響く声が告げた。
「使命だって…。アンタ、本当に神なのか?」
リーデル子爵の抵抗は、弱々しいモノに変わった。
〈ワタシが神でないと疑うのなら、テーブルに置かれたグラスを見るがよい〉
ブブちゃんは水が入ったグラスに、エアブレットの弱を発射した。
孫機は出力が低いので、それしか出来ないのだ。
だけど、精霊魔法の効果は、覿面だった。
「ウォーッ!水が、飛び散った」
神を名乗った存在は、リーデル子爵の正気を蝕んだ。
それはもう、吃驚するような勢いで…。
「ほ、ほ、ほっ、本物かよ…?いや…。神さま、失礼いたしました!」
とうとうリーデル子爵が敗北を認めて、貴賓室の床にひれ伏した。
それでも自分の行動がおかしいことは薄々自覚しているようで、頻りと周囲の状況を確認していた。
(こんな場面を他人に見られたら、頭がおかしな奴だと思われちまう…!)
リーデル子爵の心配は、的を射ていた。
衆人環視のもとでは、神に命令されたなんて口が裂けても言えない。
これこそが秘密裏に人を脅迫して操る、『天の声』であった。
ユグドラシル王国国防総省はミッティア魔法王国を切り崩すために、全力を挙げて強制念話の開発に努めてきた。
その成果は、ユグドラシル王国国防総省が望んだとおりのモノだった。
危機管理局に詰めていたヒャッハーな妖精たちは、ミッションの成功に歓声を上げた。
これでピクスにされてしまった仲間たちの救出へ、一歩近づいた。
誤字報告をして下さる方に感謝です。
本当に、ありがとうございます。
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